最期は始まりか?

徹底した否定のうちに、新しいものがうまれる。
だとしたならば、哲学が終焉するとき、そこに何かが生まれる。

しかし、終焉する「哲学」とはなにか?
何を指して「哲学」というのか。
おそらくそれは最も広い意味における「哲学」。

様々な時代、文化に多様な「学問」が存在した。
今日においてそれはほぼ一つの「学問」を指すに至っている。
もちろんそれは古代ギリシアの自然哲学、いや「哲学」に発する一つの伝統。
この「哲学」こそが多様な学問から今日の学問との間に、決定的な一線を画している。

「学問」は、言い換えれば「知」だ。
知のあり方、今日においては唯一のあり方になり、そこからすべてが理解されるにいたっている。
この、文明文化、あらゆる生がそこに基づいて意味を持ってくる、その最も根元的なものが、「哲学」によって制約されている。
その制約の終焉である。

あらゆる事柄、そして哲学自身についての理解も、議論も、すべてそれに基づいている根本的なもの、これが「哲学」と言われるべきである。
まぁ、二百年から昔の「哲学者」と問題を共有しようとがんばってらっしゃる先生方は、このこと自体が気にくわないだろう。
なぜなら、理性の相対性等というものは、宗教的な理由からほとんど考えられたことがないからだ。(多少例外もあるかもしれないが)

そんなアナクロテツガクはかまっている暇はないので黙殺。(ハイデッガーのようにかまい過ぎると、何を言いたいのかわからなくなる。)
ところで、この「哲学」による制約は、「存在論的前提」、いや存在論、形而上学のことなのか。しかし、そのように考えても、事の本質には辿り着かない。
逆に、「哲学」の中へ回収されてしまう。
これまで哲学の内部でなされてきたような、そのような議論は、その外部への可能性を全く持ってはいない。
なぜなら、その想定する理性の思考、論理、ロゴスがそれ自身において完結するものとして措定されているからである。

もちろん、ゲーデルが論理の不完全性の証明において、すでに内部における完結性は否定している。
その証明も、ゲーデル数も、よくもまぁ考えたものだというものであるが、その曲芸ではなくその意義に遥かに重大な意味がある。

それはさておき、テツガクシャの思考においては、いまだそれはそれ自身において意味を持つ、完結したものらしい。
なにしろその限界を認めたならば、とたんに何も出来なくなるような、大工にとってはトンカチかかんなのようなものである。みとめないだろう。

限界を認めるなら、その論理の網の裂け目が外部への脱出口になる。
内部にとどまりたいものには、無限の暗闇の入り口に見えるかもしれない。
そう、内側から外部は決して見えない。
見るためには暗闇の中へ身を躍らせなければならない。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

哲学はすでに死にたいであるが、どうせなら積極的に学問を道連れにしなければならない。
製造者の責任である。多少なりとも問題意識を以て哲学をするものがあったならば。


ところで、最期と共に何が生まれるか。
生まれたときに初めてわかる。
これが大前提であるが、しかし、わずかながら予想できることがある。
それは、我々自身が存在しているということに気付いてあること、それがいっそう明瞭な形で我々に把握されるだろう。いや、それは存在自身が存在をより明確な形で己を示すと言うことか?
まぁ、はやりの言葉でいうならば「リアリティー」である。

今はやりの「リアリティー」は、感覚ぐらいの非常に希薄なものを指しているが、昨今の人々にはそれが最もびりびり来る感覚らしい。
最期と共にやってくるのは、そんなものとは比較にならないくらい、ものすごくびりびり来るものだろう。
このしびれる「リアリティー」とは何か。
自己がどこにいるのか、それをよりいっそう明瞭に自覚すると言うことだ。

自然の中、社会の中、世界の中、宇宙の中、文化の中などなど、様々な全体性のなかでの自己の位置を見いだすときに、己というものが存している。
凡我一如、彼我のない境地、そこに死を問題としないですむ理想があるとするならば、びりびり来る己のリアリティーはありがた迷惑であるかもしれない。しかし、自覚されたとき、いままではものがわかっていなかった、と得心されるはずである。
もちろん、それは終局ではないだろうが。

もしかすると、人間存在についての、本当の意味における絶望的な自覚がそこにあるかもしれない。
われわれが決して認めたくないものがそこに待っているかもしれない。
しかし、それが真実ならば喜んで飛び込むべきだ。
なぜなら、真実は一つしかなく、そのほかはすべて偽りだからである。
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by lebendig | 2005-07-19 22:46
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