何でそんなに怒るのか?

このブログが、である。

別に、悪いことしている人たちじゃなし。
いいじゃん、みんな案外良心的な人たちだよ、
と言う人がいるかもしれない。
いや、みんなそうだろう。
しかし、これは学問が如何にあるべきか、という大問題である。
「いいひと」がやっていればいい、という問題ではない。
いや、学問だけの問題ではないのである。

学問は公のものであって、
趣味を職業にする権利なんてものは学問には認めてはいけない。
社会のため人のために学問しなければ、
その学問を基礎に形成される文化社会は崩壊する。
そして崩壊しかかっている。

哲学が好きでやってる、なんて馬鹿が増えると大変なのである。
いや、もう手遅れ。
哲学好きというキモイ連中に占領され、
オタクのサークルになってしまったのである。

いや、社会の片隅とか、どこか知らないところでそれをやっていてくれれば文句は言わない。
しかし、その社会性を欠いた哲学オタクが、
そのオタク的哲学をこれがテツガクだ、って大学で講義しているのである。
結果は火を見るより明らか。

立花隆は哲学が大学から消えることは大変な問題であると言っていた。
しかし、今の哲学があったって無意味。
趣味の哲学、これが当たり前になったとき死んでしまったのだ。

「オタク、専門は?」
「実は*****やってるんですよ。」
「えっ、オタクも? *****の#####って+++++ですよねー」
「そうそう、+++++ですよねー、グフッグフッグフッ!!」

って会話が今日も大学やら学会やらの片隅から聞こえてくる。
秋葉原とか東京ビックサイトではなく、である。


いやいや、べつに趣味の良さを求めているのではない。
本来、目的意識、志をきちんと持った人間が、
社会のため、人間のため、歴史と伝統のため、
そしてそれらへの責任を自覚して、
そんな好きなことではないけれども、やらねばならぬ、
と言ってやるべきなのである。

オタクが大学で自分の趣味の為に、
そういう社会的な使命を果たそうとする人のためのポストを占拠し、
彼らのオタク趣味哲学以外を排除している。
つまり、彼らが大学にいること自体、
大変な犯罪的行為なのである。

犯罪を咎めることは当然であり、
むしろ市民の義務である。
みんなで通報しなければならないのである。

もちろん、アカデミズムにはある一定の基準があるべきである。
だが、現在の哲学の基準はおかしい。
どんなヘンテコな主張でも、
細かく細かく横文字の文献をつついて出てきた主張ならば、
トンデモオカルト学説もオッケーである。
手続きが「アカデミックだから」だと。
絶対神がどうの、理性がどうの、自我がどうの、現象がどうのって、
そんなの全部否定されているっての。
哲学の内部では真顔で議論されていたりして。

大脳生理学とか、理論物理学、ゲーデルだって相当哲学には深刻なはず。
しかし、時代や哲学者にわけたりする、ご都合セクショナリズムで、
たこつぼの中に、まだ「発展」とか「真理」とか信じている人がいるのである。
大学が彼らのハッテンバにされているのである。
公序良俗に反するのである。
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# by lebendig | 2007-05-28 10:59

素朴な疑問

素朴な疑問がある。
どう考えても、未来がない哲学にしがみついている人々。
一体全体、自分の人生をどう考えているのか?
虚しい。

少なくとも現状の哲学は、何の成果も得ていない。
未来へ向かって、可能性はない。
じゃあ、別の仕方を考えればいいではないか。
少なくとも20世紀に可能性を期待された諸学派は、
もうさんざん議論したあげく、その学派の維持自体が目的となっている。
そして内部で盛り上がっている。

もしかすると、現状の哲学にすでに意味がある、と勘違いしているのか。
テツガクすることに意味があるとか、
参加することに意味があるとか、
にんげんだもの、とか、
全部おなじだ。

弱くて情けない人間が、自己正当化、自己満足、自己欺瞞のために、
へりくつこねこねして、
批判されるのがいやだから、
三流哲学者のマイナーな著作に言及してみたりして。
逃げてばかり。
別に誰かの著作ではなく、
自分のことばをためせばいのに。

まぁ、他人のことなんか心配する余裕のない人間が、
自分の弱さ、コンプレックスを解消するために、
へりくつこね始めて、
次第にへりくつにアイデンティティーを感じ始め、
偏執していったのが彼らの哲学であろう。

そう、フェティシズムである。
おしゃぶりのたぐい。

そりゃ、哲学研究者にたいそうなことを期待する方がまちがってる。
なるべく自分をためされたくなくて、
穴熊である。
将棋の、ね。

表だっては批判を免れるが、
自分は偽れないし、
自分の人生は虚しく過ぎ去り、

そんなこと自分でわかっているはずである。
そんなことをしていては、人生になんにも始まらない。
それもわかっていたはずである。

少なくとも、
将来、未来の人々の可能性を奪うような、
そんな醜い生き方はよしてほしい。
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# by lebendig | 2007-05-27 12:59

日哲に未来無し、、、、 人無い 金無い 心無い

日本哲学会である。

悲惨である。
全国組織と銘打っているが、西には関西哲学会があり、まぁ、東の組織である。
古い歴史と伝統を持つ名だたる大学が軒を連ねる東京、
しかし、しょぼかった。
各研究発表は閑散。
シンポジウムは立花隆が何しゃべるか見に行った人で多少埋まっていたが、
哲学会のパネリストがショボイはなしをしていた。

