哲学の最期

ブログのタイトルだが、それを考えてみる。
哲学は中世をのぞいて、理性の運動などと定義できるかもしれない。
理性の内在的な必然性の運動。
もちろん、我こそは、とそれを標榜した無数の主張と、それに対する批判の歴史でもある。
要するに、理屈だけで勝負の世界である。
主張も批判も理屈。
理屈のうちに、それを成し遂げるだけのものがあると考えられてきた。

ちょっとまて、それは大陸だけじゃない?
いや、広い意味での理性、理屈である。
誤解を避けるために言い直すと、人間は理屈によって物事の本質を引き出し、理解できる、と考え、求めてきた。

哲学の歴史の中での大事件とは、哲学の始まりと、哲学の終わりである。
それは、「理性」っていけるぞ、とはじまり、「理性」なんてだめさ、で終わる歴史である。いわゆる哲学は広い意味での人間の理性、なにがしか本質的な者を理解する能力を前提しており、この前提の成立と共に始まり、その否定と共に終焉することとなる。

ちょっとまて、終焉は確定したのか?
ニーチェは理性を根本から否定した。
だが、否定は同じく理屈によってなされた。
じゃあ、理屈の土俵に上がってしまっているではないか。
もちろん彼はそれを意識していた。
しかし、他の手段で証明したりすることが出来るか。
出来ないのである。
証明し、納得させる。これは理性の仕事である。

ハイデッガーも結局は同じだろう。
彼は巧みに言ってのけてはいるが、そこには存在の歴史という考え方が入ってきている。
歴史、それは事実である。
理屈云々ではない。
しかし、一方で、そんな歴史認めない、と言われてしまうと説得できない。
もちろん、理屈は用意されているが、ニーチェと等しく、矛盾をはらんでいる。

そんなこんなで、百年前に終焉の事実が認識されていたにもかかわらず、未だに終わってないとか、可能性はどこにある、という議論が繰り返されている。
端で見ている人は、もうおもしろくはない。
どこかで聞いた話がグダグダ続いているだけである。

しかし、今は違う。
哲学の、理性の終焉が向こうの方から歩いてきた。
事実が歩いてきたのである。
こちらから求めずとも、否応なく認めざるを得ない仕方で。

人類文明は滅ぶ。
人間の理性にもかかわらず。
このことが環境問題で明らかになったのである。

哲学はその内在的な理屈で己の歴史に幕を引いたのではなく、無理矢理幕を下ろされたのである。
哲学、理性、知、これは人類文明の存立という大前提を守ることが出来なかった。
道具としては失格である。
ニーチェはニヒリズムを宣告したが、それは生の意味が失われているという指摘。
しかし、今日、向こうから自分で歩いてやってきた事実というのは、意味もくそもなく、人類、すべての生(いやほとんどの生か。全部かもしれないが)の剥奪である。
意味の大前提の生そのもの。これがなくなる。

ちょっとまて、と。
哲学は人間を越えた、普遍の真理に関わる者で、偶然的な人間存在の存在とは必然的関係にない。
こうおっしゃる立場の方もおられるかもしれない。
理性は人間「何々の為」にあるのではなく、それそのものが意味であり根拠であると。
ではそうしよう。
しかし、それは人間無くして何の意味があるのか。
意味を理解する人間がいなくとも、それは意味を持つのか。
というか、理解する者なくして真理なし、人間無くして真理なし、ではないか。

かみさまが…!
それをいちゃあおしまいよ。
神様がいれば何でも証明できます。
いやむしろ、神様ってそれ自体に意味があったのではなく、哲学とか宗教とかそういう理屈の根拠として生み出されたのではあるまいか。。
それはおいておこう。

理性に意味があるとするならば、意味を理解する人間存在の存在を前提する。
理性には人間存在の刻印が押されているのである。
人間の人間による人間のための理性。
人間無ければ何もなし。

もし、理性がそれ自身で意味あるものであるならば、その条件となっている人間存在、人類文化の存在を、それ自身が確実に支えると言うことが条件となる。
でなければ、理性は自身に完結しない。
人類社会の存在を確保する他のもの(歴史であろうか)をその前提とするということになるのである。それは、伝統的な意味での哲学ではない。
(ハイデッガーであろうか。)

哲学を規定する決定的な事実がやってきている。
今日、哲学はその内在的な批判ではなく、外部から、理屈もくそもなく最期を確定されているのである。
そてみれば、内在的な議論はもはやナンセンスである。
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by lebendig | 2005-03-25 02:55
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