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二元論の新しい可能性

二元論とは今や過去の都合の良い勝手なオカルト思想の別名というように考えられている。
科学により否定された、信教の自由によって許された哲学思想である。

なぜ否定されたのか。
それは科学的に物質からすべてを説明することが可能になったからである。
世界の中で起こったことは物質で説明できる。
人間の心も説明可能である、はずである。まだできていないが。
その流れで、すべて圧倒的な勢いで来ている。
幼稚な主客未分の世界観にのみ、非科学的な二元論は要請されるのであり、人格思想ともに劣っていることの証明となっている。
たしかに、科学の限界を指摘しつつ、可能性としての二元論を学問的に証明するには、認知科学や科学論、ハイデッガーに至る存在論に通じていて、それでもなお、というくらいのものが必要であるが、何も知らないで言っていることがすべてである。

前置きが長くなっているが、さらに前置きすると、二元論が好きな人は一元論というか、科学的な世界観が嫌いな人である。ハイデッガーの不安な死の世界観はさらに嫌いである。むしろエピクロスのようにしを軽く考えてくれる人間の方が害がない、と思っている人々である。
どうしてハイデッガーの存在論や認知科学による人間の神経過程としての理解なんか研究するだろうか。

このことによって、二元論の学問的可能性は絶たれたままだといえる。
だが、逆に、現代の科学、物理学やハイデッガー、認知科学、脳科学を超えた向こう側にある可能性はある。これまでとは根本的に違う、全く新しい二元論である。


宇宙はいかにして誕生したのか?
現在物理学においてビッグバンまでの物質生成過程が懸命に計算されている。
この計算は、しかし、ビッグバンの前にまで遡ることができるのだろうか?
ビッグバン以降なら計算できる。
だが、その前にまで計算が可能かどうか、宇宙の中には計算可能であることを検証できる何の手がかりもない。無論、今のところ。
このことから、計算しようもないし、計算する意味もないと考えられてきた。
だが、この宇宙が生まれるためには、外部の宇宙、あるいは世界の存在が必要とされることが計算されつつあるという。

考えてみれば、当たり前だが、完全なる無、世界も何もない無から世界が生まれることはない。
我々の理性がこの宇宙の内部限定のものであっても、それくらいの推論は許されるはずである。
ただし、宇宙が他の宇宙の影響で直接産み落とされるのではないらしい。
この宇宙どうしの存在論的な因果関係は直接でない限りにおいて、我々のよく知る因果関係ではない。
新しい可能性因果関係であり、宇宙の存在を生み出す、全く新しい存在論的因果関係である。

我々の生きる宇宙の中では、すべてが物質的過程として過ぎ去る。
目的としての存在など存在しない。
人間の心は神経過程であり、それは私なんてものは究極的には存在しない幻想であることを証明している。
だが、その過程自体が、この宇宙とは別の宇宙、世界の存在によって存在し得ているとしたならばどうだろうか。
過程としては繋がっていないが、存在の根拠として「存在」する別の世界があるにである。

我々が科学的世界観の絶対支配によって説明しようがなくなってしまった実存、魂、あるいはクオリアは、しかし、この物理学による別の宇宙の可能性によって、改めて検討の余地を見出したと考えても良いのではないだろうか。

すべては物質的過程として流れされ世界。
脳の神経過程も然り。
しかし、それらの過程の根拠としての存在は別世界にある。
新たなイデア界とも言える。
その魂の世界にこの過程が映し出される目的の世界がある、とそこまでいえば言い過ぎかもしれないが、単なる物質の過程に回収できなかった何かが、新たな宇宙の可能性からうまれることになる。

別の宇宙はこの宇宙から隔たったところにあるわけではない。
なぜなら、宇宙は空間の中にないからである。
宇宙は我々に知らない仕方で多くの次元を持ち、さらにこれがたたみ込まれていると言われている。
別の宇宙との隔たりが我々の想像を超えるものであることは当然である。
無論、二つが重なっていることもあり得る。
原因としての宇宙と結果としての過程の宇宙。
存在する宇宙の根拠と、現象する過程の宇宙。
新しい二元論は我々に日常的思考を超えた、プラトンも想像していなかった新イデア論かもしれない。
# by lebendig | 2013-04-29 07:43

格差デモに対する金融関係者の焦燥

全世界的に格差に反対するデモが行われている。
具体的な政策などへの反対ではなく、社会のあり方に対するデモである。
したがって、デモは容易に収束することはない。
おそらく、参加者もいつこれが終わるという見込みを立てることはできない。
だが、それでもデモが行われているということが重要である。

