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メランコリー

メランコリーは哲学の感情である。
燃えるような焦燥感。いや、焦燥感、メランコリーいずれの言葉にも「燃える」が入っている。
調子のいいときには気にもかけないことが気になる。
なにかやり残しているのではないか、自分は取り残されていくのではないか、と、焦るのである。
しかし、ただ浮き足立って、ウンウンうなっていてもしようがない。
確かに我々は何かとんでもなく重要なことを未決のまま忘れているのだから、それに正面から取り組めばよい。

ここでこの焦燥感自体にこだわると、問題は一気に鬱陶しいだけの、「悩み」あるいは心の病になってしまう。
しかし、その焦りに方向付けをすればよい。
人間存在はこの世に放り出されて、しかも死がその先に待ちかまえている状況で、不安の内に生きているのだから、その焦りは人間存在にあるべき感情なのだ。
いや、メランコリーなくして人間無し。そこまで言っていい。
人間として生きる、そのこと自体悩ましいのだから、まっとうな人間はメランコリーになる。なってどこがいけないのか。

この感情だけを消去しようとする心理学やら精神医学の様々な手段は、人間を知らないのである。
悩みなく生きていればいいのか。
もちろん、あんまりひどくて身体にまで症状が出るときには治療を少しだけうければいいだろう。
しかし、その感情を消去してはいけない。
その感情故に人間はシリアスに人間の生のことを考えられるのである。

別に、メランコリーをエネルギーにしてポジティヴになれ、といっているわけではない。ただ、その感情は人間の本質的な感情だから、肯定しろ、といっているのだ。

奴隷として所有され、非人間的な生活と労働の毎日を送る黒人がブルースを生み出した。
もし自分が奴隷だったら、どんな人間でもへこむだろう。
へこみまくりである。
自分に全く非がないにもかかわらず、夢も希望もない生活。
アフリカ大陸にいたのなら、偉大な祖先、英雄の記憶の中で、尊厳ある生き方を出来たはずである。

当然彼らの根本的な感情はネガティヴになるだろう。
だが、それは人生に対する否定の感情にならなかった。
惨めな我が境遇を嘆きながらも、その音には肯定のニュアンスが含まれているのである。

クォーターチョーキング、つまり、半音の半分のチョーキング。
これがブルースギターにはある。
ギターの弦を持ち上げて、半音の一歩手前まで音をあげるのである。
そのことでコードがマイナーとメジャーの間をさまよう。
つまり、短調と長調の間である。
短調は悲しみ、長調は喜び、乱暴に言えばそういう響きだ。
つまり、ブルースは悲しみと喜びの間にある。

もちろん、基本は嘆き、悲しみ。
しかし、それだけではない。
その嘆き悲しみが、肯定のニュアンスを持って表現されるのだ。
「俺はなんて不幸なんだ」と、どこかそれがうれしそうに、しかし悲しく歌う。
それがブルース。

もちろん、最近のはほとんど笑っているようなものもあり、単なる鬱陶しいナルシズムもある。あるいは、本当に浅薄な「ブルース」もある。
当然だ、本当の嘆き悲しみがなくなったからだ。
それはブルースの抜け殻である。
不幸の底の底で肯定に転ずるとき、本当の意味で人間の生の重さにふれる。
そこで生まれるのが、人間存在の根本的な感情だ。
だから、ブルースは人間の音楽だ。
おもしろおかしく、気取っていて、楽しくて、なんてのは一時の心の慰めのための音楽。
本当のものじゃない。

自分のネガティヴな感情にどう向き合うか、それは昔から様々な文化の中で試みられてきた。日本のもののあはれもそうだ。
世は無常、だから死のう。こんなのは明治以来の西洋かぶれにしかあり得ない、非文化的な感情の論理なのだ。

程度は問題だが、少しもネガティヴな感情のない人間は、むしろそのことを心配した方がいい。
それは、人間存在の根本感情を欠いているという、「病」なのだ。
by lebendig | 2005-07-21 13:40
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