哲学の最期 <旧い知を往生させ、新しい知を>
2013-04-29T07:43:20+09:00
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潔く、徹底的に、、(ワモンアザラシも応援!)
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二元論の新しい可能性
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2013-04-29T07:43:20+09:00
2013-04-29T07:43:20+09:00
2013-04-29T07:43:20+09:00
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科学により否定された、信教の自由によって許された哲学思想である。
なぜ否定されたのか。
それは科学的に物質からすべてを説明することが可能になったからである。
世界の中で起こったことは物質で説明できる。
人間の心も説明可能である、はずである。まだできていないが。
その流れで、すべて圧倒的な勢いで来ている。
幼稚な主客未分の世界観にのみ、非科学的な二元論は要請されるのであり、人格思想ともに劣っていることの証明となっている。
たしかに、科学の限界を指摘しつつ、可能性としての二元論を学問的に証明するには、認知科学や科学論、ハイデッガーに至る存在論に通じていて、それでもなお、というくらいのものが必要であるが、何も知らないで言っていることがすべてである。
前置きが長くなっているが、さらに前置きすると、二元論が好きな人は一元論というか、科学的な世界観が嫌いな人である。ハイデッガーの不安な死の世界観はさらに嫌いである。むしろエピクロスのようにしを軽く考えてくれる人間の方が害がない、と思っている人々である。
どうしてハイデッガーの存在論や認知科学による人間の神経過程としての理解なんか研究するだろうか。
このことによって、二元論の学問的可能性は絶たれたままだといえる。
だが、逆に、現代の科学、物理学やハイデッガー、認知科学、脳科学を超えた向こう側にある可能性はある。これまでとは根本的に違う、全く新しい二元論である。
宇宙はいかにして誕生したのか?
現在物理学においてビッグバンまでの物質生成過程が懸命に計算されている。
この計算は、しかし、ビッグバンの前にまで遡ることができるのだろうか?
ビッグバン以降なら計算できる。
だが、その前にまで計算が可能かどうか、宇宙の中には計算可能であることを検証できる何の手がかりもない。無論、今のところ。
このことから、計算しようもないし、計算する意味もないと考えられてきた。
だが、この宇宙が生まれるためには、外部の宇宙、あるいは世界の存在が必要とされることが計算されつつあるという。
考えてみれば、当たり前だが、完全なる無、世界も何もない無から世界が生まれることはない。
我々の理性がこの宇宙の内部限定のものであっても、それくらいの推論は許されるはずである。
ただし、宇宙が他の宇宙の影響で直接産み落とされるのではないらしい。
この宇宙どうしの存在論的な因果関係は直接でない限りにおいて、我々のよく知る因果関係ではない。
新しい可能性因果関係であり、宇宙の存在を生み出す、全く新しい存在論的因果関係である。
我々の生きる宇宙の中では、すべてが物質的過程として過ぎ去る。
目的としての存在など存在しない。
人間の心は神経過程であり、それは私なんてものは究極的には存在しない幻想であることを証明している。
だが、その過程自体が、この宇宙とは別の宇宙、世界の存在によって存在し得ているとしたならばどうだろうか。
過程としては繋がっていないが、存在の根拠として「存在」する別の世界があるにである。
我々が科学的世界観の絶対支配によって説明しようがなくなってしまった実存、魂、あるいはクオリアは、しかし、この物理学による別の宇宙の可能性によって、改めて検討の余地を見出したと考えても良いのではないだろうか。
すべては物質的過程として流れされ世界。
脳の神経過程も然り。
しかし、それらの過程の根拠としての存在は別世界にある。
新たなイデア界とも言える。
その魂の世界にこの過程が映し出される目的の世界がある、とそこまでいえば言い過ぎかもしれないが、単なる物質の過程に回収できなかった何かが、新たな宇宙の可能性からうまれることになる。
別の宇宙はこの宇宙から隔たったところにあるわけではない。
なぜなら、宇宙は空間の中にないからである。
宇宙は我々に知らない仕方で多くの次元を持ち、さらにこれがたたみ込まれていると言われている。
別の宇宙との隔たりが我々の想像を超えるものであることは当然である。
無論、二つが重なっていることもあり得る。
原因としての宇宙と結果としての過程の宇宙。
存在する宇宙の根拠と、現象する過程の宇宙。
新しい二元論は我々に日常的思考を超えた、プラトンも想像していなかった新イデア論かもしれない。]]>
