哲学と靖国

西田幾多郎は鎌倉で近衛文麿の訪問を受けていたという。
当時は「哲学者」が買いかぶられていたのだろう。
しかし、妄想や幻想が取り除かれた今の感覚で考えると、信じがたいことである。
西田幾多郎と言えば、歴史の教科書に必ず登場する評価の定まった哲学者という感じだが、しかし、じゃあ今、西田をアクチュアルな哲学者として研究している者があるかというと、そんなやつはいない、ということになる。
もちろん、アナクロな連中というのは学問の世界にはかならず端っこのほうに群れて、自分たちワールドを作っているもので、これもいます。
しかし、そういう人たちだけのためのヒーローでしかない。

アナクロニズムな骨董趣味の哲学研究者というのが何の役にも立たず、現実との乖離を前提として生きる寄生虫みたいなもので、ひどいものである。そりゃあ哲学のポストも全国的にどんどん減っている現実もうなずけるというものだ。
哲学の学会の内部では、ヨーロッパの哲学史のあらゆる時代の代表的な哲学者の全てにそれぞれ専門家が十分いることが望ましいと考えられている。
そして、日本哲学界などでも例えば、古代、中世、近世(英/独仏)、現代(英/仏独)みたいな、大きなくくりを作って、それぞれに発表者のわくみたいなのをこしらえて発表させている。
しかし、ちょっと待て、といいたい。当然。
なんでそんな者が必要なのか、と。
確かに哲学は歴史を学ばずには議論の文脈さえわからない学問である。
しかし、これまで相当に研究がなされていて、もうほじくってもしょうがない。
また、日本の中に全部そろえておく必要も無い。
日本の中に西洋哲学史の小宇宙でも作る気なのかといいたい。
しかし、実際には、もう研究者が減ってきてしまって、発表のレベルも最近ではドクター、オーバードクターの発表がマスターレベルに落ち込んでいる。
まぁ、おそらくこの調子で行くと、十年後には代表的な大きな学会も無くなってしまうかもしれない。
実際、学会で若手をみることが少なくなった。
哲学自体が西洋哲学を必然的に要求しなくなったこと、団塊の世代の辛気くさい研究が全く魅力なく、若者にウザがられているということ、これが大きな要因だろう。

いずれにしても、今日の「問い」がなければならない。
そしてそれは、西洋哲学の歴史、これが根本から否定されねばならないのではないのか?というものなのだ。
東洋の思考を無理からに西洋哲学的思弁、偏った「論理」的思考に接いで書かれた西田の著作なんてのは、今日では本質からひっくり返されなければならない。
非西洋の思考の立場から、哲学的思考を批判し相対化する、これならばGJである。
その逆は、おはなしにならない。
もっともいらない哲学である。
学問がヨーロッパ的な作法で表現されねばならない、という強迫観念は、しかし、いまだ強固なものである。

ところで、靖国神社も同じようなものである。
神仏混淆であった江戸の宗教は、神道も仏教も無い。ごちゃ混ぜである。
神道と仏教、その他諸々の神々、霊魂、これらが同じ世界に住んでいた。
この混沌の世界が現実と観念的世界をグニャグニャグニャッと接続していた。
もちろん、胡散臭い宗教である。
しかし、だからこそ、彼らは現実的であったのだろう。
純粋な原理的宗教が荒唐無稽なあの世を大まじめに信じるのとは違っていた。
だからこそ、この世に生きることを彼らは慈しみ、生きて出会いがあることをかけがえの無いこととして大切にしていた。
オカルト的妄想の世界の人々がいとも簡単に大量虐殺をしてしまうのとは対照的である。
イスラエルが無差別に小学校に爆弾を落としてこどもを殺害したり、水道、電力などのライフラインを破壊するのは、そんなところから理解できる。
これに抵抗する人々が彼らと同じ純粋な原理的宗教へと向かっていくのは、しかし、由々しいことである。
どんな宗教を信じている人間でも、小さいこどもが無惨に殺されていくことに、意義を与えることなどできない。
それを悲しまない人間がいるだろうか。
ユダヤ人はパレスチナ人のこどもが無惨に死ぬ姿を見て、どう思うのだろうか。
もしかしたら、おぞましいことを考えているかもしれない。

明治に入って行われた廃仏毀釈に寄って、神仏混淆の歴史が無理矢理に終焉させられた。
そして神道をキリスト教のような者に改造しようとしたらしい。
しかし、神道なんてものは西洋における宗教の概念とは別のところにあるだ。
というか、ヨーロッパの宗教はきわめて特殊な、オカルト宗教であり、洗脳、信者拡大のための宗教である。だから、広がったのだ。こんな恐ろしい者のようにするためになにがおこなわれたのか?

天皇が神である、としていたが、しかし、「神」とはなにか?
これが重要だ。
しかし、これは西洋的解釈により、オカルト的な神と解釈された。
人間宣言しなければならなかったのはそのせいである。

明治に入って作られていったオカルト国家神道は、死んだ者を全部神として祀るという、瞠目すべき長州の土着宗教を取り入れ、靖国神社とした。
もちろん、そんな神道、明治になるまであった試しは無い。
怨念を沈める、あるいは、大きな徳をなした者を顕彰するための神社はある。
天神様や天草の鈴木神社とかだ。

家康が祀られている東照宮、これ信仰する人いるんでしょうか?
江戸時代はいたと思いますが。
まさに靖国神社は現代の東照宮。
政治的な都合で作られた、訳の分からない宗教。
信じて死んだ人はあまりにもかわいそうである。
だから、靖国はきちんと国家の意思でつぶして、インチキ宗教信じさせて死んだ人たちに詫びなければならない。
東照宮は、そんな罪はおかしてない。
オウム真理教は犠牲者がずいぶんいるが、靖国神社の数百万人と言うのとは5〜6桁違う。
信じて死んだ人のため参拝しなければ、って、信じさせたんだから信じていたのは当たり前。
彼らの自由意志で選択した宗教ではないのである。
しかも、不誠実なインチキ宗教だ。
これを、「日本人の宗教観はぁっ、」と口角泡飛ばし、口をとんがらせて主張している輩は全然わかっていないのだろうか。
オウムを信じて死んだ信者を弔うのに、オウム式で上九一色で行うのと同じ意味を持っている。

無理からに国家の宗教をつくれば、西洋の列強みたいな国になってかっこいいとかおもったのだろう。
明治政府の馬鹿どもは田舎から出てきて、何にもわからなかったのかもしれないが、ほんとにひどい。
わかっていたのは、大量殺戮した者が勝つ、ということ。
人間性を売り渡して手にした勝利だ。

良くこんなことを言う馬鹿がいる。
やり方とか、思想はともかく、明治維新がなければ日本が滅びていた、と。
第二次大戦と全く同じ理屈。
そりゃそうである、だいたい同じ連中が、同じ理屈を後から付けて自己正当化したのだから。
しかし、だまされてはいけない。
どうやって日本が滅んだのか。具体的になんかあるのか?
妄想である。いや、作り話である。
しかし、何十年も政府がごり押ししてきたこのレジティマシーは、糞であるが、長過ぎた。
あんまり、長く言い続けていると、本当に信じるやつばかりになる。
私は嫌いだがすきな者の多い司馬遼太郎とか、その辺の連中も信じきっている。

