人格とは?
わかる訳が無い。 人間とは?私とは?これがわかってないのに。 いや、これは社会一般における理解でもいい。「本質」から理解する必要はない。 一面、これは社会的なものだからだ。 そちら側から「本質」へ向かえばいいのではないか。 ところが、しかし、何度も言っているが、社会において「人格」が問題にされていないのである。 もちろん、対人トラブルを引き起こし続ける「人格上の問題」なんてものはよく論じられたりする。しかし、何が目指すべき、あるべき人格か、という問いかけにはお目にかかった事はない。 そして人格者にもお目にかかった事はない。 ということは、理解もできないし、さしあたっての理解もない、ということになる。 では、我々が定義しなければならない。 その前に、なぜ人格の陶冶がなされないのか、目指されるべき人格がないのか、について考えなければならない。 なぜないのか? それは、目指す事に、そしてそのような人格に「価値」が見いだされなくなったからだ。 メリットがない、利益がない。 しかし、何を人生の価値とするかは、むしろ人格に依存する面が大きい。 何の陶冶もなされていない人格にとって、人格の陶冶は無用である。 つまり、アホがイランといって、なくなったという訳なのだ。 しかし、人格の向上によってのみ人間は本質的な意味における人間的生、その「自由」を得る。 勝手気侭な自由は動物の自由であり、単なる自然現象だから、必然に支配されて自由はない。 しかし、人間的生、これは自然の必然を超える何かである。 これにおいて自然の必然に対する自由が得られるのだ。 一方、思索によってのみ自由が得られるとするテツガク者もいる。 いや、そんなのばっかり。 しかし、そのようなテツガク者たちは、エキセントリックな変人ばかりである。 つまり、自分の趣味嗜好、欲望感情などがコントロールできていないのである。 そして、彼らはその趣味嗜好、欲望感情に引かれて善光寺、ではなく、奇行をおこなうのである。 人格の問題故に、哲学的思索による自由が得られていない、どころか、むしろ不自由である。 (未)
by lebendig
| 2005-10-31 23:36
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