格差デモに対する金融関係者の焦燥
http://leben.exblog.jp/13824973/
2011-10-17T09:30:00+09:00
2011-10-17T12:44:56+09:00
2011-10-17T09:30:38+09:00
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具体的な政策などへの反対ではなく、社会のあり方に対するデモである。
したがって、デモは容易に収束することはない。
おそらく、参加者もいつこれが終わるという見込みを立てることはできない。
だが、それでもデモが行われているということが重要である。
格差があることに対する不満というのは、ただ格差に対するものではない。
金融投資機関であれ、企業のトップであれ、金融商品を売り買いしている人間が大金を得る。
このことが問題である。
誰でも出来る仕事である。
知識や経験は特別ではないし、尊敬すべき要素は全くない。
また、特別の社会的な責任果たしたり、貢献したりすることもない。
彼らはいなくてもいいし、特別でもないし、尊敬も出来ないし、あるいは、そういう職を選んだところは軽蔑される、と皆が考えているのである。
たしかに、金融は正業ではなかった。
働いた分だけ収入を得るのが正業である。
皆が不労所得を求める社会というのは、当然腐った社会と言うべきである。
それが、今や額に汗をする職に着いていると、直ちに貧困に陥るのである。
一方、不労所得者はアホのような金を握り、いまや、彼らが世界経済を崩壊させようとしている。
デモは金融資本主義が終焉するまで続くだろう。
また、これを支持する理論、論理が後からついてくる。
不労所得を得て得意になってきた輩が、テレビやインターネットで腐った発言を繰り返している。
デモはむちゃくちゃだとか、適当な連中がやっかみで暴れているとか。
思想的にも主張的にもバラバラで、働いてもいない若者ばかりで、
こんなものは気にすることはない、と。
こういった発言は労せず利を得てきた人間が、自分たちのインチキな収入を正当化する理屈がなくなってきた焦りである。
利ざやで稼ぐ業界に関係している人間に限って、そういった憎悪に満ちた醜い発言をしている。
そもそもおかしいのは、実体経済以上にそういった利ざやで稼げるという状態である。
それは当然まともではない。
経済の発展によって利ざやが発生するのはまともである。
現在のマネーゲームは、マネーゲームを発展させることで、
偽りの信用が拡大し、そのことによって理ざやを得ているのである。
信用は確かに重要なものだが、実際にある富を何倍、何十倍にしてしまう。
それは当然危険である。
目の前に10㎏の米があるとする。
そして、10㎏の米を買うことが保証されたお金があるとする。
すると、実際には10㎏の米しかないのに、10㎏の米の二倍の価値が存在することになってしまう。
さらに、そのお金を誰かが借りる。
すると、貸した人には債権という形で、そのお金分が保証される。
借りた人はいつでも米が買える。
米を持つ人には当然米という価値が存在している。
これで米の価値の3倍の価値がこの世に存在することになる。
通貨と信用で3倍にふくらんだのだ。
借金の分で相殺してはいけない。
すると、信用というものが相殺されて計算できなくなってしまう。
金を返済するまでの間のことだけ考えればいい。それが信用である。
更に債権者が債権を売るとする。
そして債権者は米を買える金を手にする。
債権を買い取った人間は米を買うことの出来る金分を返してもらう権利を受け継ぐ。
この段階で4倍にふくらんでいる。
こんな事が続いていけば、信用が本当に存在する価値の何倍もの価値を作り出すことになる。
それがどんどん膨らんでいく過程で利ざやが生まれていく。
単純化すればそういうことだ。
この膨張を人工的に行って、その膨張分がウォール街やらで分配されている。
そして最後にこれが爆発。
ウォール街で分配されたお金以外に、極端を言うならば米だけしか残らなくなる。
これがいま起こりつつあることである。
これは世界史的な出来事の発端になるだろう。
この時期にむちゃくちゃな発言を残さない方がいい。
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世界的経済危機の極限状態
http://leben.exblog.jp/13102711/
2011-07-19T09:20:20+09:00
2011-07-19T09:20:21+09:00
2011-07-19T09:20:21+09:00
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なんだ、大丈夫じゃないか、というのは、日本のバブル、アメリカの住宅バブルの時も聞かれた声である。
14億もの人口があると、どこかにしわ寄せをすれば、バブルも継続できるのだろう。
しかし、いまや何がきっかけか、という状況である。
