哲学/テツガク/てつがく

哲学には三つある。
哲学といっても、自称「哲学」であるが。

一つは、自分がもう既に信じている「世界観」の正しさを訴えるもの。
まぁ、実際にはこればっかりが多い。
どこかの哲学者の説を自分なりのイメージでとらえて、これを一所懸命アピールします。
最近、若者が駅前でへたなギターをがしゃがしゃかき鳴らし、ただでかいだけの声でがなり立てていますが、それと同じ。
俺ってすごい、と、言われたいのか。

一つは、自分の信じる「方法」の正しさを一所懸命訴えるもの。
これは前者に近い。きわめて近い。
たとえば現象学とか分析哲学とか、まぁほかにもあると思います。
これは、一瞬、学問としてOKではないか、と思ってしまう。
しかし、絶対に違う。
虚心坦懐に正しい方法を探求する、というのであるならば、少しはまし。
しかし、そんな事ない。
彼らはその方法が正しい事を前提しています。
その上でそれが正しい事を主張する。
こういうのは論点先取と言ってもいいのかもしれない。
詳しく検討して、正しくない、という論文が出てきたためしはない。

この「方法」を論ずる哲学の決定的な欠陥がある。
それは、その「方法」で「真理」に到達できる(あるいは、してしまった)、と考えているところ。
なにがしか、とにかくすばらしい知が得られる(あるいは得てしまった)。
そんな事あるわけないって。
でも、信じているのである。
厳密だとか合理的だとか、まぁ、いろんな形容詞が出てきますが、とにかく、すばらしい、ほかの知とはレベルの違うものが得られるというのです。

しかし、おさるさんに数本毛が生えた、不遜でみにくい獣が、そんなたいそうな「能力」を持っているわけないでしょうが。よく考えたら。
神の似姿、万物の霊長、これ人間中心主義って言うのでしょうか。
中心というか、まぁ、幼稚な勘違い。
「ぼくのパパは世界一」、というのと同じ。
小さい子供なら、無邪気で愛おしい。
しかし、これが大人なら、最悪。
自分の大好きな結論を証明したい、では学問ではない。
逆に、自己否定こそが本当の道ではないか。

まぁ、方法というものは目的あっての事。
その目的自体が見当はずれであれば、方法も手段もへったくれも無い。
ということで、目的自体を見当していないこの哲学は、テツガクである。

最後に、これ以外で、かつ、そもそも何が重要であるのかを探求する哲学、これがあるべき学問の姿であろう。
いかなる結論であろうとも、自分の嫌いな、信じたくない、己の列島を明らかにする、何の利益ももたらさない、コンプレックスを刺激する、そんな結論であっても、受け入れる、そういう覚悟の上で初めて本来の探求はなされ得る。
自分大好きの幼稚な人格には耐えられないだろう。
自己を捨てる、そこからはじめて何かが始まる。

人格の陶冶をせず、へりくつに磨きをかける今日の哲学はごみためみたいなものだ。
哲学やってる人間に、すばらしい人はいるか?(まぁ、そんな人今時どこにもいなくなったが。)
もちろん、自分に都合の良い人のことではなく。

本当の知を得るには、本当の知を求めるところから始めなければならない。
求めてもいないものが手に入るはずが無いのだ。
いまテツガク者たちが手に入れている知は、そのテツガク者たちにふさわしいものである。
本当の何かを得るには、己が本当にならねばならない。
そこから始まる。
そしてそれは自己否定から始まらなければならない。
自己肯定のために延々とへりくつを繰り出す今日のテツガクは、、、
まぁ、言わなくても明らかだ。
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by lebendig | 2005-08-27 21:33
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