人材難ですな。
哲学会がヤバイって話なんだから、
人間を選んで来いっつーの。
あのダラダラしゃべりが哲学の現状そのもの。
外部にアピールとか言ってたけど、あんなのアピールされたら滅びるよ。
いまのところ、素人が勘違いしていてくれてるから持っているんだから。

他にもいい歳の中堅以上のおっさんが、
ショボイ事しゃべってた。
能力ないんだね、あの世代の研究者。
団塊世代とその下。
団塊が多くてガヤガヤしてるからわからなかったが、
数は多くて、しかし、層が薄い。

それがつまらないダラダラへりくつこねてるので、
学生が又少なくなっているらしい。
もう、再生産は不可能。
って、未来のない哲学者の文献こねくり回す人足の、
後継者はいらないよ。
しかし、奴らは反省無いね。
哲学なんて全然やってないし、反省もない。
もはや徹底的に批判されるのを待つだけの哲学者を、
こねくりこねくり、何やってんの?

それで、己を「哲学者だからー」って感じで。
何様?
腐れ哲学垂れ流し、未来の人材腐らせて、
何ら貢献するところ無し。
しかもダッサーイファッションで、不健康で不機嫌、不細工な顔で。
いや、キモイ。健康的でないのは当然。
しかし、精神が不健全なので感情表現が不健康、
だったらやっぱり、それなりの歳になると変な顔で不愉快な顔になってくるのである。
彼らの親に罪はない。

真剣に己のこととして、
ここまで堕落した哲学会を反省でもすれば、未来がある。

未来はない。そしてそれは必然。
やはり哲学の最期。
だが、腐れ哲学者の群れは生き続ける。
死んでもしばらくは生き続ける。
そして完全に死んで皆が納得して消えることになるのか?

あの日哲は「もがり」である。
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# by lebendig | 2007-05-22 23:17

哲学 跡目争い

中央公論に哲学がちょっとした特集を組まれている。
一つは木田元氏の哲学書紹介。
これは、まぁ穏当なところ。
しかし、学生時代に読みかけた本を、退職してから読み返そう、
といった、団塊世代向けの、ノスタルジックな紹介コーナー。
中央大学を退職してからの氏の問題意識は、まぁだいたい、いいところにあると思う。
だが、やはり今の哲学を生きる人ではない。
人生と青春の日々を振り返る、隠居哲学といったところか。

酷いのは野矢氏と筒井康隆の対談。
酷いのは野矢氏。
「対談」「ダイアローグ」ってわかっているのか?
アナクロな哲学をだらだら語ってるだけで、はずかしい。
おたくのなれのはてといった印象。
ちょっとでも哲学をわかった編集者なら、これはまずい!と何らかの手を打つような内容。
筒井の方が一生懸命話を合わせようとしてくれてるのに。

まぁ、野矢氏のアナクロ哲学では仕方がないか。
人選ミスだったということか。
しかし、よりによって。

それにしても、いまだに言語の人たちは自分たちだけでよりあって、盛り上がっていると思っているらしい。
浮世離れと言うより、人類社会から乖離である。
彼らの議論というのは、そもそも何のためにしているのか、全くわからない議論である。
ヴィトゲンシュタインとか持ち上げるが、あれは中途半端な「哲学者」で、
なんかもう流行らなくなってしまった。
20世紀の哲学者で陳腐化していないのはハイデッガーくらいか。

だが、言語の哲学を未だにやっている人たちは、勝手になんか盛り上がっている。
内側だけで。

しかし解せないのは、何で彼らは「哲学」を名乗ろうとするのか、である。
言語学、論理学、数学、なんでもいいから、そっちで一生懸命やっていればいいのである。
なにしろ、そういうことしかしないのだから。
哲学というのは、伝統的にも、世間一般の期待からしても、
人間の世界や存在への問いに答えるためのもの、
意味への問いであったのであり、それはやはり個々人の人生へと何らかの形でつながるべきものだ。

だから、哲学ということばは、特殊な一学問領域ではなく、
なにか根本的な、そして社会、時代を動かし、一人の生きる自己にとっても大きな意味を持つものだったのである。

そういう期待があって、哲学ということばに惹かれるまだ人が多いのだ。
しかし、言語のやってる人たちは、そんなのと全く違うことをやっている。
だが、哲学を名乗ろうとする。
いや、むしろ私たちのやってるのが「哲学」で、いまは哲学ってこうなんですよ、だって。

彼らは全く違うことやっているのだから、別に名前をつければいい。
そして学会も別に立ち上げればいい。

結局彼らは、「哲学」ということばに付随してきたイメージがほしいのである。
たとえば、学問、問い、その根源にある深奥の知恵、
あるいは、人間の最も深い知恵、人生の意味に答える、真の知恵。

まぁ、そんなもの全く考えてはいない彼らがである。
矛盾した態度。
哲学の跡目を継がしてもらって、代紋背負って肩で風切りたいのである。
幼稚だ。

学問は肩書きでするものではないし、
数学とか論理学とか言語学、そんな興味でやるならそっちを名乗ればよい。
彼らにとって「哲学」という語は如何なる意味を持っており、何故こだわるのか。

ところで、後継者なんているのか?
もちろん、世間じゃ、全く興味も関心もなーんにも持たれていないが。
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# by lebendig | 2007-04-28 10:01