上海万博はきっかけにならなかった。しかし、山は越えたところだということだろう。
ギリシア、アイスランド、ポルトガル。おまけにイタリアまで来て、USAまでぎりぎりの財政である。
いや、どこからか崩壊が始まれば、連鎖的に倒れていくはずである。もちろん、中国まで行く。
こうなると、世界経済危機については「来るのか?」ではなく、「いつ来るのか?」になる。
いや、もはや「世界経済危機が来たらどうするか?」であり、「危機が来たら、助かるのはどこか?」となり、「誰が得をするのか?」、そして究極的には「誰が計画したのか?」、そこまで踏み込んで考えるべきだろう。
今日の民主主義を基盤とした大なり小なり、いずれにせよ福祉や軍事、経済基盤を整備する国家とこれを前提する世界市場経済は破綻する。
破綻したらどうするか、だが、漸進的変革はもはや不可能とわかったのだ。
いったん崩壊させて、食糧危機などに気を配りつつ、再構築する、これが現在の世界の課題になっている。
蓄財も、買いだめも、すべて役に立たなくなる可能性がある。
やはり、金へ向かうべきか。
しかし、経済システムがカタストロフに至れば、処分することが難しくなる。
先の先、そしてその先まで考えて、腹をくくる必要がある。
本当に2012年が転換の年になるかもしれない。]]>
災害と人の死
http://leben.exblog.jp/12305969/
2011-03-22T09:42:57+09:00
2011-03-22T09:42:59+09:00
2011-03-22T09:42:59+09:00
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親族や友人が被害に遭い、あるいは行方不明になった人々にとって大きな衝撃である。
あるいはそうでない人々にとっても、つまりこのニュースに接するすべての人々にとっても、大きな衝撃である。
親しい人を失った人々にとって、何万人の被害があろうとも、それは問題ではない。
その人を失ったことが問題だからだ。
一方、親しい人を失わなかった人にとっては、被害にあった人々の数に大きな衝撃を受ける。
その数字は、自然の力で命を失うことの「確率」の高さ、つまり、人間の自然に対する無力さがそこにあらわれている。
親しい人を失った人々も、その不条理を嘆くことから、人間の運命の中での圧倒的な弱さに気付くときが来る。
一方で、被害者の数に衝撃を受けていた人々は、その一人一人が一つ一つの人生を生きていて、その死を迎えたことを理解するようになるだろう。
結局、人間は自分だけの人生を生き、自分だけの死を死ぬ。
それが災害であろうと、病気であろうと、変わらない。
災害に遭わなければ、人生の最後の瞬間は納得のいくものになるわけではない。
我々の死は、常に厳粛で、あっけなく、自然なものだ。
こういったことが、改めて認識されると、人々の人生に対する意識も変わってくるだろう。
思想も哲学も、本来の人間を見いだすことになる。
あっけなく はかないもの、その意味を見いだすことが重要だ。
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哲学、、、だった
http://leben.exblog.jp/12250530/
2011-03-10T10:08:40+09:00
2011-03-10T10:08:41+09:00
2011-03-10T10:08:41+09:00
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といっても、その最期であるが。
ニーチェ本が売れている。
癒されるそうである。
ニーチェも役に立つものだ。
いや、いまどき、どんな「哲学」でも役に立つものとして売り出されている。
役に立つ、というのは、今時は癒される、ということである。
現代は人間の心を疲れさせ、病ませる。
これが一つの条件である。
そしてもう一つ、哲学であろうと宗教であろうと、ありとあらゆるものを道具として使用する。
これが二つめの条件である。
マルチン・ハイデッガーは集立という言葉で現代を表現した。
たしかに、ニーチェの思想であろうと、あるいはハイデッガーであろうと、癒される部分だけ持ってきて、わからない部分はきれいに捨てて、適当な言葉を付け足して、マンガもつけて、、、、
そうして、ニーチェやハイデッガーまでもが存在させられている。
哲学とは役に立つ、哲学は癒される、哲学は楽しい、哲学は、、、、
逆に、役に立たなければ哲学ではない、癒されなければ哲学ではない、楽しくなければ哲学ではない、となる。
終いには、つまり最期には、哲学の目的は人生に役に立つこと、就職に、落ち込んだときに、暇なときに、などなど。
別に哲学でなくても、すべてそうである。
学校も、勉強も、学問も、就職も、結婚も、子育ても、定年も、そして老後と人生の最期も。
すべて、癒されて、楽しくて、おもしろくて、、、、でなければ、と。
果たしてそうだろうか?