しかし、だ。
日本は滅んだ。
敗戦によってではない。
明治維新のとき、本当に日本の尊い歴史と文化が破壊され、残すべきものが死んだのである。
明治からこのかた日本人が本当の最低民族になったのはなぜか?あんなに尊敬すべき人間が社会の上からしたまで、犯罪者でさえ人格者であった国であったのに。
今では、警官、学者、教師、さらには僧侶、神官までも、そして政治家に関してはもはや当然、犯罪者であり、尊敬とは最も遠い民族と化したのである。
こどもたち、子孫に残すべきであったのは何か?
馬鹿が天皇担いでやりたい放題なことやって、(仕舞には天皇を暗殺)、この下品な情けない国となった。
最近靖国とか担いでいる連中、昭和天皇の本音が暴露されると、こう言った。
人格としての天皇とかは問題じゃない、と。
これは、明治新政府の連中とおんなじ考えである。
天皇なんざぁどうでもよい。しかし、これを握っていると何でも許されるのだから、担ぐのだ、と。
ひどいやつらだ。
そして天皇に洋服を着せたのである。

これは明治以来の哲学者たちも同じである。
同罪である。
もちろん、いまだに西洋文明が滅びかけているのを認識しない哲学者は、横のものを縦にして得意げで、目も当てられない状態のままで、靖国神社のことなんざぁ、チンプンカンプンだろう。
ばかが。

馬鹿だねー。
もう日本も地球もおわりだね。
物が分かっている人間、いや、人間がいないのだ。もう。
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# by lebendig | 2006-08-24 00:01

「靖国神社」よ、さらば。

明日、終戦の日、靖国神社に参るか参らぬかでテレビが騒いでいる。
中国と韓国(だけだが)も騒ぐつもりらしい。
だが、このあほらしい騒ぎも、あと10年もすれば消えてなくなるはずである。
問題が解決するからではない。
騒ぐ人間がいなくなるからだ。

かといって、それは戦争を知らないだけでなく、全く関心のない、「不届き」な若者だらけになるからではない。
靖国神社に英霊が集っていると思う人が死に絶えるからである。

少し頭を冷やせばわかることである。
そんなオカルトは、本当に気休めにしかすぎない。
人間死んだら無である。
だから、人間の生はこの上なく尊いのだ。

だが、その尊い命をむなしく投げ出した人々があった。
その友人や家族は、そんなむなしい話を信じたくはない。
だから、未だに「靖国神社」を信じている。いや、信じたい、だから、信じるのである。
それは悲しい人間のこころだ。

靖国神社は長州軍、帝国陸軍がご都合で作り出した新興宗教である。
麻原彰晃の宗教と同じく、旧来の宗教の信用と威を借りて未だに活動している。
はっきり言えば、全部嘘宗教である。
神道に価値があるとすれば、それは古代の人々の世界観であったからだ。
現代人がすぐにでも理解し信仰できるような、そんなものは神道ではない。
古代仏教に似せて作られたオウム真理教と全く同じ代物である。

オウム真理教に殉じ、生を失った人々が多くいた。
オウム内部でも相当死んでいる。
彼らの死を無駄死と思いたくない人々も多くいるだろう。
彼らはそれゆえにいっそうオウムから離れられなくなる。
しかし、我々はその信者を受け入れられるだろうか。
問題は靖国神社も全く同じである。

ただし、靖国神社のオカルト宗教のマインドコントロールは、国家を挙げて行われたのだからなかなか解けない。
戦争に悔いを残した人までも、「靖国神社」に頭を下げに「参る」始末である。
英霊になるという嘘話と引き換えに、多くの若者が死んだ。
もちろん、真っ赤な嘘宗教だから、「英霊」なんてオカルトな霊魂は存在しない。
本当にひどい話だ。
本当に腹を立てている人がいる。
しかし、この嘘話、でも、信じていれば存在すると思ってしまう、思考の弱い(いやもしかしたら優しいのか?)ひとがたくさんいて、最近は再生産しようとしている。

古書店で大変古い戦争の写真を見たことがある。
今の若者よりずっと幼い(純朴な)顔をした少年兵の亡骸が、南洋の小島の浜辺に延々と横たわっていた。
砂に半分埋もれ、眠るように目を閉じていた。
あるいは東京大空襲直後の市街の写真。
手足を屈折させ、真っ黒にこげてしまった遺体がごろごろ道ばたに転がっている。

彼らはその死と引き換えに、宗教的、オカルト的な報いを受けたというのか?
彼らはただ死んで無になっただけである。
残された身内や友人が、霊魂が英霊に格上げになって、長州神社に来ているとか騒いでいる。
滑稽を通り越して、悲しい光景である。
血を流し、こげていく断末魔の苦しみが、彼らの存在の最後の瞬間であった。
その苦しみに応じて、死後になにか得られたなどということは全くない。

最近の産經新聞的論調の論理はあほくさい。

東京裁判は不当である。
故にA級戦犯なるものは受け入れがたい。
したがって、A級戦犯ということでもって靖国に祀られないのはおかしい。
かつ、これは宗教の問題だから、外国が何か文句を言うのは内政干渉。
それ以前に、神道についての無理解が軍国主義復活という倒錯的反論を生んでいる。
こんなところだろう……

この主張の根底には、マッチョにメンチきるのが独立国家の証し、と思っている、幼稚な心理がある。
安倍とかのナイーブさはそこにある。
ほとんど亀田兄弟、というよりその親父。
その幼稚な心理に上の5行の理屈がくっついて、まんま信じた馬鹿が全く同じことを言っている。
これは知性を測る物差しである。

1番目の東京裁判が不当とか言っているが、もちろんフェアーではない。
この理屈にも、後知恵があって、それこそフェアーでない部分があるが、まぁそのくらいは許そう。
しかし、A級戦犯は不当裁判によるものだ、という理由で、A級戦犯を宣告された人々がイノセントであったということにはならない。
彼らは幼い幼いこども、死ぬには若すぎる若者、そして、無数の人間の未来と自分たちの野望
を秤にかけた。そしてあまりに惨めな、無数の死をもたらした。
彼らは、それが「仕方がない」から、無罪だと考えた。
しかし、国民にとってはそれが死よりも重い罪であるはずだ。

また、神道は悪人でも祀るとか言っている馬鹿がいる。
日本のどこに悪人神社があるのか。
あるのはたたりを恐れて祀られた神社である。
怨念。これが日本の神道を理解するためのキーワードだ。
東条なんかは、逆に何百万という人間の怨念の対象だから、
彼が、自ら死なせた人々の怨念を沈めるための、死者を祭神とする神社でもたてれば良かったのだ。
なぜ怨念が残るのか。
東条の怨念なんてのは聞いたことがない。

論理も不完全で、神道の知識も中途半端。
馬鹿がとびつく論理だ。
しかし、大挙してとびつくとは日本人も情けない。

日本を守ると言って、彼らは何を守ったのか。
国民の命と人生だろうか?
彼らは日本国が、それとは別のところにあると考えていた。
彼らの妄想的野心こそが「日本国」だったのだろう。

