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ジャーゴン哲学(ジャーゴン学問)のわかったつもり読者

ぶっちゃけた話、ジャーゴンでグジャグじゃになった、はやりっぽい思想書ってのは糞だね。

いや、昔は「オレには文脈が飛んだり、レベルの違う概念が無理矢理くっつけられたりしてるように見えて、納得できないけど、でも、わからないオレが馬鹿なのか?」と思っていた。
しかし、馬鹿はやはり向こうの方だった。
そして、やっぱりジャーゴンはがらくたのくずだったのである。

そりゃそうだ。言葉は何のためにあるのか、議論は何を目指すのか。
議論すれば議論するほど、複雑さを増す、というのは、昔からダメと言われてきた。
しかし、なんかそういうグジャグじゃした議論をする連中というのは群れていて、互いに讃え合ったり、支え合ったり(なめ合ったり)して、そういう世界が盛り上がってる風に見せようとしているものだから、素人に毛の生えた学生なんかは、そっちをありがたがったりする。

しかも、読んでる半可通は、わからないもんだから(「わかる」という奴の方が本当は頭がおかしいのだが)、めちゃくちゃな議論でもわかってるふりして、もう気持ち悪い状態である。
いや、いっそうかたくなに「えっ!キミわからないの!」みたいなポーズである。
まぁ、わかってる私って、頭よくて切れ切れで、とんがってる?!なんて、スノッブ野郎に、まともな奴がいる分けないのであって、だったら、そんな奴らがかぶれる思想がまともな訳も無く、後から考えれば当然だったのだが、、、、

だが、この業界でそういうジャーゴン好き連中の動向を見ていると、ジャーゴンやそれを「駆使」する「現代思想」系の人たちっての自体が、使い捨てなのである。
馬脚が現れる寸前にさようならである。
10年20年のスパンでみていればわかる。

さらに言えば、多少はそれよりまともな、はやりの「哲学」なんてのも、ジャーゴン臭い言葉があったら、やっぱり20年30年のスパンでみると、ハイさようなら、である。
もちろん、そんな哲学に青春を捧げた人々は、終わってしまったそんな哲学にでもしがみつき続けるし、本とか出して盛り上げようとするから、一見しては終わってしまった哲学というのには気づかない。

だが、哲学というのは結果勝負である。
カントは哲学することだけ教えられる、なんてこと言った。
これに、なるほど、と言ってしまう人が非常に多い。
しかし、これは無責任なレトリックである。
哲学はやはり結論である。
魂があるとか、永遠であるとか、嘘の答えを出してきた哲学は、いらんのだ。
そして、その嘘の妄想的な答えに到達する過程は、いらない。無意味である。
それが糞だったから、糞な結論に達した。

終わってしまった哲学に青春を捧げた「哲学者」たちは、戦略を変えて、答えではなく、議論の過程をたどることが重要だとか、倒錯した哲学を唱える。
だったら、それは仏典であれ聖書であれ、奥の細道だって、インディアンの民話だって、何だっていいのである。
むしろ、倒錯した狂信的「哲学者」の屁理屈のごみために頭を突っ込む必要は無い。
そこには、目先の理屈と、傲慢と不遜さ、そして屈折したルサンチマンがあるだけである。
哲学なんて、答えが嘘だったなら、本当に最低で趣味が悪く、気持ち悪いものにすぎない。
過程そのものが腐っている。
しかし、そのごみための言葉の半分が、自画自賛であり、それをそのまま受け止めるお人好しが多いのだ。

お人好し?

自己愛過多の「お人好し」である。


やはり、言葉には誠実にあらねば、そしてその言葉の意味を徹底的に考え抜くのでなければ、哲学は成立しない。
言葉を消費していく「思想」には、学問、問いへの「愛」がない。
勝手に作った腐れジャーゴンは、ポイポイ使い捨てられて、さぞかし無念であろう。
そのうち、ジャーゴンの怨念にたたられるのではないのか。
ジャーゴン神社でジャーゴン供養でもすれば良いのではないか?

言語とか現象とか、そろそジャーゴン慰霊墓苑が必要な頃だろう。
by lebendig | 2006-12-10 22:30
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