ニーチェの言った生は、たとえば岡本太郎的に表現すれば、痛切なものである。
そのリアリティーを生とよんだ。
夢うつつの宗教的妄想を切り裂き、まじまじと生を見つめたのである。
それが果たして万人にとって心地よいものであろうか?
誰にとっても心地よくない。
ハイデッガーに思想も、重い不安を耐え抜く。
生の自覚、存在の自覚であり、覚悟と根性、勇気、力があるものだけ過一見ることが出来る「深淵」である。
結局、人格的に選別される。
その人にその人の力量に応じた哲学、だが、ハードルはかなり高い。
哲学は万人に到達可能な知識ではなく、やはり「学問」、人間の道である。
それにしても、ニーチェ、ハイデッガーはフィロソフィーの最期であり、
学問の入り口にしか過ぎないのかもしれない。
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ブログ、ツイッター、フェイスブック、、、
http://leben.exblog.jp/12239739/
2011-03-08T10:12:02+09:00
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このHPもダラダラと、思いついたように書き込んだり、忘れたりと続いてきた。
そして、いつしか目的のあるブログが残り、本当にダラダラしている戯言、戯れ言はツイッターに移っていったようである。
たしかに、ブログにまともに書き込むのは面倒である。
一応、文章としての作法が必要で、文を書くだけではいけない。
一言だけなら、文章を書くときの構成とか考える必要がない。
何かしらのテーマについて書き抜く見識は必要がない。
誰でも書き込める。
その前兆として、ブログの書き方が変わっていった。
一言書き込んでは、改行を繰り返し、文どうしのつながりを断ち切っている。
ある程度のテーマはあっても、文同志の論理的な関係や全体的な構成を拒絶している。
拒絶というか、面倒くさいので、つなげないのである。
誰でも書くことが出来るのがブログだったが、
文章は誰にでも書けるものではなかったのだ。
まさに文章は人間の知性そのもので、つぶやきにはアイデアはあっても知性は無いのである。
文章を書かなければ表現できなかった時代は、文章を操ることの出来る人間の天下だった。
しかし、その特権はいま不平等なものと認識されつつある。
その実体は、文章力の低下、見識の低下であり、新聞の社説など以前なら三流週刊誌のとんでも記事なみになっている。
文章に力を入れて新聞の見識を競った時代は終わった。
そんな見識を大学で育てなくなったからでもある。
いまどき、文学者も平たい文章で、平たい内容で薄利多売の時代である。
読み手も書き手も衰えてきた。
これがネット時代の知性レベルなのか。
さらにツイッター、フェイスブックで平たくなっていくだろう。
独裁者がいなくなって、平たくなるのは良いが、知性を平たくするのは人類文明にとって決定的な問題になるだろう。]]>
教育制度崩壊へ
http://leben.exblog.jp/12141462/
2011-02-19T02:02:05+09:00
2011-02-19T02:02:03+09:00
2011-02-19T02:02:03+09:00
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そのうちに、である。
が、確実に、でもある。
そして、いつの間にか、そうなるだろう。
それは人間が変質したからである。
質が下がったとか、変わったとか、そういう単純な話ではない。
本質が変質したのである。
哲学的に言うと、本質なるものがあって、それが変質するなんて事はありえない。
もちろん、ここで言う本質とは、人間を成立させるもっと野根本的な性質のことで、プラトニズムとは関わりはない。
戦時中、国を守るために死んだ若者がいた。
国というと、廃仏毀釈で純粋化された「国家神道」という明治以来の「神話」と近代国家理念のまさに混淆物であり、そんなものを信じていたのはほとんどいなかっただろう。
そうではなく、そこでの国は、人と人がつながり作り出された社会のことで、一人一人がそれが確かに存在することを信じていた、目には見えないが確かな人間の人生のよりどころのことである。
そういう若者だけでなく、古い時代には信じられてきたそのよりどころを守るため、人々はその目に見えないものの実在を前提し、確認しながら己のあり方を定めてきた。
そういう人間が集って初めて高度に組織化された現代社会も営まれてきたのである。
しかし、団塊の世代はそうではなかった。
個人の自由の価値の対局に社会がすえられた。