大木

大木の絵にしてみた。

最近は樹に触ったことのない子供も増えているらしい。
だが、樹というのは人間にとってあらゆる経験の原型である。
何しろ、今は地上を歩いたりしているが、つい最近まで木の上にいたのである。
五感は樹を基準にしているはずである。
もちろん、地上に降りてから多少の適応はしているだろうが。

たとえば、子どもの時から木に登ったりしていた人間ならばわかるはずだが、
足をかけてはいけない枝というのがある。
細いのはもちろん、中で枯れているような枝があるのだ。
そういう枝は、手で触ったり足でふれたりしたときの感覚が違う。
幹と共振しないのである。音も震動も。
その枝がどのような状態にあるのか、我々は音でわかるのだ。
古道具屋が陶器をコンコンとたたくが、あれも同じ。

そもそも、猿の聴覚は樹の響きを最も能く聞き分けるように発達している。
遠くの敵の声とかは副次的だ。
なにしろ、腐った枝を判別できなければ直ぐに死んでしまうから。
敵はにおいとか他のことでも大丈夫だろう。

ところで、その枝が幹にしっかりついているか、枝の先の方は枝や葉がついているか、
枝の震動・響きですべて判別する。
これが人間の聴覚の基本だろう。
すべて共振した状態に安心し、不協和音に不安を覚える。
それは、しっかりした枝を信頼し、腐った枝を忌避するためだ。

そんなところから人間の和音に対する感覚が成立している。
長調短調という所に感情が伴われるのである。
音だけで感動したり、興奮するのは「樹」が我々のふるさとだからだろう。
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# by lebendig | 2007-04-01 17:50

環境問題への適応能力

人間は適応能力が高い。
先述の通り、この深刻な環境問題へも適応してしまった。
さらに、人類滅亡へも適応。

日常のつまらない仕事を安心し、ストレスなく行うためには、
どきどきしたり、不安を呼び起こすすべての事柄は不要である。
実はとんでもないことであっても、どうでもいいこととして評価され、扱われるようになる。
ストレスで心を病んでしまうよりはましなのだ。

やはり生物というのは、日々を生きて生き延びていくために生きている。
だから、とんでもない異常事態があっても、今日を生き延びるために生きる。
そして、何かが起こったときには、幸運にも生き延びることを待っているのである。

こんな「生き物」的な本質が、よりによって今日明らかになりつつある。
目の前に大変なことがあるのに、あたかも何もなきがごとし。
年金とか少子化、こんな事を口角泡とばし議論する。
何とも空しい光景である。

人類がどうにかなりそうである。
しかし、言霊でもあるまいが、口に出したり考えると実現しそうなので、皆語らない。
そして今日の平安がある。

この人間の適応能力は、人間がストレスに弱すぎるので発達したのだろうか。
確かに、精神的にタフでないと、まともにこの問題を考えることはできない。
レジ袋とか、分別とかで世界が救われると思ってるのは馬鹿である。
そんなちんけな問題ではないのはわかるはずだ。
いや、ペットボトルとかレジ袋で世界が滅ぶとでも思っているのか?
ナイーヴもいい加減にしていただきたい。
本当に、環境を考えるにしても、しょぼすぎるのである。
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# by lebendig | 2007-03-27 12:07

10年後、地球が滅ぶ?!!

本が出ている。
内容は案外細かい話までしている感じだが、
至って普通の情報を網羅しているだけである。
そこが恐ろしい。
いま、普通にヤフーのトップページにあるニュースのヘッドラインに、
10年後はもう地球が大変になっている、というような情報がある。
毎日に近い。
それは今我々の日常。
そして大衆は日常の情報に適応し、反応しなくなった。
改めて本になっていると、タイトルでぎょっとするくせに。

人間は適応能力の高い動物である。
地球温暖化にも、いち早く適応したのだ。
馬鹿な動物だ。
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# by lebendig | 2007-03-20 23:08

農学、工学が世界を滅ぼす

こういう応用系の学問というのは、学問ではない。
というか、学問ではあり得ない。
もともと専門学校で教えるようなものである。
農学や工学には学問の理念はない。
なにしろ自分の力で知を切り開くようなものではないから。

重要な知を他から中身もわからず借りてくる。
だから知を切り開く必要はない。
こんなものは学問ではない。
しかし、人数ばっかり多くて、金回りがいいのででかい口をたたく。
中身もないくせに。
金を稼ぐのがいい学問なんだと。
「問い」のない学問なんて聞いてあきれる。

しかし、学問としては欠格でもそれを研究している人間はちがうのでは、、、
いや違わない。
それどころか、この二つの分野がいま自然を破壊している。
それに対して、いやいや農学、工学こそ地球を救う、などという馬鹿がいる。
それは彼らの自己申告。
実際には、この農学・工学の腐れ研究者たちは、
滅び欠けた自然を食い物にして研究費を要求したり、
業績積んだり、利益を得ようとしたり、最低である。
しかも、まーーーっっっっったく結果が出ていない。
莫大な研究費を獲得し、結果は全くださない。
そりゃそうだ、自然が大事、なんて口先だけ。
業績が第一でしょ。
この恐るべき不誠実さ。
だからこそ、徹底的に非難されるべきなのだ。
学問全体として不誠実で破廉恥だが、
これに携わる研究者もすべて破廉恥、不誠実、最低やろうだ。
あるいは、馬鹿であるかだ。