幼いこどもの命を守り、助け合い、かけがえのない瞬間を共有していく。
それ以上に大切なことはあるのか?
皆死に、無になる命である。
油が多少足りなくたって、人間は幸福に生きることができる。
原始人であろうと、古代人であろうと、小さいこどもの世話をして、その成長を見守ることができれば、幸せである。
人間が生きるところ、全てに、その幸せがある。
貧しくとも、暑くとも、凍えてもだ。

この唯一のものと、勝手な妄想を引き換えにした馬鹿がいたのである。
言ってしまえば帝国陸軍である。
彼らの思考は、常にある程度死んでもかまわない、という前提のもとで動いていた。
いや、全部死んでもいいと。
靖国にきて魂のランクアップがあるから大丈夫、だと。

本当にそんなこと信じていたら、秋田の殺人犯と同じである。
自分がついた嘘(宗教)を自分で信じてしまっていたのだ。
いや、もしかしたら、うそっぱちとわかっていたなら、最低だろう。
その歴史や文化を尊重もしていない天皇を担いで、やりたい放題やってきた長州軍の最後がかれらだ.

東条英機そっくりのおばあさんがでてきて、言いたい放題言っている。
だがやはり東条は南部の面汚しである。(靖国の宮司になった南部の殿様もだが。)
捕虜になれば全うできた命を、東条のせいでむなしく投げ出した若者が何万人いたのか。
孫は自分たちの苦労話ばっかりやっているが、両親の死んだこどもが孤児としてどんな人生送ってきたのか知っているのだろうか。
恥知らずである。

いまだ妄想の宗教と国家を信じ、人間の生の儚さを知らないバカが多すぎだ。
明治維新以来、日本は最低国家になって、人間が何かも忘れたのだ。

それにしても、東条の切腹失敗は噴飯ものだ。
頸動脈きるか、介錯させれば確実である。
人は軽く殺しても、自分の命は惜しいのだろう。
しかし、そんな器量の人間でなければ、あんな馬鹿は続けられなかっただろう。


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# by lebendig | 2006-08-15 01:05

自作pc

去年から2台のpcを自作した。
もちろん、自作と言っても、ケースを買ってきて、それにパーツを組んだだけである。
ずいぶん前に、シャープのMZ80シリーズを使ったりしていたことを書いた。
それはMZ80k2とMZ80cなのだが、k2のkはキットのkだったと思う。
つまり、モニタとキーボードのついたコンピュータのキットで、2は完成品ではなかったか?
これは70年代のことであった。
それ以前のマイコンはLEDインジケータで英数字ので至る表示だけで、テンキーキーボードのみ。
もちろん、それは自分で作るのだ。(完成品もあったのかな?)

当時はコンピュータは計算のためのもの。
いまは、ワープロとウェブがメインではなかろうか。
いや、昔も今も、実はゲームがメインかもしれない。

話を元に戻して、自作のpcというのは高くつく。
一つ目でそういうことがわかったが、しかし、最近研究室のMACが壊れてわかったことがある。
自作の方が壊れたときに損害が少ないのだ。
壊れたマックは、修理するより買った方が安い。
部分的に交換しようとしても、壊れる頃にはもはや時代遅れなのだ。
かえることは出来ても、かえる気にならない。

しかし、これが自作なら、CPUだろうが、マザーボードであろうが、変えてしまえばいいのである。
2年ぐらい使って、CPUがふるくなったら、新しいのと取り替えれば良い。
マザーボードが対応していなければ、マザーボードをかえれば良い。
どうせ高々2万円。
マックの修理なら、平気でその5倍はとられる。

ただし、ウィンドウズのインストールなどのとき、面倒なこともある。
いやその前の基本の設定で。
今回はハードディスクで難儀した。
最初からATA買っときゃいいのに、SATAという新しい企画の買ったら、
マザーボードにはそのドライバがないから、ウィンドウズが認識できない。
ドライバのインストールのためにフロッピーディスクが必要だと。
付属のCDの中にあるドライバをFDにコピーして、さてインストール、と?
USB接続のFDは、こういう時には読み込んでくれない。
ウィンドウズが入って初めてこういう奴らははたらきだすのだ。
(ちなみにシリアルではないキーボード、マウスも同様。)
本当にアホ臭いが、そのために、2台目のFDDを購入して組み込んだ。
2台のFDD装備したPCってありか?
ただし、USB接続の方はいろんなカードが読めるカードリーダーもかねていますが。

さて、読み込ますことができて、なんとなくSATAのHDDが認識されたような(とにかく、よくわからないから、何となく作業が続く)
では、ウィンドウズのインストール(XP)。と、、、、
途中で止まる。
さっきと同じじゃん!
何度やっても同じ。
いろいろチェックしたが同じ。

という訳で、ATAのHDDを購入。
こちらにインストールするのは、まあまあ簡単でした。
SATAはTVチューナーの録画ファイル置き場に。

と、翌日立ち上げると、画面真っ黒。
入力がない、とか字が表示されている。
何度やってもおなじ。
あーーーーあほか。
HDDはずしたりいろいろやって半日して、最初からインストールする決心をしました。
その後さらに ATAHDDを認識させるのに戸惑ったりして。

アホ臭い二度目のインストールなどがようやく終わったのでありました。
あほか。

これは自作の悪いところではないでしょうか。
もちろん、調べ尽くしておけば間違えることなどないと思いますが、
めんどくさい。

このめんどくささが、趣味の人には快感なんだなぁ。
仕事が目の前にある場合、腹が立つだけですが。
面倒くさい知恵の輪みたいな。
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# by lebendig | 2006-07-25 23:34

夏の景色は物悲しい。
いよいよ盛んな草木の様子に、かえってはかなさを見てしまう。
いや、夏の景色は、遥か昔、古の人を思い起こさせる。
「朝、浜辺にさまよえば…」のことばにあるような感情だ。
青春の一瞬、閃光がそこにあったし、遠い遠い昔から、繰り返され、
そして、はかなく消えてきた。
これは確かなことなのだ。
どのような老人にも青春の輝きがあり、
冷たい石の下の骨さえも、である。
いや、もはや誰も知るものもなく、痕跡すらない何万というひとびと。
彼らも確かに生きた。
そして今はない。
「つはものどもがゆめのあと」か。
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# by lebendig | 2006-07-25 21:53

精神疾患

最近、鬱病のCMなどがよく放送されている。
神経衰弱、ノイローゼ、メランコリーと、昔からよくあったことで、
特に現代の病ということではない。
専門用語としては、全部一緒くたにはしないけれど、
要するに、うつ。
これについては前にも書いたけれど、
病気という側面と、
己の存在に自覚する存在者たる人間の、
本質的な感情という側面があると思う。

うつは、ともかく、躁は問題だ。
これは、本人には問題ではないらしい。
問題なのは周りの人間にとって。

自分の思いつきに確信を持ったり、
けんか腰、威圧的な態度、常識を逸脱した言動など。
もちろん、そもそもその人間の人格、教養、素性によって現れ方は違う。
その人間がくだらない人間であったりすると、
それがむちゃくちゃに増幅されて表出する。