そして社会は今無くなった。
あるのは「同好会」のような人の集まりだけである。
教育は人間の人生のよりどころを確信させ、心に深く刻みつけることを中心にしなければならない。
そうでなければ、社会が無くなるからである。
しかるに、学校では自由を教えるのみである。
このバラバラの、膠質を欠いた人間集団がいくらあつまったところで、バラバラの細胞が物理的に集まっているだけである。
社会にはなれない。
どんなに寂しくても、なれないのである。
昭和一桁がほぼ引退しつつある現在、社会は至る所で自壊を始めている。
つなぎがなくなったのである。
つなぎを入れないハンバーグはぽろぽろしている。
挽肉炒めの固まりである。
今後の社会も挽肉炒めになり、ハンバーグにはなることはないだろう。
そういう社会は、次世代を組織的に教育できるのか?
もちろん出来ない。そして教育なるものが何かさえわからない。
学問って、就職に役立つアレのことだよね。
そういうことにもはや半分なっている。
教育・学問はすでに死んでいるのである。
文科省にはこの傾向、つまり、自由を植え付け、社会を解体し、組織化する、という明治以来の恐るべき社会は改教育を変えなければならない時期にあることを自覚してもらわなければならない。
その前に、学者ががんばらなければならない。
巨大なサイエンスシステムの中でひたすら業績を積み上げるルーチンワークを行うのは学者ではないし、人間ではない。
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忙中閑あり
http://leben.exblog.jp/12121363/
2011-02-15T21:52:52+09:00
2011-02-15T21:52:49+09:00
2011-02-15T21:52:49+09:00
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とにかく、大変なことが続いたのだが、しかし、事態はそう簡単には動かなかった、
今週来週が一番の山場であるが、そして今現在も動いているが、
そういうときに限って一瞬の空白の時間がある。
世間も騒然としていて、大きな社会の変化が起きそうである。
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就職難時代に顕著になった世代間差別
http://leben.exblog.jp/10719553/
2010-05-31T08:55:52+09:00
2010-05-31T08:55:51+09:00
2010-05-31T08:55:51+09:00
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今の世代は次の世代に対し責任ある行動をしなければならない、ということである。
現在、我々はそうしていないからこそ、指摘されているのである。
ただし、環境問題という茫洋としてつかみ所がない問題だけに、その欠落は明確に意識されてこなかった。
だが、バブル崩壊、リーマンショック、ギリシア危機と経済の世界的な危機状態に際して、極めて明確に世代間倫理の欠如が認識され始めている。
10年前の就職氷河期から多少の回復はあったが、ここへ来て昨年の就職難、そして、今年は更に悪い状況が予想されている。
ここ10年、あるいは20年、大学卒業のタイミングに就職の機会を逃しただけの若者が、未来のない人生を送ることを強制されている。
もしかして、どこかの会社に就職したりしていれば、彼らはまじめに働き、今頃は結婚し、家庭を作って子どもを育てていたに違いない。
卒業後3年は新卒扱いをするよう求める法律など検討されているようであるが、非本質的である。
なぜなら、問題はそこにはないからである。
社会が若者に仕事を与えることを真剣に考えていないことが問題なのである。
現在50代後半から60代の団塊の世代とその前後の世代の人生を振り返ってみればよい。
彼らは大学を出ていれば文句なく、高校卒業なら当たり前のように、そして中学卒業でも金の卵として就職し、みんな毎年給料が上がっていった。
一方で、彼らは自由を謳歌し、社会的な義務や責任を逃げていった。
そして今だに彼らはそんな調子である。
子どもの世代が就職できずに、時間雇いのアルバイトで食いつなぎ続けているのを無視している。
自分の老後の悠々自適の生活だけが彼らの関心である。
もはや回復できないほど彼らの人生の可能性は傷ついてしまっている。
それは老人達の老後の犠牲になったのだ。
本来なら若者にいかにして一生続けられる職を与えてやるのかに年配者の関心がなければ行けないはずである。