彼らはたとえるならば闇金業者である。
借金でどうしようもなくなって、もはやどこからも新規融資の可能性のない人、
それも闇金業者にだまされて借金まみれにされた老人、
こういう人に対して、借金一本化しましょう、とか甘い言葉で近づいて、
結局、年金、生活保護費までしゃぶり尽くす人でなしである。

ぼろぼろになった自然環境を直す研究いたします、と騙り、
研究費を巻き上げ、下らん研究だらだらしたあげく、
何にも結果は出ていない。
全く出ていない。
そりゃそうだ、救う気なんてないんだから。
衷心から、身を捨て、業績なんて糞食らえ、自然をなんとかし、
子どもたちの未来を救うのだ、というような人間は皆無。
研究費をもらうために偽装しているのは、
本当に醜い。人間のかすである。
地球環境を救うのに自分の研究がどんな意味があるのか、
本当に考えたことがあるのか。
口先だけでなく。
ほとんどすべての研究が、実際の所、効果が全くないのである。
効果あるというのなら、聞かせてほしい。
何しろ、いま、我々は温暖化だけでも手だてがないのである。

善人気取りで人を陥れ続ける農学と工学は糞である。
理念のない学問を、心のない現代人が、己が利益のみ追求して、
しかも「地球を救う」などと抜かして、
実質役に立たないか足を引っ張る研究をし、
さも未来が救われそうな嘘を喧伝し、
貴重な時間と貴重な研究費をどぶに捨て続ける。
これが実態だ。

不誠実さは現代のキーワードだ。
しかし、こんなに汚いのはない。
善人面するのは最低である。
本当に大変な状況で、心を悩ませている人間が多いというのに、、、、
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# by lebendig | 2007-03-20 00:36

「政治」???ーーー「民主主義」も最期

民主主義?
主義というからには、これは一つの思想に過ぎないし、
どんなに「信じている」人が多かろうと、絶対的に正しい、というようなことはない。
おそらく100年後には「民主主義」とは特殊な思想であったと総括されているだろう。

語源からいえば、多数者による支配、である。
しかし、支配者というのは被支配者があって、初めて意味を持つ言葉だ。
多数者が支配者なら、少数者は被支配者であろうか?
いや、実際そうである。
ただし、問題によって多数者と少数者は変わってくるから、固定したものではない。

どの問題について、多数者は誰か、をきちんと確定することが出来れば、
デモクラシーと言うことが出来る。
ところが、実際には確定する事なんて出来ない。
国民投票でもすれば別だが。
いや、投票しても無理。
実際、いろいろな選挙で「民意」なるものを問うているが、
無惨な政治だけが展開されている。
あほらしい。
問題ごとに多数者の意見を確定する、という事は出来ない。
そもそも、大衆には「意見」はない。
好き嫌いしかない。
意見、意思、思想は非常に少数の見識ある人間にしか存在しないからだ。

意見も意思もない大衆に選ばせることに何の意味があるのか?
とんでもないアホが代表になることを防ぐくらいか?
いや、アホが今たくさん政治化している。
わかってない人間がわかっていない人間達に選択肢を用意して選ばせる。
選ばれると、鬼の首でも取ったかのように国民の意思がどうたらこうたらいって、やりたいことをする。
実際機能していない間接民主制という装置を使って、やくざまがいの連中にお墨付きを与えているのである。

いまどき、まともな人間は政治家なんかを目指さない。
いや、今だけでなく古今東西である。
目指すのは、汚くいやらしい上昇志向を持つ人間だけ。
コンプレックスか何かの裏返しの上昇志向だろうが、人のために、なんて嘘ばかり。
共産党とか公明党とか、思想がらみの連中もそうである。
正しい思想の私、なんてのをアピールして悦に入りたいのだろう。
志、なんてことを軽々に口にする連中。巧言令色鮮きかな仁。
志ってのは、人に自慢するために出世したいなんて事とは違う。
誰に知られずとも、我が身がどうなろうとも、何かを成し遂げようとすることをいうのだ。
身を捨てて初めて志。
我が身のかわいさの余りに志を立てる、ってことはありえない。
人に無理矢理押されて、他にほんとに人がいない、というときにようやくなるべきである。
って、そんなこと言ったら、日本からほとんど政治家はいなくなるが。

まぁ、そんな連中が「お墨付き」ほしさに「民意」を誘導する争いをするのが「選挙」である。
この誘導も、大衆のアホか似合わせてアホ対応しており、ワンフレーズとかヴィジュアルとか。
そんなことしてる政治家はわかってるはず。
民主主義など機能していない、そして望みもない制度だと。
アホみたいな坊ちゃんがマッチョぶって総理面している。
なんか惨めな感じのひょろひょろしたのが「総理」のかっこさせられて。
あそこまでいくと、「動物虐待」じゃないか?
なめねこみたいなもので。

そんな奴らが、環境問題になんて興味はないだろう。
口だけは環境大事とかいってても、前回のブログのようなこと。
制度が生み出した腐れ政治家。
どっちも最低だが、もう「民主主義」はいいんじゃないの?
他になんかやりようがあるし、終わった思想ですな。
みんなで選んできめればそれはいい!って、根拠のないオカルト思想。
民主主義はオカルトであった。
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# by lebendig | 2007-03-04 00:24

政治と環境問題

環境問題はかなりヤバイ。
砂漠化と耕地面積の激減、森林消滅は相当ひどい。
温暖化ばかり騒がれるが、温暖化しなくともまずい。

5年後、10年後を考えれば、産業構造を変えるなり、相当な取り組みをしておく必要がある。


が、これが政治の争点になることはない。
年金問題や経済問題を考える上でも、5年10年先には社会が激変するはずである。
少子高齢化はもっと先の話。
石油がピークになって原油価格が高騰することは当然。
しかし、それも気にしていない。
これは不思議である。
なぜだろう?

