決定的な文明の転換

1999年に何かあると騒いでいたのも今は昔。
世界の終わりはおとずれなかった。
2000年も何か起こるのではないかという雰囲気があった。
しかし、コンピュータの2000年問題も空騒ぎで、ソフト会社に一儲けされてしまっただけだった。

20世紀の下四半期は、2000年に向けて何か起こるのではないかという気分が底流にあった。
それは宗教的、オカルト的な終末の意識だけではなく、近代的合理主義がとどまるべき限度を越えて進み始めたという、漠然とした意識だったと考えられる。

人間は数と語呂合わせには弱い。
ちょうど2000。これは何かある、と思う。
しかし、よく考えれば、起点の紀元はキリストの誕生。
実在したとは言われているが、誕生年はずれているらしい。

いや、そんな問題ではない。
2進法、10進法、12進法、16進法。
他にもいろいろ考えられるが、2000年とか言うのは10進法。
いや、そんな問題ではない。
数がぴったりとか、語呂合わせがぴったりとか、それは数とか音の問題に過ぎない。
当たり前といえば当たり前。
では、人類が堕落し、世界が終わる、という終末の意識が根拠がなかったかというとそうではないだろう。

オカルト、数の偶然、語呂合わせとは無関係に、
もちろん、宗教とも無関係に、
世界がどうもおかしな方向へと進んでいるという認識はそれ自身正しかった。
しかし、どうおかしいのか、何が正しいのか、これがわかっていなかった。
一方で、我々が何か重要な者を失ってしまったのではないか、という意識は明確になりつつある。
何がおかしいのか、何が正しいのか、こういう問題意識が2000という数字で自覚されたのではなかったか。

ところが、2000年になっても何もなかった。
たいしたこと無いじゃないか、そんなたいそうなことなどないんだな。
そういう感想を誰もが持った。
よく考えれば、当たり前ではないか、と。
しかし、実は2000年あたりを境に、実は大変なことが確定した。

なにか?
それは、今日の人類文明が滅び行くということ。
もちろん、万とか億とかいう単位の年月の中では、絶対に滅ぶ。
そうではなく、我々の日常的な知の予想の範囲の将来に滅ぶということである。

なぜわかったのか。
地球の自然環境が大変な危機にあることは我々は知っている。
地球規模の環境問題の解決のために様々な努力がなされている。
何とか人類文明を存続させようと。

しかし、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第3次報告にも明らかなように、どんなに努力しても、地球温暖化は止められないのである。
もちろん気候変動も。
さらに、他の問題と複合してさらに大きな変化が予想されている。

しかし、近頃の我々はそれを織り込み済みと、のんきに構えるようになってきている。
もちろん、20世紀に妄想されたびっくりするような急激な変動は無い。
だが確実にそれは訪れるのである。
さらに、緯度の高い国でもクーラーが必要になるとかそういう問題ではない。
動植物は急激な気候の変動に耐えられない。
ではどうなるのか。

そのようなことが確定してしまっているのである。
われわれはなぜのんきなのだろうか。
人間の知恵の限界が明らかになったのである。
蛙は水に入れられて、その温度が少しずつ高くなっていっても逃げない。
最終的にどうなるか予想できないからである。
その都度、まだ大丈夫、まだ大丈夫と。
そして大丈夫ではなくなったときはもう逃げられないのである。

人類のちえもそうだった。
しかし、そのことに気付くべき状況である。
まもなく、このことが自覚され始めるだろう。
そのとき大きな文化的な転換が起こる
おこらなければ、それまでである。

いずれにしても、今、決定的な時期なのである。
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by lebendig | 2005-03-23 20:49 | 日記
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