機械化以前の農業では、働き手は大変重要であった。
農業が機械化され、人間が必要なくなる過程で、第2次産業が余剰の人間を吸収していった。
都市に人口が集まり、そこで子ども達は生まれ育った。
大手の企業から徐々に機械化、ロボット化していった製造業は、バブル崩壊後、合理化、リストラという言葉を錦の御旗に、従業員を削減していった。
特に新規採用を減らし続けた。
人間の代わりに機械が働いてもうけさせてくれるからである。
その利益を享受するのは団塊の世代以上だけであった。
第2次産業から多くの人間が第3次産業へ移動した。
人間がまだ必要なのは第3次産業だったからである。
工場へ就職すすはずだった人間は、今はスーパーなどの流通産業に就職した。
しかし、最終的に流通産業も極端に合理化し生き残った大手以外は消え去ったのである。
つまり、最終的に、人間が必要なくなったのだ。
ただし、接客だけはまだ人間が必要である。
だからそこはマニュアルによってアルバイトが担当するのである。
このようにして、若者は仕事を奪われ、老人がその利益に預かっている。
その老人が職のない子どもを養っている。
あと10年、あるいは20年で社会は崩壊する。
このように世代間の格差の問題として考えると、就職難は極めて絶望的な社会のゆがみの問題であり、老人が若者の未来を奪い奴隷化するという、これまで人類史上見たことのない状況であることがわかってくる。
世代間をつないでいく倫理を拒絶した団塊の世代が最終的に残したのは、こんなに無惨な状況だったのである。]]>
appleコンピューター
http://leben.exblog.jp/10407474/
2010-04-13T14:58:02+09:00
2010-04-13T14:58:03+09:00
2010-04-13T14:58:03+09:00
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アメリカではもう発売して、やっぱり売れたようである。
iMac以来、つまり、ジョブスが帰ってきて以来、こういう新製品発売時の大騒ぎは恒例になっている。
私も初代iBookとか初代MacBookProなど、発表と同時に予約購入している。
いわゆるエバンジェリストということになるのか?
一昨年はアップルストアで福袋の購入に成功した。ネットのほうの。
昨年末は中止のこの福袋の購入難易度は相当なもので、獲得は執念の賜物と言ってよい。
iPodについては当初、そんなに評価していなかった。
というか、当時はあまり音楽を聴かなくなっていたので、興味が薄かった。
アプリがそろってから、iPod touchを福袋で手に入れたくらいで、
iPodに関して言えばエバンジェリストでは到底無い。
アップル社については、もう30年ほどになるが、購読していたマイコン雑誌の「I/O」誌にApple IIのグラフィック性能が紹介されていたところから認知していた。
イメージは、アメリカの先進的な技術はグラフィック志向なんだなー、という感じだった。
シャープのMZ80、NECのPC6001(だっけ?)にグラフィックのボード、というか装置をつけて、というような広告がこのI/Oに載っていて、すごい、とか思っていたのが、Apple IIはそんなの無しで美しいグラフィックをやっている様子。
アメリカはすごい、という印象があった。
その後、グリーンモニターのマッキントッシュなんかがそこそこの値段で手に入るようになり、インターネットによる電子メールの普及とともに、iMacが爆発的に売れて、本当にメジャーな企業として認知されるようになった。
こうなると、以前からおもしろがっていたあたらし物好きの人々は距離を置き始める。
なんか、面白くないのである。
PowerMacの為にナナオの17インチモニター20万円を購入したときの勢いは、今何処。
ただ、おもちゃ然としていたiPod touchと違ってiPadは「新しい道具」見たいな印象である。
コンピューターとは用途が違いそうだが、今後、他のメーカーから同じようなのが出てきそうだ。
値段がコンピューターとくらべて安いのもポイントだ。
珍しいだけで20万円は出せなくても5万円は出せる人も多いだろう。
別にAppleのファンでなくても、買ってもいいんじゃないか。
そういう訳で、日本でもiPhone以上に普及すると思われる。
私も、sigmaの一眼レフSD15かiPadか迷いながらも、
結局購入するのではないか、と恐れている。
いや、どっちも買いそうである。
どことなく、Appleのマーケティングにしてやられている、という気がしないでも無い。
しかし、Appleだったら許す?