いや、明らかにおかしい。
見えている問題を無視している。
どうにかなる、と考えているのだろうか?

政治とかマスコミとか、爺さん連中が好きなようにやっている業界だから、
結局、自分たちの死んだ後の話で、興味ないのだろう。
想像力の欠けた奴らである。
少なくとも子どもがあれば多少は違うだろうが、
安倍晋三もそうである。
アホみたいにはしゃいで、何のために政治家になったのか?
家族に縁の薄い、いや情のうすい小泉純一郎もそうだ。

人の痛みを我が痛みとするような人間でなければならない。
少しだけ先の未来の子どもはどうなる?
心が痛まないのか?
虚栄と自己顕示の汚らしい上昇志向だけが政治家の要件となった現在、
「どうにかなる」ということは先ず、絶対に無い。
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# by lebendig | 2007-02-26 08:55

さばさば

最近は我ながらさばさばしたもんである。
哲学なんかやっている人って、なんかこじれておかしくなった人が多いのですが、
自分ながら、さばさばしている。
何回も言っているうちに、本当に哲学への過度の期待が無くなったのかもしれない。

そうなると、自分のこてこてぶりも振り返ることが出来てくる。
なんだかんだ言って、結局なんか変なことを哲学に期待していた日々。
今は出来ることと出来ないこと、やるべき事と断念すべき事、少し見えるような気がします。

はかなく、ふっと世を去る我々は、そのはかない瞬間を慈しみあいながら生きるべきでしょう。
傷のなめあいとか、小市民的幸せ発見人生ではなくて、ね。
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# by lebendig | 2007-02-12 19:19

死の新しい可能性

あの世がない限り、死は終わりを意味する。
おそらく無いだろうから、終わりである。

我々の意識というのは、実際に感覚したり行動したりした数秒後に成立する。
だから、よっぽどの偶然で死の瞬間まで意識があって、がくっといっても、
死の数秒前に意識は途絶してしまうのである。
だから、我々はひっくり返っても死を経験することは出来ない。

おそらく、プチッと突然終わるのだろう。
テレビを見ていて停電になったときのように。
最近停電なんて無いですが。

だから、死は生きているときの自分にとってだけ存在する。

死は、如何に死を死ぬか、という人間の意識にとってのみ存在する。

その死を如何に意味あるものとして死ぬか。
そして如何に意味ある生を生きるか。
動物的な生の幸せを最近の人間は意味ある生だと考えている。
だが、ほんとうだろうか。
動物は我も彼もなくただひたすらに生きているだけで、生を味わったりしない。

やはり人間は人間として生きるしかない。
動物的な生は倒錯である。
では人間的に、最高に人間的に生きるというのはどういうことか。
人間的に最高に意味ある価値とは何だろうか。

猿にもいろいろあって、高度な猿は他の猿の行動や反応を想定したりできるらしい。
そして他の猿をだましたり、備えたりする。
それは他の猿の立場が想像できるということである。
その高度なものが人間で、自己の自覚は、他己の認識の自分バージョンだ。
人間はこれでもって、自己の行動とその結果を評価し、記憶する。

とにかく、人間にとって重要なのは他者と自己の意識で、つまり、社会性だ。
これが無い人間、サイコパスというのがいるらしいが、おそろしいことだ。

人間と人間との関わり、社会的な意味の倫理、これのために死ぬ。
それがやはり最も人間的な死かもしれない。


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# by lebendig | 2007-02-02 11:43

不愉快な内容

いや、このブログが不愉快である人が多いのではないか、ということである。
哲学、と名前がついたブログだと思ってみてみると、悪口だけが書き連ねてある。
高をくくって、難易も知らないくせにオレの大切な「哲学」になんて事言いやがるんだ!っと、暴力はいけませんよ。
とにかく、哲学に思い入れのある人には不愉快なことを書くために、匿名なのである。
哲学に関心の無い人には、興味のわかないないようで、興味関心のある人には不愉快な内容なのだ。
だったら、こんなのやめちまえって、いや、これは私の日記帳なのである。
たまにみる人もいなくはないと思うが、基本は日記。
しかし、日記にしては日記らしくないことばかり書いている。
いやいや、これが私の高校の頃からのスタイル。
とにかく、書きたいことを書き、書くことの無いときは放っておく、である。
馬を水場に連れて行くことは出来るが、馬に水を飲ませる事できない。
原理的に不可能である。漏斗でも口に固定したりすれば、案外できるだろう。
しかし、そういう問題ではない。だって、無理矢理つけたって無意味だもの。
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# by lebendig | 2006-12-11 23:44

ジャーゴン哲学(ジャーゴン学問)のわかったつもり読者

ぶっちゃけた話、ジャーゴンでグジャグじゃになった、はやりっぽい思想書ってのは糞だね。

いや、昔は「オレには文脈が飛んだり、レベルの違う概念が無理矢理くっつけられたりしてるように見えて、納得できないけど、でも、わからないオレが馬鹿なのか?」と思っていた。
しかし、馬鹿はやはり向こうの方だった。
そして、やっぱりジャーゴンはがらくたのくずだったのである。