終いには自己の生命にも関わるようなこともし始めるから、
周りの人間は無理やり入院させたりしなければいけない。

最近の精神疾患患者に対する対応はそうすることを許さない。
「偏見」を取り除かないといけないらしい。
本人が一番苦しんでいるんだと。
しかし、迷惑を被る人間がいる場合、違うだろう。
自己の病について管理できない人間の犠牲になる義務はない。
人格障害、躁病で迷惑している人たちもいるのではないだろうか。

もちろん、犯罪者についても同じ問題がある。
教育刑でなく、隔離と矯正が必要。
それがいやなら、自己管理して「犯罪者」にならなければいい。
被害者が一番の被害者、って当たり前だ。
加害者が被害者になるという荒唐無稽なコントラディクション。
これ、善が悪になるというヨーロッパの道徳と同じ話。
ルサンチマン?
いや、もっと屈折した現代病だろう。

その病はいわゆる「人権派」とかがかかっている。
弱いもの、善良なもの、正直なもの、これを扶けるのが正義。
それが正しいはずだ。
犯罪者、加害者が弱者であるという論理はどこから来るのか。

たしかに、社会的弱者が犯罪によって露命をつないできた過去もあった。
しかし、そんな話はこの現代国家にはありえない、伝説の話だ。
もっと単純に、加害者は排除され隔離され矯正され、いやその前に償いが為されなければならない。

精神疾患者も病人である前に人間であり、
これが加害者であるならば人間的に扱われなければならない。
正義に基づき、適正に扱われる。
人間社会の秩序。
それは人間の人間たるゆえんを体現するものであるはずだ。
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# by lebendig | 2006-04-20 20:00

哲学の消滅

環境倫理学の議論でよく、人類は果たして滅んではいけないものか、などということを論じている。

まさに哲学が不要だということを示している。
人類を救う術を考える前に、救うべきかどうか、論じる必要があるんだと。
そんなことが言葉で証明できるものか、証明する必要があるのか?
哲学は永遠に何もしないことになるでしょう。

しかも、哲学は人間と違う、高い高いところからものを見て語るらしい。

ないって、そんなもの。

哲学研究者は人間ですらない。
科学者も同じですけど。

倫理的ではない人間が倫理を分解する。
倫理的な人間などどこにもいなくなってしまった。

倫理的な人間がいて、人間よ死んでくれるな、と思う。
それが環境問題解決に必要。
屁理屈をいくらたれても世界は絶対に救われない。
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# by lebendig | 2006-04-11 22:10

すべてはかない

ながいこと空けておりました。

ずいぶん目まぐるしく、いろいろありました。
それにつけても、去る者日々に疎し。
人間というのは目の前にいる、自分の関心のある人間にしか現実感がないのでしょうか。
いなくなると、すぐにそれが当たり前になる。
まぁ、ならないとそれは困りますが。

確かに忘却は一つの能力か。

悲しい悲しい記憶も、あんなにぎらぎらしていた瞬間も。
今はうそのように静まり返り、おそらく、このまま。

しかし、記憶にはなくとも、この瞬間が存在したことは永遠の事実。
消えても、消えないのである。
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# by lebendig | 2006-04-11 03:16

文明

覚え書き

文明とは何だろう。
そもそも定義が甘い。
というより、誰か定義しているのか?
これは「なんとなく概念」だろう。
何となく流通していて、何となく共有された定義がある、ようなないような。
そんな曖昧なもの、無視して酔い。
いや、しかし、文明と呼ばなければならないもの、現象があることも事実。
それが何か見極める必要があるし、それこそが文明と呼ばれるべきものだろう。

文明に近い概念で、より後半に使われる文化という言葉がある。
いずれも漢語(明六社あたりでつくったのだろう)では、「文」という文字が入る。
漢字文化圏では文、そして漢籍、これが文明文化を象徴し、また確かに主観的に解釈してきたものであっただろう。
しかし、もちろん今日では文字を文化の基準にはしない。
インカは文字を持たず、キープと呼ぶひもの結び目で情報を伝えた。
さらに、文様や口承、神話や構築物、服飾などなど、文字ならぬものに文化文明を伝えたものも多かった。

文化の相対性を前提するならば、文、文字は特殊なものであろう。
確かに文字は正確に大量に情報を伝達し、蓄積するのに優秀である。
しかし、伝えられるものが重要なのであり、たとえば今日の情報の氾濫を見て、それを文化そのものだと認めるものはない。
ではなにが文化で分明なのだろうか。

文化は今日最も広い解釈を必要としている。
もちろん文化の多様性の是認を前提するならば、である。
すなわち、文化とは人間の生きる生き方、である。
生きることが、直ちに文化、というとたしかに曖昧になる。
しかし、人間は野生動物ではなく、環境に対し社会を形成し順応する。そして、さらに、社会の内部に社会的な組織の維持を円滑ならしめる、個体間のコミュニケーションを成立させる。
社会を形成する動物は数多いが(シロアリからチンパンジーまで)、人間は明らかに諸集団間の社会の形成、個体間の関係に関わる行動様式に差異を認めねばならないという点において、他の動物と異なる。
つまり、動物の社会は、具体的な有り様はその集団の偶然的な環境によるが、その社会形成の様式はほぼ一定であろう。しかし、人間においてはそれは明らかに異なっている。
人間は、やはり「文化」とよべる、生の様式を必ず持つのである。
そしてこの様式なくして人間は存在し得ない。

こう考えるならば、文化は人間の生きる社会には必ず認められると言うことになる。
それがもし、絶海の孤島における、数十人の集団であってもである。
だが、文明には同じ事を言うことが出来ない。
文明は数十人の村に存在すると言うことは出来ないし、言われたこともないだろう。
文明はある一定以上の規模の社会集団を必要とする。
いや、明らかに大規模なものについて「文明」という語が使われるのである。

では、偶然に多くの人間が社会を形成していた場合にもこの語を使用できるだろうか。
だが、実際には逆であろう。
文明が大規模な社会を可能にし、また、大規模な社会が成立して初めて文明が生まれる。
このことは同時に相互的なのである。

すると、この「文明」には、巨大な社会を形成していく力があり、また同時に大規模な社会に依存するものでもあるのだ。
どちらが先か、鶏か卵か。
それは重要ではない。

文明は大人数を養うだけの生産力を持つ集団であり、かつ、それを可能にした技術、知識、社会組織こそが「文明」の指すところではないだろうか。
この生産の能力により大規模な社会が生存可能となる。
一方でその大規模な社会集団と、その拡大により、はじめて生産能力の維持拡大が可能である。
これは相互的な関係なのだ。

しかし、これは単なる機能的なメカニズムだけにとどまるものであろうか。
たしかに、食料など物質の生産という面に関して文明という概念がより重要な意味を持つことは確かであるが、そのような社会組織を形成し、そのような生産に関わるのは人間である。
何も考えず、ただ状況の中で行為するということはあり得ない。
であれば、「文明」なるものを人間に形成させしめる何らかのものがあって、支えていなければならないと言うことになるのではないだろうか。