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勇無きは仁無き。仁無きは勇無き。
http://leben.exblog.jp/9544946/
2010-01-01T00:37:00+09:00
2010-01-01T00:38:48+09:00
2010-01-01T00:37:55+09:00
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人の為であるならば、己自身の不利益は二次的な問題となる。
つまり、一見勇んだ行動が出来る。
勇んだ行動の為には、他者を尊重し、己を捨てる態度転換が先攻していなければならない。
勇と仁とは不可分のもの。
むろん、危険をおかす無謀さは勇ということはできない。
論語に言うことは、結局仁あるものだけが納得できることであり、
心ある人のみに向け発信されたメッセージであったのかもしれない。]]>
老兵は死なず
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2009-07-04T15:31:59+09:00
2009-07-04T15:31:55+09:00
2009-07-04T15:31:55+09:00
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哲学は、今や老兵である。
華々しく戦死するというようなことは無い。
ただ、消え去り、忘れ去られていくだけである。
それが、哲学の最期なのかもしれない。]]>
日本の封建制が完全に終焉する!?
http://leben.exblog.jp/8413500/
2009-06-16T00:13:09+09:00
2009-06-16T00:13:11+09:00
2009-06-16T00:13:11+09:00
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それは昨年末から春にかけてである。
ところが、最近は経済に復調の兆し、などとマスコミはアホなことを言い始めた。
結局、一部の弱者以外にはそれほどの影響がなかったからだ。
給与は維持されたからだ。
不必要な贅沢などは忌避されているが、ゴールデンウィークも普通だった。
しかし、日本では賞与で調整が為される。
だから、夏のボーナスが問題なのである。
バブル期に現在の何倍もの価格で家を購入しローンを組んだ人々が危機である。
そして、米国のリアルエステートブームに影響されたミニ不動産ブームにのっかった人々が危機である。
家賃を払い続けるよりも、同額を払って物件を手に入れた方がいい、とか言われて、真に受けた人々である。
ボーナス併用払いで、そのボーナス付きの払いが大きい。
ボーナスが削られたら、もはやどうしようもないほど、厳しい返済計画の人は多い。
家を買ったら、後は別に大きな買い物はないし、光熱費や食費、教育費と交通費プラスアルファが毎月確保されれば、いいんだから、買っちゃえ、と。
いざとなったら家を売ればいい。
しかし、不動産価格が下落し始めたら、売ってもどうしようもない。
そして、現在不動産下落中でデベロッパーや建築業界で大型倒産続出。
アウトレット物件市場まで登場し、もう完全に土地建物がだぶつき始めた。
そして、ついに個人のローンが破綻し始める。
日本にはサブプライムはないから、完全な取りっぱぐれはないだろう。
金融機関は土地建物をたくさんいただくことになる。
それを売ろうとする。
売れないので値引きする。
市場が下落し、返済不能で担保を取られて、なお借金を残す人が増加する。
何とか返済している人々も、下落しきった土地建物に大金を払い続けることになる。
虚しい、奴隷的状況である。
結局、不動産を借金で購入するという事なんて、愚かなことなのだ。
土地がそのままに財産であった時代は、江戸時代までの封建制の時代、そして、地主が小作に工作させていた農地改革までの時代、そして都市部に人口が集まって、住宅や商業地が必要となった高度経済成長期、これだけである。
前二者は、農業国であった時代であり、後者は、日本が成長期にあった極めて短い期間である。
特に、日本が農業国から工業国へ社会構造を変化させ、都市部に産業、商業、住宅の三地域を合理的に計画し、その仕方で拡大させていったその時期だけ、ということが出来る。
成長しなくなったら、途端にニュータウンは廃れ、郊外の住宅は放棄された。
商業地に居住できれば、それは当然便利である。