格差があることに対する不満というのは、ただ格差に対するものではない。
金融投資機関であれ、企業のトップであれ、金融商品を売り買いしている人間が大金を得る。
このことが問題である。
誰でも出来る仕事である。
知識や経験は特別ではないし、尊敬すべき要素は全くない。
また、特別の社会的な責任果たしたり、貢献したりすることもない。
彼らはいなくてもいいし、特別でもないし、尊敬も出来ないし、あるいは、そういう職を選んだところは軽蔑される、と皆が考えているのである。

たしかに、金融は正業ではなかった。
働いた分だけ収入を得るのが正業である。
皆が不労所得を求める社会というのは、当然腐った社会と言うべきである。
それが、今や額に汗をする職に着いていると、直ちに貧困に陥るのである。
一方、不労所得者はアホのような金を握り、いまや、彼らが世界経済を崩壊させようとしている。
デモは金融資本主義が終焉するまで続くだろう。
また、これを支持する理論、論理が後からついてくる。


不労所得を得て得意になってきた輩が、テレビやインターネットで腐った発言を繰り返している。
デモはむちゃくちゃだとか、適当な連中がやっかみで暴れているとか。
思想的にも主張的にもバラバラで、働いてもいない若者ばかりで、
こんなものは気にすることはない、と。
こういった発言は労せず利を得てきた人間が、自分たちのインチキな収入を正当化する理屈がなくなってきた焦りである。
利ざやで稼ぐ業界に関係している人間に限って、そういった憎悪に満ちた醜い発言をしている。

そもそもおかしいのは、実体経済以上にそういった利ざやで稼げるという状態である。
それは当然まともではない。
経済の発展によって利ざやが発生するのはまともである。
現在のマネーゲームは、マネーゲームを発展させることで、
偽りの信用が拡大し、そのことによって理ざやを得ているのである。
信用は確かに重要なものだが、実際にある富を何倍、何十倍にしてしまう。
それは当然危険である。

目の前に10㎏の米があるとする。
そして、10㎏の米を買うことが保証されたお金があるとする。
すると、実際には10㎏の米しかないのに、10㎏の米の二倍の価値が存在することになってしまう。
さらに、そのお金を誰かが借りる。
すると、貸した人には債権という形で、そのお金分が保証される。
借りた人はいつでも米が買える。
米を持つ人には当然米という価値が存在している。
これで米の価値の3倍の価値がこの世に存在することになる。
通貨と信用で3倍にふくらんだのだ。
借金の分で相殺してはいけない。
すると、信用というものが相殺されて計算できなくなってしまう。
金を返済するまでの間のことだけ考えればいい。それが信用である。

更に債権者が債権を売るとする。
そして債権者は米を買える金を手にする。
債権を買い取った人間は米を買うことの出来る金分を返してもらう権利を受け継ぐ。
この段階で4倍にふくらんでいる。
こんな事が続いていけば、信用が本当に存在する価値の何倍もの価値を作り出すことになる。
それがどんどん膨らんでいく過程で利ざやが生まれていく。

単純化すればそういうことだ。
この膨張を人工的に行って、その膨張分がウォール街やらで分配されている。
そして最後にこれが爆発。
ウォール街で分配されたお金以外に、極端を言うならば米だけしか残らなくなる。
これがいま起こりつつあることである。

これは世界史的な出来事の発端になるだろう。
この時期にむちゃくちゃな発言を残さない方がいい。
# by lebendig | 2011-10-17 09:30

世界的経済危機の極限状態

中国の不動産バブルが行くところまで行っているという声が聞かれて久しい。
なんだ、大丈夫じゃないか、というのは、日本のバブル、アメリカの住宅バブルの時も聞かれた声である。
14億もの人口があると、どこかにしわ寄せをすれば、バブルも継続できるのだろう。
しかし、いまや何がきっかけか、という状況である。
上海万博はきっかけにならなかった。しかし、山は越えたところだということだろう。

ギリシア、アイスランド、ポルトガル。おまけにイタリアまで来て、USAまでぎりぎりの財政である。
いや、どこからか崩壊が始まれば、連鎖的に倒れていくはずである。もちろん、中国まで行く。

こうなると、世界経済危機については「来るのか?」ではなく、「いつ来るのか?」になる。
いや、もはや「世界経済危機が来たらどうするか?」であり、「危機が来たら、助かるのはどこか?」となり、「誰が得をするのか?」、そして究極的には「誰が計画したのか?」、そこまで踏み込んで考えるべきだろう。