そりゃそうだ。言葉は何のためにあるのか、議論は何を目指すのか。
議論すれば議論するほど、複雑さを増す、というのは、昔からダメと言われてきた。
しかし、なんかそういうグジャグじゃした議論をする連中というのは群れていて、互いに讃え合ったり、支え合ったり(なめ合ったり)して、そういう世界が盛り上がってる風に見せようとしているものだから、素人に毛の生えた学生なんかは、そっちをありがたがったりする。

しかも、読んでる半可通は、わからないもんだから(「わかる」という奴の方が本当は頭がおかしいのだが)、めちゃくちゃな議論でもわかってるふりして、もう気持ち悪い状態である。
いや、いっそうかたくなに「えっ!キミわからないの!」みたいなポーズである。
まぁ、わかってる私って、頭よくて切れ切れで、とんがってる?!なんて、スノッブ野郎に、まともな奴がいる分けないのであって、だったら、そんな奴らがかぶれる思想がまともな訳も無く、後から考えれば当然だったのだが、、、、

だが、この業界でそういうジャーゴン好き連中の動向を見ていると、ジャーゴンやそれを「駆使」する「現代思想」系の人たちっての自体が、使い捨てなのである。
馬脚が現れる寸前にさようならである。
10年20年のスパンでみていればわかる。

さらに言えば、多少はそれよりまともな、はやりの「哲学」なんてのも、ジャーゴン臭い言葉があったら、やっぱり20年30年のスパンでみると、ハイさようなら、である。
もちろん、そんな哲学に青春を捧げた人々は、終わってしまったそんな哲学にでもしがみつき続けるし、本とか出して盛り上げようとするから、一見しては終わってしまった哲学というのには気づかない。

だが、哲学というのは結果勝負である。
カントは哲学することだけ教えられる、なんてこと言った。
これに、なるほど、と言ってしまう人が非常に多い。
しかし、これは無責任なレトリックである。
哲学はやはり結論である。
魂があるとか、永遠であるとか、嘘の答えを出してきた哲学は、いらんのだ。
そして、その嘘の妄想的な答えに到達する過程は、いらない。無意味である。
それが糞だったから、糞な結論に達した。

終わってしまった哲学に青春を捧げた「哲学者」たちは、戦略を変えて、答えではなく、議論の過程をたどることが重要だとか、倒錯した哲学を唱える。
だったら、それは仏典であれ聖書であれ、奥の細道だって、インディアンの民話だって、何だっていいのである。
むしろ、倒錯した狂信的「哲学者」の屁理屈のごみために頭を突っ込む必要は無い。
そこには、目先の理屈と、傲慢と不遜さ、そして屈折したルサンチマンがあるだけである。
哲学なんて、答えが嘘だったなら、本当に最低で趣味が悪く、気持ち悪いものにすぎない。
過程そのものが腐っている。
しかし、そのごみための言葉の半分が、自画自賛であり、それをそのまま受け止めるお人好しが多いのだ。

お人好し?

自己愛過多の「お人好し」である。


やはり、言葉には誠実にあらねば、そしてその言葉の意味を徹底的に考え抜くのでなければ、哲学は成立しない。
言葉を消費していく「思想」には、学問、問いへの「愛」がない。
勝手に作った腐れジャーゴンは、ポイポイ使い捨てられて、さぞかし無念であろう。
そのうち、ジャーゴンの怨念にたたられるのではないのか。
ジャーゴン神社でジャーゴン供養でもすれば良いのではないか?

言語とか現象とか、そろそジャーゴン慰霊墓苑が必要な頃だろう。
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# by lebendig | 2006-12-10 22:30

自然破壊と終末

「終末」という言葉は、何か古くさく、例えるなら戦前の政治スローガンのような感がある。
あんなに熱狂していたのに、まるで嘘のように見える。
しかし、確かにそんな気持ちにみんななっていた。
青春の一ページみたいである。

結局、不確実になってきた人類の未来(=自分の将来)を黙示録的な終末観に重ねただけである。
むかしから、未来がよく見えなくなるとき、世界が終わるように感じただけの宗教家がこれを良く唱えたものである。(あんまりいうと、腹を立てる人も出てきそうな…)
しかし、それは自意識過剰というか自己中心というか、井の中の蛙というか、いや、幼稚ということだろう。
僕んちのパパは世界一!というのに近い。
自分の死ぬ日は世界が滅亡する日!である。
海を隔てた半島に、こう信じる人がいるというようにも聞いている。
朝鮮のない世界はいらない、いや、そんな世界は無いし、無くしてやる、である。

「博士の異常な愛情」というキューブリックの映画に、ドゥームス・デイ・マシンというソ連の究極的破壊兵器が登場する。
これは、ソ連に対する核攻撃が認められたときに発動する、世界破壊兵器である。
もちろん、ソ連も滅びるが、これは究極の抑止力になる。
映画はこの兵器を巡って展開している。
ちなみに、私の一番好きな映画の一つである。

