へこんだときこそ粘る

アホな仕事のせいでグチりブログになりそうだ。

アホにアホ言っても、アホ言う方がアホになるので、そのネガティヴなエネルギーを哲学へ。
いや、哲学がカタルシスになる訳は無い。
なったら嘘。
謎、苦悩、絶望、これが哲学のテーマだからだ。
アホな哲学には問いが無い。

いや、しかし、ネガティヴな感情を得たときこそ、人格の陶冶の好機だ。
最悪のときに人間の真価が現れる。
逆境は友を試す。可愛い子には旅をさせよ。
少しずれているが、とにかく、古今、逆境を人間の試金石ととらえたし、また、人間の成長に欠かす事ができないものと考えた。

それにしても、哲学をやっている人間で、人格を陶冶しようなんて考えているものはいない。
何しろ、好き勝手にやってきた末が哲学なのであるから、みんな自分勝手なのである。
もちろん、ほかの学問に至っては、いる訳も無い。
奇人の巣窟である。あるいはバカ。

ののしったりして、人格の陶冶なんてできてないのではないかと、批判も来そうだが、しかし、そんな問題ではない。
学問の道は厳しいのだ。
それもあり、アレもあり、では信念も何も無い。
しかも、そのうち、自分自身を甘やかす事にもなる。
そんな事の無いように、他人にも冷たく、もちろん自分に対してもシビアに批判するのだ。

それにしても、人格の陶冶をなぜ誰も口にしないのか。
かつては確かにそれは人生の大目標であった。
そしてその実現は、人間に真の自由を与えてきたのである。

今日、人が求める自由は、動物的な欲望の自由。
はっきり言って人間的な自由の立場から見ると、それは全く自由ではないのだが。
しかし、成長を拒否する現代の人間は、人間以前の自由しか求めようが無いのかもしれない。

ところで、人格の陶冶とは何か。
昔の懐の広くて清濁あわせ飲むような政治家になるという事か。いやちがう。
自分の欲望をコントロールできるようになる事でもない。
それは、常に最も重要な事から目をそらさず、しかし、優先順位のより高い事柄にも配慮して、しかし、それをわざとらしくなく実行し、焦らず、強く、確かに生きていけるようにする事ではないか。
社会的な関係から考えれば、遠い先を見て、真にその人の為を考えられるようつとめる事ができる。そういう事ではないか。
しかし、人の為とは。ただ喜ばせればいいのではないのは当然だ。
それは自分が本気で生の意味を探求してはじめてわかるものだろう。

少なくとも、今はまだ私にはわからない。

だから、当面はその探求なのである。
しかし、同時にネガティヴな条件は確実に押さえていく。
こうでもいいのではないだろうか。
[PR]
by lebendig | 2005-10-17 23:23
<< 人格の陶冶 忙殺 >>