文化は何の条件もない、人間の生の形式である。
それに対して文明は、人間に巨大な社会の組織、拡大と生産という条件を課す。
この条件を満たさないものは、大きな影響を与えることは出来ない。
なぜならば、社会組織の拡大、あるいは組織化の拡大によって、その生の様式の影響があるとかんがえるならば、つまり、社会組織を拡大する仕組みである「文明」こそそれであるからだ。

我々が地球上の何らかの文明に属していることは確かである。
確かに我々は地球表面上を覆い尽くす「人類社会」を形成し、これを前提に生産を増大し続けている。
過去にさかのぼっても、古代より日本列島を覆う社会の形成があり、生産も増大させていった。そう、農業である。
我々の記憶にある限り、我が国は常に文明のうちにあり、その力の影響を受けてきた。
我々は文明を前提としているのである。

物質生産の増大は社会組織のさらなる巨大化を許す。
その巨大化した社会が更に多くの生産をもたらす。
この拡大の過程で、拡大の速度に応じて一時的な余剰が発生する。
もちろん、継続的に拡大していくならば余剰も継続である。
それこそが我々が手にしている富である。

ところが、その拡大が不可能になったとき何が起こるか。
拡大、増大の停止ではなく、崩壊である。
これは過去の巨大文明が身を以て示している。
そこには必ず環境破壊の問題が存在する。

しかし現代文明はそのような過去の教訓を自覚し、いや、現在自分たちのある状況を理解し、まえもってそのような崩壊を回避できるかもしれない。
たしかに、この文章自体それである。
今日我々は試されているのである。

文明自身にはこの拡大を止める様な機能も力も可能性もない。
文明の提供するシステムのうちにある限り、崩壊は確実なのである。
しかし、その文明を形成するのは人間であり、この人間がいかに考え行動するかによりその可能性が生まれるのだ。

ここで重要なのは、人間をして文明を形成せしめる際にうちから支えたであろう、その文明に特殊な、文明形成に力となる「文化」、人間の生の形式、あるいは端的に思想が、どのようなものであったかである。
我々も当然その思想のうちに生きてある。
その制約を突破できないようであれば答えは悲観的である。
一方、これに対抗し得るのであるならば、可能性はある。いずれであろうか。

滅んだ過去の文明はさておき、まず、我々は我々自身の文明について考察しなければないであろう。
ただし、これは極めて特殊な文明である。
これは地球の全表面に及ぶまでに増大した唯一と考えられる文明なのだ。
過去の文明が突き当たった壁を越えるシステムが、このうち二は認められるだろう。

この特殊な特徴と、それに由来する人間の特殊な生の様式、思想、その解明が第一であり、それによって、これに対抗し得るすべも見つかるはずである。
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# by lebendig | 2006-02-07 02:35

寒い「教育」

この時期、業界的にはいろいろルーチンではない仕事が増えまして。
まぁ、言い訳ですが。
しかし、思索を巡らすというようなことは、他の様々な仕事と一緒に、細切れにやったりは出来ないもので、暇があっても何も進まない。
いってみれば、この時期の些末な様々な仕事というのは、「教育」に必然的伴われるものであるから、哲学と教育は相性が悪いと言うことになる。
いや、必ずしもそうではない。
手続き化された「教育」と相性が悪いのである。

今日の教育システムは、まさに手続きとして成り立っている。
中身というか内容というか、つまり人格のうちに実現されるもの、これは今日全く問題になっていない。
結局、人格の育成は今日の教育システムの目的では全くない。
そして、思索は人格と不可分のものである。
つまり、哲学は今日の教育の中では成立しない。
というか、今日の「教育」は教育ではない。
教育とは人間を導き育てることであり、ただ養殖するようなものではないことは当たり前である。
すると当然、何を目指すのかが問題となる。
目指すべき人間像、これが教育において最も重要だ。当たり前であるが。
そしてこれは、教師自身でさえも尊敬すべきようなすばらしい人間であるべきだ。

ところが、本当に情けない最近の教師は、自分みたいに教育するのが最高だと思いこんでいる。
なさけない。
自分の受けたつまらない教育を、自分が教育するときのモデルとするのである。
そんなことをすれば、つまらない人間の、さらにその出来損ないが再生産されていくことになる。
いや、どんどん悪くなる。
今現在、我が国には尊敬すべき様な人格などほとんどない。
無理に尊敬しようとする場合はあるかもしれない。
しかし、真に目標とすべき様な人格とは、有無を言わさず尊敬してしまうような人格なのである。
そんなものいないので、そんなことも忘れてしまっているのだ。

自分の受けた教育をモデルにするということは、自分みたいな人間を生産することを教育目標とするということ。
つまり、自分はすばらしい、と思うこと。あー寒い。。。。
教師のやるべきは、自己否定。
自分みたいなのではだめだ、と自覚する人間が、初めて教師になれる。
いや、耐えざる自己否定により、初めて人間は成長できる。
自分ができあがったすばらしい人間だと思いこんでいるようでは、成長は完全に止まっている。

自己を否定する。
幼稚な人間には出来ない。
しかし、今時の教育者は幼稚な人間ばかり。
寒い時代になったものだ。
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# by lebendig | 2006-02-06 23:29

「意味」?

意味という言葉がわからない。
どうやって定義しようとも、トートロジーになってしまったり、恣意的であったり、あるいは、勝手な議論の文脈の中で定義されたりする。
しかし、これは人間存在にとって根本的なものだろう。
副次的に定義されるようなものではあり得ない。
恣意的に定義される「意味」は意味ではない。

ドイツ語のSinn(意味)は、語源的には道みたいなものに辿り着くという。
わからん。これはこの語の根元的なものを示唆はしていないだろう。
では漢語である、意・味はどうか。
意はやはり意識、意図の意であり、意思、意志を意味している。
大和言葉では「こころ」と読む。
この内容(味)が意味である。

この意から見えるのは、人間の存在であり、その主体的な意志だろう。
意味を問うというのは、意味を認める人間を問うことであり、結局はその意味を意図し意志する人間を問うということだ。
人間から離れても意味が成立するというのは、ある意味アニミズムである。

目的論的、あるいは神学的な「意味」を持った「知」の解釈から離れ、客観的な知という発想が、今日につながる近代思想を形成している。
しかし、今日では、「客観的」を標榜していた「知」が、非常に特殊な「意図」を含んでいたことは様々な形で明らかになっている。
現代社会を形成した「客観的」な学問は、しかし、「生産力の増大」という「目的」に関する「合理的」な「知」であって、その合理性はこの目的から離れて「客観的」であることはできない。
客観的などという知はなかったし、知は常に目的、意味、意図から離れて成立したことはなかったのである。

であるなら、我々の知の探究は目的、意味を明確に自覚するところから出発しなければならない。
「客観的」を標榜する詐欺的な学問に右往左往させられている時間は残されているのか。
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# by lebendig | 2006-01-03 00:00