いま、北朝鮮はこのドゥームス・デイ・マシンを作ろうとしている。
彼らがこれを使ったら、日本海航行中の米軍潜水艦から核弾頭を積んだ巡航ミサイルが、「えっ、そんなにあったの!?」というくらい飛び出して、ステルス爆撃機が中性子爆弾山ほど積んで轟々と襲いかかることは目に見えている。
ちなみに、熱核兵器は首領様を昇天させ(天国には行かないか…)、核兵器および核関連施設を破壊するために限定的に使用し、ほとんどは後の地上での占領活動を考えて中性子爆弾を使用するのではないか。
いや、アメリカはここぞとばかり、データを集め、古い兵器を有効に使用しつつ消費するため、よけいなくらいやってしまう可能性もある。
死の灰の問題もあるから、ある程度の自制はあるかもしれないが、これは百年に一回の、いやもしかしたら人類最後の核兵器使用戦争になるからだ。
水爆使って、地下に作られた秘密機核基地を丸ごと蒸発させようなんて、本当に乱暴なこと考えていたならば、本当に怖い。
死の灰が降ってきます。
まさか、ね、、、


そんな物騒な昨今ですが、そんなことはなくとも世界は滅びる。
世界殺すニャ鉄砲はいらぬ、笑ってドライブすれば良い、、
ってなことではないが、しかし、そんなことである。
後2〜3度あがったら、もう世界は滅びる、という研究もあるらしい。
もちろん、そんな主張は、実験してデータを取れるものでなし、再現実験も無い。

こんなときに、レジ袋がどうのこうのでテレビで騒いでるのは滑稽だ。
あんな薄いレジ袋、いっくら使ったって、そのスーパーまで行く車のガソリンでチャラである。
あほくさい。
ものすごく燃やしてるのわかってないのか。


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# by lebendig | 2006-10-16 23:51

弱い人間

「発展」する社会、「進化」する技術。
なんか、どんどんすばらしくなっていくような気のする言葉である。
では、人間も一緒にすばらしくなっているのか?
全然すばらしい人間はいなくなった。
うらやましいとか、うまいことやりやがって、とか、そういう人々はいる。
ほりえもんとかである。
「わたしって仕事ばりばりやる能力あるセレブなんです」、と自己申告するかのような人間はいる。
普通の人間はそんなことやっていたら疲れてしまう。
しかし、一種の人格障害、情緒障害に近いものだと思うが、これでもかこれでもか、とアピールする人間たちである。
精力的に自分の嫌らしい上昇志向のために努力する。
そういう人間たちが、現在よくテレビとか雑誌とかに出てくる人間なのである。
彼らが口で道徳臭い説教するととたんにしらけるのは、そういうところからきている。

彼らは違う自己理解がある。幼稚であるが。
有名になったり、いわゆる社会的地位が高くなったり、それが人間の価値であると。
だからそれを”手に入れるため”に、自己愛過多の情緒障害の彼らは異常な努力をしてそれを手に入れるのだ。
しかし、そんな価値なんてないのである。
すばらしい人間なんかに年収とか、悪趣味な道楽とかでなれる訳がない、というか、はっきり言って全て逆である。

自己の利益のために努力することを恥じ、自分は差し置いて他人のためにこっそり努力する、そしてそのために自己の能力を最大限に使い、そして使い果たす。
そういうのがすばらしい人である。いや、であった。
オレがオレが、っていうようなのは本当に恥ずかしい人間、気持ちの悪い人間である。
昔はみんながそれをわかっていて、だからこそ、そういう人間を見つけ出しては、社会的責任のある地位に就いてもらったのだ。
だから、社会的地位の高い人間はすばらしい人だったのだろう。
そして彼らはその権利とか利益でなく、責任、義務を重視していた。

そんな人間がどこにいるのだろうか。
社会の進歩と発展のおかげで、腐った弱い醜い人間でも生きていける社会になった。
そんな社会にふさわしい人間として、我々が生きているのである。
人間が腐った結果がこの社会か、この社会の結果がこの腐れ人間の群れか。

人類社会が気候変動でどうにかなったりしたとき、人間は本当に滅ぶかもしれない。
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# by lebendig | 2006-09-08 10:09

進化?

生物である。

人間は進化の頂点に立っていると言う。
万物の霊長であると。

ということは、人間とはもっとも優れた生物であるというわけだ。

しかし、優れている、ってどういうことだろう。
いいことであることは間違いない。
しかし、種に関して「よい」とはいったい何だろう。

もちろん私はそんなの思い込みにすぎないと考えている。
人間が優れているなんて、嘘っぱちである。
いや、宗教、いやいや、幼稚な自己理解、自己誤解である。
おまけに、この世界をつくった神は、人間そっくりだと。
こういう光景、鳥獣戯画でみたことがある。

それはそうと、例えばもっとも進化していない生物の単細胞生物。あるいはウイルスとかその手の顕微鏡で見なければ行けないような奴。
それは、単体で生存する力を持ち、洗練された生き物だ。
それに対して多細胞の生物は、寄り集まって始めて存在できる弱いものの集合である。

もう勝負はあったようなものだ。
社会を作り、都市を造り、道具を作り分業する。
人間とはあまりにも弱い生き物なのだ。
もしかすると、弱くなった生き物かもしれない。

人間は進化できずにほかの戦略で生き延びてきた弱い生物なのだ。

そして、現代文明。
高度に複雑化し、増殖しつづける。
それはひとえに人間が弱く、きたなくなったからなのだ。
これを我々はとんでもなく誤解して、科学の進歩とたたえるのである。
しかし、それぞれの人間単体ではものすごく弱くなってきたことは確かだ。

すばらしい人間はいなくなった。
弱い劣った人間が巨大な社会を作り出した。
それが現代である。
大きな退歩なのである。

くだらない「進歩」を生み出すまでに、人間は弱くなってしまった。
終わりの人間だ。
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# by lebendig | 2006-09-06 23:56