今日の民主主義を基盤とした大なり小なり、いずれにせよ福祉や軍事、経済基盤を整備する国家とこれを前提する世界市場経済は破綻する。
破綻したらどうするか、だが、漸進的変革はもはや不可能とわかったのだ。
いったん崩壊させて、食糧危機などに気を配りつつ、再構築する、これが現在の世界の課題になっている。

蓄財も、買いだめも、すべて役に立たなくなる可能性がある。
やはり、金へ向かうべきか。
しかし、経済システムがカタストロフに至れば、処分することが難しくなる。

先の先、そしてその先まで考えて、腹をくくる必要がある。
本当に2012年が転換の年になるかもしれない。
# by lebendig | 2011-07-19 09:20

災害と人の死

多くの人が津波に飲み込まれてしまった。
親族や友人が被害に遭い、あるいは行方不明になった人々にとって大きな衝撃である。
あるいはそうでない人々にとっても、つまりこのニュースに接するすべての人々にとっても、大きな衝撃である。

親しい人を失った人々にとって、何万人の被害があろうとも、それは問題ではない。
その人を失ったことが問題だからだ。
一方、親しい人を失わなかった人にとっては、被害にあった人々の数に大きな衝撃を受ける。
その数字は、自然の力で命を失うことの「確率」の高さ、つまり、人間の自然に対する無力さがそこにあらわれている。

親しい人を失った人々も、その不条理を嘆くことから、人間の運命の中での圧倒的な弱さに気付くときが来る。
一方で、被害者の数に衝撃を受けていた人々は、その一人一人が一つ一つの人生を生きていて、その死を迎えたことを理解するようになるだろう。


結局、人間は自分だけの人生を生き、自分だけの死を死ぬ。
それが災害であろうと、病気であろうと、変わらない。
災害に遭わなければ、人生の最後の瞬間は納得のいくものになるわけではない。
我々の死は、常に厳粛で、あっけなく、自然なものだ。

こういったことが、改めて認識されると、人々の人生に対する意識も変わってくるだろう。
思想も哲学も、本来の人間を見いだすことになる。
あっけなく はかないもの、その意味を見いだすことが重要だ。
# by lebendig | 2011-03-22 09:42

哲学、、、だった

このブログ、テーマが哲学だった。
といっても、その最期であるが。

ニーチェ本が売れている。
癒されるそうである。
ニーチェも役に立つものだ。
いや、いまどき、どんな「哲学」でも役に立つものとして売り出されている。
役に立つ、というのは、今時は癒される、ということである。

現代は人間の心を疲れさせ、病ませる。
これが一つの条件である。
そしてもう一つ、哲学であろうと宗教であろうと、ありとあらゆるものを道具として使用する。
これが二つめの条件である。

マルチン・ハイデッガーは集立という言葉で現代を表現した。
たしかに、ニーチェの思想であろうと、あるいはハイデッガーであろうと、癒される部分だけ持ってきて、わからない部分はきれいに捨てて、適当な言葉を付け足して、マンガもつけて、、、、
そうして、ニーチェやハイデッガーまでもが存在させられている。

哲学とは役に立つ、哲学は癒される、哲学は楽しい、哲学は、、、、
逆に、役に立たなければ哲学ではない、癒されなければ哲学ではない、楽しくなければ哲学ではない、となる。
終いには、つまり最期には、哲学の目的は人生に役に立つこと、就職に、落ち込んだときに、暇なときに、などなど。

別に哲学でなくても、すべてそうである。
学校も、勉強も、学問も、就職も、結婚も、子育ても、定年も、そして老後と人生の最期も。
すべて、癒されて、楽しくて、おもしろくて、、、、でなければ、と。
果たしてそうだろうか?

ニーチェの言った生は、たとえば岡本太郎的に表現すれば、痛切なものである。
そのリアリティーを生とよんだ。
夢うつつの宗教的妄想を切り裂き、まじまじと生を見つめたのである。

それが果たして万人にとって心地よいものであろうか?
誰にとっても心地よくない。
ハイデッガーに思想も、重い不安を耐え抜く。
生の自覚、存在の自覚であり、覚悟と根性、勇気、力があるものだけ過一見ることが出来る「深淵」である。

結局、人格的に選別される。
その人にその人の力量に応じた哲学、だが、ハードルはかなり高い。
哲学は万人に到達可能な知識ではなく、やはり「学問」、人間の道である。
それにしても、ニーチェ、ハイデッガーはフィロソフィーの最期であり、
学問の入り口にしか過ぎないのかもしれない。
# by lebendig | 2011-03-10 10:08