更に言えば職場に近い方がいい。
機能分離は誰も求めていなかったのである。(売る人以外。)
話がそれた。
今日の住宅は五〇年もたない。
税金払っていれば、相当稼ぎ出す土地でもない限り、何十年もする内に土地の価値を越えてしまう。
つまり、購入して、自分が死ぬ頃にはチャラになっているのだ。
相続の時、それははっきりする。
自分が生きているときだけの、幻想の財産である。
その幻想は、鎌倉以来の封建制が作りだした、古い夢だ。
しかし、ここで完全にその幻想が目の前で打ち砕かれるなら、
今後、もう、戸建て住宅、マンションなどの異常な価格は戻ってこない。
なんで何十年かすむだけに、安普請住宅に何千万も払わなければならないのか?
そして、信用経済のリスクを我が身に一身に背負わなければならないのか?
封建制の残滓も完全に霧消だろう。
底なしの地価の下落が始まるかもしれない。
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2010年はこうなっている!?
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2009-05-17T22:22:23+09:00
2009-05-17T22:22:23+09:00
2009-05-17T22:22:23+09:00
lebendig
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皆、極度の近視になってしまっている。
近くのことならよく見える。
だが、遠くのことがよく見えていなければ、
近くに見えていることの意味はわからない。
我々は、近くのことばかり見ているようで、何も見ていないのである。
そして、もう一つ重要なことは、
多くの不確定要素は、
じつは確定要素だと言うことである。
本当は、よく見えるはずだ。
だが、見たくない。
だから見ない。
見ないものは見えない。
つまり、予測出来ることばかりなのである。
景気は、回復しない。
土地は上がらない。
米国に購買力は戻らない。
中国の経済発展も終わる。
ついでに言えば、食糧とエネルギーは足りなくなる。
失業者があふれ、社会が変質する。
日本は財政赤字で危機に陥る。
しかし、その相当前に、金融とモノの国際市場は極度に小さくなる。
予測をごまかす些細なことばかりが報道される。
しかし、可能性があることは実現する。
現代社会はダチョウなみの、
退嬰的社会であった。
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高速道路の通行量、激減
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2009-05-16T02:55:06+09:00
2009-05-16T02:55:05+09:00
2009-05-16T02:55:05+09:00
lebendig
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だが、東名高速道路では、平日昼、あるいは深夜、明らかにトラックが減っている。
というか、スカスカである。
高速料金が高いから、国道1号線でも使っているのかと思いきや、そうでもない。
たしかに、浜名バイパス、岩田バイパス、藤枝バイパスなど全部無料化されてから、
相当増えているはずだが、そんなでもないのである。
明らかに、モノが動いていない。
東名で動いていないなら、どこでも動いていないはずである。
京浜工業地帯の産業道路もスカスカである。
こんな状態で、現在の産業は成り立っていくのだろうか?
いや、成り立ちはしない。
大企業が内部に留保された利益をはき出してしまったら、
とんでもないことが次に起こることになる。
失業者、信用不安、倒産、自殺、治安問題、、、
昨年末からそういう傾向だったが、
連休明けで大変なことになった。
あんなには知っていたトラックはどこへいったのか?
こんなに実感されたのは初めてである。
このさき、もしかすると交通量が戻ることがないかもしれない。
5年前はとんでもなく混んでいたのに、、、
環境には優しい。
しかし、社会が混乱すると環境は破壊される。
はたして、これからなにがどうなるのか?
民主党はこのとんでもない社会崩壊を引き受けて、
新しい社会を建設できるのか?
いや無理だろう。
なるようにしかならないかもしれない。]]>
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