怒り

感情とはなんだろう。
生理学や動物行動学の立場から言うならば、群れ、社会を形成する動物としての人間の、田の個体との関わりのあり方を決定、あるいは調整し、個体としての条件と環境としての社会が与える条件とをすりあわせる為の、あるいは、個体としての動物の生存可能性を他科からしめるための筋肉および自律神経系の、表現的行為とそれに伴われる、筋肉および循環系の内管とである。
こんなもんだろう。
人間にとっては、全く別なものでも、惹いて考えれば、それはこんなものだ。
不快感、快感に対する反応。
生物はこれにかぎられる。
そのために洗練されてきたのだ。

怒りも又それ。
骨格筋血流の増大、あるいは、そのための自律神経の反応。
心拍の増大、瞳孔の拡大、呼吸回数の低下。
もちろん、あらゆる感覚器官が鋭敏になり、疲労などの情報は低減する。
すべて戦いのためだ。
戦わねばならない、そう肉体が反応する。これが怒りという状態であり、それに伴われる内管を、我々は「怒り」と呼んでいるのである。

<未>
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# by lebendig | 2005-12-28 12:17

人間の夕暮れ

2005年も暮れかかっている。
それだけではなく、なにかも暮れていくようである。
美しい夕映え、しかし、すべてが一つの色の中に沈み込んでいく。
様々に彩られた人間の生が。。。

希望、可能性の記憶はその青さを忘れている。
人類、文明、世界、人間、こんな言葉もかつてはもっといきいきしていたのではないか。

いつの時代にも、ひとは自分の夕暮れを見つめた。
しかし、ひとり自分を越えたものには違う彩りがあったはず。
そこに、断念と肯定を見たはずだ。
だが、いま、すべてが一つの色の中にある。

里心。
どこへ帰るのか。
しかし、どこから来たのだろう。
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# by lebendig | 2005-12-23 22:11

続けてはじめて意味がある

うっかりすると、ずっとお休みしてしまう。
日記みたいなものだから、やっぱり継続は難しい。
これまで日記も続いたためしはない。
続かなくても続ける為に、いくら休んでもよい、というルールを作った事があった。
間が1年とか開いていた。
まぁ、それもまたおもしろいんですが。

しかし、ブログに力を入れるより、論文かなんか書いていた方がよっぽどいい。
いや、下らん論文書くぐらいなら、言いたい事言っていた方が後につながる。
どっちか?
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# by lebendig | 2005-11-21 22:38

人格とは?

人格とは?
わかる訳が無い。
人間とは?私とは?これがわかってないのに。
いや、これは社会一般における理解でもいい。「本質」から理解する必要はない。
一面、これは社会的なものだからだ。
そちら側から「本質」へ向かえばいいのではないか。

ところが、しかし、何度も言っているが、社会において「人格」が問題にされていないのである。
もちろん、対人トラブルを引き起こし続ける「人格上の問題」なんてものはよく論じられたりする。しかし、何が目指すべき、あるべき人格か、という問いかけにはお目にかかった事はない。
そして人格者にもお目にかかった事はない。

ということは、理解もできないし、さしあたっての理解もない、ということになる。
では、我々が定義しなければならない。

その前に、なぜ人格の陶冶がなされないのか、目指されるべき人格がないのか、について考えなければならない。
なぜないのか?
それは、目指す事に、そしてそのような人格に「価値」が見いだされなくなったからだ。
メリットがない、利益がない。
しかし、何を人生の価値とするかは、むしろ人格に依存する面が大きい。
何の陶冶もなされていない人格にとって、人格の陶冶は無用である。
つまり、アホがイランといって、なくなったという訳なのだ。

しかし、人格の向上によってのみ人間は本質的な意味における人間的生、その「自由」を得る。
勝手気侭な自由は動物の自由であり、単なる自然現象だから、必然に支配されて自由はない。
しかし、人間的生、これは自然の必然を超える何かである。
これにおいて自然の必然に対する自由が得られるのだ。

一方、思索によってのみ自由が得られるとするテツガク者もいる。
いや、そんなのばっかり。
しかし、そのようなテツガク者たちは、エキセントリックな変人ばかりである。
つまり、自分の趣味嗜好、欲望感情などがコントロールできていないのである。
そして、彼らはその趣味嗜好、欲望感情に引かれて善光寺、ではなく、奇行をおこなうのである。
人格の問題故に、哲学的思索による自由が得られていない、どころか、むしろ不自由である。
(未)
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# by lebendig | 2005-10-31 23:36

人格の陶冶

今時、学者で人格をどうこうしようとする人間は皆無になった。
そもそも、人格という語の意味自体が軽薄なものとなっている。
それでまた、何の努力もせずに、業績を積むと人格が「偉く」なる、と考えるアホ学者まで出るに至っている。
そもそも、今日のような科学やらの学問は人格の陶冶と全く全然関係なし。
人当たりの良さとか都合の良さでしか人格をうんぬんできていない。

しかし、人格は重要だ。
その人間がいかに生きるのか、その生き方を自らの努力によって形成していくのである。
これよりも人間の可能性を実現する道はない。
初期条件ですべて決定されているのが今日のアホな人間たちであるとするならば、逆に、人格を陶冶しようと目指す人間には本当の意味での自由がある。
人格の陶冶こそが人間の最高の可能性だ。

まじめにそれがなされていた時代には、すばらしい人間がいたし、人生の意味、意義を最高足らしめ得たのである。
それに比較し現代にすばらしい人格など存在しない。
だからこそ、目指すべき人格もみつけられない。
さればこそ、目指さない。

一般には、人格の陶冶というと、社交的な面から見て角をとっていくということや、共感する能力を磨く事、さらにくだけて言うなら、情にもろいほどいいとか、お人好し、そんな人間になる事を言っているようである。
または、逆に、困難に耐える資質、誘惑に負けない資質、欲望を許さない資質、感情に溺れない資質、それらを磨く事、簡単に言えば「頑固」になること、これを言ったりする。
しかし、それはある面で必要なものかもしれないが、一面にすぎないし、また、人格の陶冶の目的とはなり得ない。

では人格の陶冶の目的とは何か。
もちろんそれはあるべき人格を形成し、生の可能性を最高足らしめることだ。
それは単に社会生活を順調なものにする為ではないし、迷いが無い楽な状態を目指すものでもない。

今日の学者は知識が得られればそれで「サイコー」と思っているらしい。
対象しか見えていないのである。自分自身は知識によって勝手にどうにかなるとでも思っているのだろうか。
知識の意味なんてものは、自己のあり方でどのようにでも変化する。
そんなことは古代からの常識。
現代においては非常識か?

