明日はどっちだ

今日の切迫した状況を乗り越え、新たなものを打ち立てる。
これが、本ブログの目的でした。
前にも、ちらりと書いております。
しかし、どうしても過去に対する批判、悪口になってしまう。
もちろん、徹底的な、本質からの自己否定によって、初めて創造の可能性が生じる。
仕方がない側面もある。いや、否定こそが創造の顔ではないか。

だが、少しでも早く前進し、全く新しいものの可能性を検証しなければならない。
そのためには、積極的に創造の可能性を確認しなければならない。
なんだかんだいって、なんにもあたらしいものがなければ妄想と思われても仕方ない。

もちろん、新奇な、目新しさがあればいいわけではない。
いやむしろ、そのような目新しさだけを追ってきたのが今日に至る学問ではなかったか。
常に新たな論文が書かれ、毎日新しい学説のニュースが飛び交っている。
しかし、いってみれば二千年以上、哲学には本質的に新しい論文などほとんど書かれたことはなかったのである。
したがって、「新しさ」は「創造」の何らの指標にもならない。
いやむしろ、従来の新しさの指標は、何も新しいものなどないことを示している。

では何が本質的に新しいものを特徴づけるのか。
何が創造を示すのか。

単純に従来のものと比較して、これまでになかったものを持っている、ということによっては特徴づけられないのである。
そもそも、本質的に新しいもの、それは根本からの思考が異なる何かであり、全く異なる目的を持ち、全く異なった基準にある。
それは容易に理解し得ないものであり、理解できたならば、新しくはないのである。

それは、理解し得ないものであり、それ故に容易に見落とされてしまう。
そこに何かがあるということ自体の認識が困難ななにかである。
しかし、何らかの違和感があって、繊細さを以てそれを見いだそうとするときだけ存在する。
繊細さとは、自己にないものを求める、謙虚さのことである。
今日に至るまで、本質的に新しいものが見いだされてこなかったのは、自己を否定する謙虚さが無かったからであり、結局は己と同じものを求めていたのである。

つまり、徹底的な自己否定、それがやはり創造の本質的な特徴なのである。
そのためには「自己」が発見されなければならない。
否定されるべきものは何か、それが発見されるとき初めて新しいものが何であったかものが発見される。

己が見いだされるとき初めて己ならざる何かが見いだされ、そこに創造が生じる。
とにかく新しい視点をとる事で、「新しい」世界をの見え方を獲得しようとしても、それは目新しいだけで、実際には「古い」のである。

己はつねにここにある。
しかし、それを見いだすことは難しい。
表面的な自己否定はいくらでも出来る。
しかし、否定されるべき何かは常に注意深く隠されている。
我々自身にとって最も大事であって、否定されたくないものなのである。
だが、それはおそらく「つまらない」ものだろう。
いや、「つまらない」ものとしてそれが発見されたとき、自己発見と自己否定が同時になされたと言い得るかもしれない。

これまでなされたことのない否定を、徹底的にすすめていく。
そのことのなかで、「つまらない」ものが否定される。
あらゆるものの否定を通じて創造が「偶然」なされる可能性があるのである。
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by lebendig | 2005-07-17 23:08
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