歴史・時間・無常

 あー、もうこんなに時間が過ぎ去ってしまった。
 私はいつもそう思います。
 実家のお墓に、本家から分家したときの先祖の一番古い墓が残してありますが、それは文化年間。本家の先祖は江戸時代の前までたどれて、さらにその前の先祖の話も伝わっております。
 某県庁所在地にあるお城が出来るよりも前から庄屋をしていたそうな。そのころも庄屋といったのかどうかしりませんが。
 そんな先祖が飢饉のとき蔵を開いて百姓を救った、などという話も聞きます。
 おそらく私から数えて十数代前でしょうか。私の曾曾曾…祖父ということか。
 たくさんの先祖が「家」を巡って様々に考え悩み生き死んでいった。その同じ家に私が存在している。そこにはその時代時代には無限とさえ感じられたであろう長い長い時間が、既に経過してしまったものとして沈殿しています。
 もうすでに。そして今私が感じる永遠の長さも「もうすでに」になってしまう。
 これはかならず、確実に、そしてあっという間に。
 家という変わらないものを見ることによってかえって時間の無常が見えてくる。
 
 しかし、家なんてものははかない。
 自然はより永遠に近い。
 おそらく海、そしてその寄せては返す波はこの地球が始まって、ほとんど変わらない。
自分が今見ている波と全く同じものを何千年前に誰かがどこかで必ず見ていた。
今あるこの自分と全く同じく、古代の人に思いをはせながら見ていた。
しかし、それはとうの昔に過ぎ去った。
それは今も同じこと。今のこの瞬間、確かに存在するこの瞬間。これもはかない。
今目の前にあるたしかな存在者達。手を伸ばせばそれらは私の手に確かに存在することを確かめられる。
自然を貫く法則はより堅固で、普遍的であり、永遠を我々に示している。
しかし、そんな世界もみなはかなく過ぎ去り、消えてしまう。
わたしと共に。

時間、歴史として私は存在している。
一方、私は存在を歴史、時間から切り離し、変わらぬものとして捉え、それゆえに、過ぎ去る時に驚愕する。
驚くべきは過ぎ去る時のはかなさではなく、変わらぬ世界を妄想する人間ではないのか。
すべては自然に、必然として、当たり前に、粛々と流れているだけだろう。

当たり前のことに驚く。
それは哲学の始まりともされているが、当たり前を発見したのではなく、人間の理性の限界、いや、粗末さを発見しているのではないか。
したがって、その驚きは、ついには理性の否定に至るだろう。
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by lebendig | 2005-03-20 10:24
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