儒教は形而上学を消極的に否定し、社会生活上の倫理を重んじた。
そこに言われる徳は、当然、我々の存在の意味という究極的な、存在論的な答えではない。
仁すなわち忠恕とは、「私」だけに完結するものではない。
それは「社会」を前提としている。

しかし、人格の陶冶は社会との関わりが大きいが、しかしまた、我々の理性はそもそも社会的なものである。おさるさんが群を作る中で発達してきたものである。
「テツガク」するためにできたものではない。
形而上学、存在論のためにはできてない。それは特殊な使用法だ。
その特殊な使用の為には、我々は考えなければならない。
これまで屑の山を作ってきたテツガクの轍を繰り返してはいけない。

そのためにも、人格の陶冶は必要だ。
ただ何をすればどう、というのではない。
我々の生の意味を求めるにあたっても、人格の陶冶は必要なのだ。


ところで、どうすればいいのか。どういう人格が必要なのか。
簡単である。
最も重要な事を成し遂げられるように、その為に必要な資質を身につければよい。
もちろん、最も重要な事が何か、これは議論の余地がある。
生の意味か、存在の意味か。
しかし、都合良い人間になる事ではないし、感情欲望に流される人間でもない。
感情欲望を否定するだけの人間でもないし、知に傾いた人間でもない。


いや、長くなった。
知、人格、感情、、、、、また別の機会に深く論じていきたい。
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# by lebendig | 2005-10-25 12:02

へこんだときこそ粘る

アホな仕事のせいでグチりブログになりそうだ。

アホにアホ言っても、アホ言う方がアホになるので、そのネガティヴなエネルギーを哲学へ。
いや、哲学がカタルシスになる訳は無い。
なったら嘘。
謎、苦悩、絶望、これが哲学のテーマだからだ。
アホな哲学には問いが無い。

いや、しかし、ネガティヴな感情を得たときこそ、人格の陶冶の好機だ。
最悪のときに人間の真価が現れる。
逆境は友を試す。可愛い子には旅をさせよ。
少しずれているが、とにかく、古今、逆境を人間の試金石ととらえたし、また、人間の成長に欠かす事ができないものと考えた。

それにしても、哲学をやっている人間で、人格を陶冶しようなんて考えているものはいない。
何しろ、好き勝手にやってきた末が哲学なのであるから、みんな自分勝手なのである。
もちろん、ほかの学問に至っては、いる訳も無い。
奇人の巣窟である。あるいはバカ。

ののしったりして、人格の陶冶なんてできてないのではないかと、批判も来そうだが、しかし、そんな問題ではない。
学問の道は厳しいのだ。
それもあり、アレもあり、では信念も何も無い。
しかも、そのうち、自分自身を甘やかす事にもなる。
そんな事の無いように、他人にも冷たく、もちろん自分に対してもシビアに批判するのだ。

それにしても、人格の陶冶をなぜ誰も口にしないのか。
かつては確かにそれは人生の大目標であった。
そしてその実現は、人間に真の自由を与えてきたのである。

今日、人が求める自由は、動物的な欲望の自由。
はっきり言って人間的な自由の立場から見ると、それは全く自由ではないのだが。
しかし、成長を拒否する現代の人間は、人間以前の自由しか求めようが無いのかもしれない。

ところで、人格の陶冶とは何か。
昔の懐の広くて清濁あわせ飲むような政治家になるという事か。いやちがう。
自分の欲望をコントロールできるようになる事でもない。
それは、常に最も重要な事から目をそらさず、しかし、優先順位のより高い事柄にも配慮して、しかし、それをわざとらしくなく実行し、焦らず、強く、確かに生きていけるようにする事ではないか。
社会的な関係から考えれば、遠い先を見て、真にその人の為を考えられるようつとめる事ができる。そういう事ではないか。
しかし、人の為とは。ただ喜ばせればいいのではないのは当然だ。
それは自分が本気で生の意味を探求してはじめてわかるものだろう。

少なくとも、今はまだ私にはわからない。

だから、当面はその探求なのである。
しかし、同時にネガティヴな条件は確実に押さえていく。
こうでもいいのではないだろうか。
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# by lebendig | 2005-10-17 23:23

忙殺

恐ろしく忙しいこともある。
どこの大学も忙しいらしい。
しかし、私の忙しさは日本一に近い。
なぜか。
いろんな事が私の肩に乗っかっているのである。
誰がやってもいいのなら逃げようもあるが、そうも行かない。
別に、「私は必要とされているのだ!」と思いこみたいわけではない。
あんまり大学の先生が出来そうもないことが出来るので、やっていたらそうなったのだ。
能力が仕事を呼び、しかも報い無し。
こんな事続けるのは、ほんと、エートスだけの問題だ。

しかし、アホか、とも常に思っている。
大学の先生には威張りたい人がたくさんいるのだ。
そういうアホが、無能無知ゆえ私の仕事の妨げになるのだ。
アホが。

むちゃくちゃたくさんの仕事を、何とか効率よく進めていこうとしても、わからないと言うことを理由に妨害する。
本人にはその認識はない。アホだから。

というわけで、アホほど仕事がたまり、アホほど睡眠時間が減り、体力気力の減退を精神力で乗り切っています。

哲学?
学会シーズンなので、出席して酒の肴のネタ探しでもしますか。

右を向いても、左を向いても真っ暗闇。
がくもんはどこへ行ったんでございましょう。
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# by lebendig | 2005-10-07 18:45

哲学の最新動向

学問の流儀は、その学問に応じて様々ある。
しかし、基本的に最新の動向に通じておく事が必要である。
なぜなら、ほとんどの場合、「新しい」ということが業績の唯一の基準だからである。
新しい、珍しい、これは現代を特徴づける形容詞である。
これが学問の価値である。
もちろん、必要も無く必然性も無く、そんなものでも、この形容詞により学問的な価値が創造されてしまう。

ところで、我々はそんなに「あたらしい」ものを必要としているのか。
たしかにそうかもしれない。
「あたらしい」ものがなければ、我々は退屈で死んでしまうかもしれない。
死んだ方がいいかもしれない。
様々な学問がひねり出す最新の学問的業績は、ほとんど不必要である。
何の為に?人が生きる為にである。
その最新の業績がぜひとも人類社会に必要であるというのであるなら、それが無かった昨日までの人類社会は否定されてしまう。
江戸時代、古代、全部否定。
そこに生きる人々否定。
彼らは価値のない文化社会のうちに生きていた。
価値ある為には、現代まで待たなければならなかった、ということになろう。

結局、今ある学問は全部不要という事だ。


しかし、これとは違う流儀の学問がある。
哲学である。
何しろ、二千年以上前の人間の言行録を未だに読んでいる人がいる学問である。
最新の、といっても、最新なんてもの自体あり得ない。

所がである。最新の哲学が最前の哲学、と倒錯した信条を以て議論を始める輩があるのである。
2千年以上進歩していないものが、ひと月、半年、一年でかわるはずが無いのである。
しかし、哲学の世界にも最新流行が好きな御仁が多数いる。
横に書いてあるあたらしいい論文を読む事を、イコール哲学と考える人が多いのである。
そんなアホな事は無い。

我々は、自分たちの時代が特別だと考えてしまう。
今議論されているその哲学説が、これまでの二千年以上の歴史の究極的な到達点だと勘違いしてしまうのである。
しかし、二三十年すればそれが二千年以上の歴史の中で掃いて捨てるほどあった雑魚論文の一つにしかすぎなかった事がわかってくる。
しかし、わかったときには既に遅し。
人生の数十年、青春のすべてを費やした日々、それらが虚しくなってしまうのである。
あとは、自分をごまかしながら、まぁよかったのではないか、とかいいながら一生を終える。
ほとんどの哲学者の一生はそんなもんだ。
もちろん、死ぬまで気づかぬ者いる。

