古の人々の魂が再び…

半世紀前の戦争からも明らかなように、死んだ者はその歴史から消去される。
儚く、無惨に露と消えた無名の人々の、彼ら自身の死、それは消去された。
残された者の悲しみ、恨み、それだけが残っている。
だが、あまりに無惨に命を落とした人々の、その無念な最期の生の瞬間、これは真実であり、事実であった。
いや、永遠に真実である。
誰も記憶しなくなったとしても、いや、していないとしても、確かにあったこと、その事に変わりはない。

これまでの歴史の中で、無惨に命を失った人々は数限りない。
彼らは、しかし、消えるべき人々であったのか。
生き残った者は善で、消えた者は悪であったのか。
そのような事は当然あり得ない。
いや、むしろ滅ぼしたものには義がない。
だが、その後ろめたさは滅ぼされた人々の不在、無力によって、念入りに隠蔽されていくのである。

勝ち残り、あるいは生き残り、後ろめたさに偽りの正義の物語でフタをしてきた人々、それは、実は我々自身でもある。
我々を育んできたものは、勝ち残り、生き残ったものであり、それが作り出してきた作り話である。
我々自身が倒錯した偽善なのである。


だが、今、このように勝ち残ってきたもの、生き残ってきたもの、これらがその限界に来ている。
すべても物事には限界がある。
偽りも極限までくれば、その偽り自身、己を偽りとして示す時が来る。
それが今である。
百五十年間偽り続けた「新政府」とその文化が破綻しつつある。
あるいは、二千年以上偽り続けた文明が、その限界で、自らの偽りを示しつつある。

だが、「正義」が馬脚を現すとき、逆に、滅ぼされたものたちの正義がよみがえる。
滅んだものの正義が、滅ぼしたものの不正義の暴露によって生き返る。
正しくも義ある彼らの魂がよみがえるのである。
不当にも生きながらえたものが、ようやく、しかるべくして滅びるのが、現代なのである。

我々はまだ、これからよみがえるべき、あるべき思想、生を知らない。
だが、偽りの生き方が滅びるとき、ともに自らを滅ぼすことはない。
よみがえるものを先んじてとらえ直し、そこに依拠しなければならない。

これから我々は、消去されたものがよみがえるのを目の当たりにするはずである。
[PR]
by lebendig | 2005-08-20 15:54
<< 自然が先か哲学が先か ライフログの本 >>