哲学の最新動向。
言ってしまえば、二千年以上、変わりなし、ということになる。
表面的にはいくらでもかわる。
かえればいいと思っているからかわる。

だがしかし、我々が欲しいのは、本当の、真実の「こたえ」だ。
それが何か、全くわからない。
偽りの自己満足、マスターベーション、欺瞞、倒錯ではない。
「哲学」とか「思想」を鑑賞の対象にして味わったりする事を目的としている人もいる。
そういう勘違いが腐らせていく。
あたらし物好きも同じ。

人類文明開闢以来、実際には何にもかわっていない。
何もかわらず、我々は生きている。
死んでいく。
それは趣味の「哲学」の鑑賞対象ではない。
我々自身である。
我々自身の無。
そこへとすべてが向かっている。
手段が目的と化したのか、そもそも無目的なのか、腐れ哲学の最新動向など、全く無意味。
ワイドショーで芸能界の最新動向でも見ていた方がまともである。
なぜなら、それを見ている人は自分が何を見ているか自覚があるからだ。
「テツガク」は自覚さえ無い。

洞窟にでも籠って、思索の必然に従っていた方がましである。
30年くらい。
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# by lebendig | 2005-09-08 22:36

その後

グーグルはあんまりブログの中身までは読み込んでいないようである。
検索しても引っかからない。
やはり、タイトルが問題だろう。

タイトルに副題をつけよう。

「哲学の最期」ということでは表現できていないニュアンスを、副題において「適切」なことばにする。
これで、二つの目的を達成する。

という訳で、タイトルを「哲学の最期 <新しい知を求め、旧い知を往生させる。>」としました。
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# by lebendig | 2005-09-02 07:47

公開?(再考)

このブログである。

公開は公開であるが、読む事を望む人がいて、初めて「公開」という言葉を使う事ができるのではないか?
だいぶ前に書いたように、このブログは2つの面から「公開」の要件を満たしていない。
第一に、存在をほとんど知る人がいない。
第二に、読む事が望まれていない。(第一を満たしてなければ当然だが。)

もちろん、満たしている条件もある。
第一に、誰でもアクセス可能である。
第二に、、、、は無い。


我々が「公開」ということで思いつくのは、例えば「公開処刑」。
北朝鮮、中国ではいまだなされていると聞く。
以前は、アフガニスタンにおけるタリバンによるその映像が「公開」されて、物議をかもした。(物議というか、反感か。)
この「公開」は、見たいものに見せる、という意味と、見せつける、という意味がある。
もちろん、見たくない者は目をつむれば見ないですむ。
しかし、「公開」という形で処刑がなされる、ということは、目をつむって関わらずにすますことを許さない。
その場に近づかず、耳を塞げばなかったことになるものではない。
私が見なくとも、様々な人が見ているのである。

処刑と処刑される人が見られる。
その場に居合わせる人々は、処刑する側に加担している事になる。
好奇の目で見たり、あるいは辱めるために見る、処刑に溜飲を下げるものがいる事を見せつける。見るという行為は、視覚情報を得るというだけではなく、社会的、文化的な様々な意味を持っている。
また、処刑される側に回る場合もある。
処刑される者に同情、共感があるならば、見る事によって精神的にはダメージを負うであろう。

これは極端なケースであるが、しかし、あらゆる「公開」にも同じ側面がある。

インターネットのメジャーな掲示板で名前や住所などの情報が「晒され」たりする。
それは、その情報を悪用する誰かに対する情報提供であり、晒された者はそのリスクを負う。
このことが通常問題視される。

しかし、それは実は重要ではない。
今日、個人情報など垂れ流し状態であり、本当の悪用は別の情報源からなされるだろう。
晒す目的は、晒すこと自体である。
先ほどの公開処刑と同じである。
見られる事、見られ得る事、それは精神的にダメージだと言ってよいだろう。

社会的な意味を持つ犯罪に対して、我が国においても「さらす」ことがなされた。
「市中引き回し」の上「獄門」である。
それは「死」ではなく、「死」をさらされる事が「刑」になっている。
社会的犯罪に対しては社会的な刑でもって処するのである。
逆に切腹は刑でありながらも社会的には名誉である。
しかし、その社会的制裁の側面が「官軍」によって悪用されたりした。
楢山佐渡は斬首刑ではなく切腹を求めた。
会津藩士の躯はなぜさらされたのか。
このような仕打ちは文化的・社会的に許されるものではなく、百年以上の社会的な恨みを残す事になった。

本題にかえる。
このブログが公開であるか否か、ということについて、一つの疑問が生ずる。
そもそも「誰」が、という事を明らかにしていないこのブログは、たとえ一万人が見たとしても、「公開」ではない。
「私」は晒されていない。
まぁ、それを逃げている、と言ってもいいかもしれないが、私と言う人間が負っている社会的・文化的な制約から自由になることが必要なのだ。
言っている事それ自体を問題にしてもらいたい、というのもあるし、それ以外のところから批判反論されても意味が無い、だから、それ以外の情報を出さない、というのもある。


しかし、公開ではない仕方で、しかし、多くの人の目にさらされたい、という希望もある。
試されたいのである。
もちろん好悪ではなく、真剣に、シリアスに。

まぁ、その方法もあることはあるだろう。
一つは、検索に引っかかりやすいキーワードをたくさん入れるという事だ。
今、どのようなキーワードによる検索が最も多いか、なんてのはすぐ調べられる。
もちろん、関係ないキーワードをたくさん埋め込んでおいても、興味の無い人がカウンターをまわすだけ。
そこを考えて何か入れておく必要があるだろう。

たとえば、韓流、地球温暖化、レクサス、亀井静香、マジレンジャー、iPod、リタリン、ピアノマン、立川談志、釣りバカ、愛知万博、TX、スターウォーズ、ブルーレイ、ほりえもん、ジーコ、阪神、テポドン、ジンギスカン、スープカレー、ブログ、CSR、東海地震、ハイアール、ガザ、曙、マツケン、ワールドカップ、石綿、ゴミ屋敷、ムシキング、、、こういうのはだめである。(これでヒットしてきた人、申し訳ない。)

そうでなくて、哲学、思想、倫理、近代、学問、大学、、、、いや、こんな単語はいくらでもヒットする。これに組み合わされる特殊な単語が必要なのだ。
しかし、ない。
なぜなら、新しい思想の模索はもはや哲学ではないし、同じく求める人もほとんどなし。
しからば、やはり、多少は偽って、無理矢理読んでもらうしか「公開」の手は無い。

もうしわけないが、やはり、無料、激安、即Get、儲かる、匿名、裏、マル秘、お宝、治った、ご利益、効く、萌え、通販、バーゲン、最新、確実、、、、こんな事も必要かもしれない。

もうすこし類縁性のあるところで、ムー大陸、UFO、オーパーツ、幽体離脱、前世、生まれ変わり、予知、予言、終末、最後の審判、黙示録、預言、地球外、宇宙人、地球人、宇宙船、異次元、四次元、怨霊、予知夢、心霊、、、、やれやれ。

まぁ、否定さるべきものばかりが、ヒットしやすいキーワードなのだった。

(ブログのタイトルの頭に「萌える」とかつけるのが一番いいのか。。。。。)
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# by lebendig | 2005-08-30 00:52