食道楽

まずいものを食いたい、体に悪く、不愉快になる食べ物を食べたい、と思う人はいない。
ゲテモノ食いと呼ばれる人もいるが、好奇心から食べているのであって、まずいものが食べたい訳ではない。
何のヘンテツもないみそ汁。
しかし、塩加減が微妙に濃かったり、うすかったり、それだけでまずいものは出来上がる。
塩梅と言う通り、塩加減と酸味は美味い/まずいを決定する。
ちょっとだけ塩加減が微妙に薄いくらいがベストだと思っている。
塩加減ベストだと、食べている途中で嫌になってくるのである。
腕のすごくいい料理人とは、塩加減の料理人なのである。
本当に、ちょっとですばらしくなったり、下品になったりする。
人間の下とは不思議なもんだ。

まぁ、それはそうと、料理人とは幸せな職業だ。
美味いものを作れば、自分はうれしいし、もちろん食べた人はうれしい。
それも、理屈とかそんなもの抜きにして、敵であろうと味方であろうと、うまいと評価する。
絶対的な基準がある。
いや、個人個人の自分だけの味覚の体験が事実としてあるだけで、解釈やらでその事実が消えたりすることはない。
美味い、まずいの否応ない事実が成立する。
屁理屈垂れる暇はないのである。

ほかの職業ではこうはいかない。
特に哲学。
本当にまずそうなものを垂れ流している馬鹿もいるが、これに延々と気持ちの悪い能書きを垂れるのである。
いや、論文や著作のほとんどが能書きである場合も多い。
そしてまた、この根拠なき自画自賛の能書きにだまされたり、ありがたがったりする馬鹿な読者がいて、この両者によって「哲学書」が支えられているのだ。
そんな本、この世に存在しなくとも全く人間社会に影響ないよ、というような紙の無駄が書籍の哲学書コーナーを成立させるのである。

中身で勝負と行きたいが、その実中身を吟味してほしくない人間が多い。
たまに無防備に本音を書いたりすると、それがもうくだらなーい所感であったりする。
そりゃ誰でも評価されるのは怖い。
しかし、正直にしておかないと、いつまでも誤りは訂正されない。

いや、もしかすると彼らは自分たちの出すメシがまずいことを十分承知しているかもしれない。
しかし、まずいのは作った飯ではなく作る人間自身なのだ。
だから、もうこれは能書き足れたりくどくどいってどうにかなるならそうしたいのだ。
本当に自覚し意識しているかどうかは知らない。
意識の下に隠しているのだろうか。
その不誠実さはみにくい。

哲学の世界では、うまい飯を食うことは難しい。
まずい飯が当たり前になっている。
飯とはまずいものだ、こう言う風に誰でも考えるようになっている。

昔、ラーメンはそういうものだった。
いまは、うまいラーメン、まずいラーメンがあり、みなうまいラーメンを求め、その観点から評価している。
しかし、昔は、こんなもんだろう、醤油ラーメンは、みたいな感じだった。
むしろ、ラーメンはこういうもので、うまいラーメン、まずいラーメンと言うラーメン内での格差はないと思っていた。
だから、まずいラーメンを食べてもまずいと思わなかった。

哲学を吟味する舌が必要なのだろう。
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# by lebendig | 2006-09-04 16:39

近代の否定の行き先

近代の行き着く先が、今日の人類社会の現実である。
人間がむなしく生き、むなしく死ぬ。
それだけでなく、子孫の未来を奪いつつ、である。
偉大な人間は消え、まさに最後の人間、末人ばかりである。

いや、そんなにくだらない人間ばかりではない。
しかし、偉大な人間なんてものは、本当に一人もいなくなった。
それが深刻な問題なのだ。

どのような人間でも、最終的には本当にくだらない個人的な利益を重視する。
もちろん、哲学者なんてものもその代表である。
昔は違った。
功利主義なんて義理も人情もない、公共事業の屁理屈的根拠になっている。
しかし、ベンサムは貧しい人々、苦しむ人々の悲惨を救わんと構想したのである。
彼に限らず、マルクスであろうとだれであろうと、偉大な思想家は偉大であった。

ただし、その結果は逆になってしまったが、、、、

それでもいいのである。
それだけ自分のことでなく、他人のことを考えていたのだから。
そういう偉大な人間がいること、それをしることがどれだけ重要であったか。

エートスである。
人間を根本で支えるのは、義理人情心意気なのだ、実は。
哲学倫理の屁理屈がどんどん「進歩」して、人間、そして中でも哲学者は最低になった。
キモイ偏執的重箱角的哲学や、自分探してつがく、団塊世代的退職後も生き生き哲学とか、もう小市民的喜び哲学で書店が埋め尽くされている。
まぁ、はっきり言ってさだまさしとかかぐや姫とかのフォークの世界ってキモイとつねづね思ってきたが、そういう哲学が日本ではドロドロ出てきてもうだめである。
日本だけではないが。

そんなことでなく、もっと遠く、高く、深く、ひろく、考えるのが偉大な人間だ。
遠い未来の子孫、遠い国の人々を救うために思索すればいいではないか。
自分の核家族と、ルサンチマン共有友人の閉鎖サークルのなれ合い、傷のなめ合い的幸せのこtばかり考えてキモキモである。

当然全ての人間が偉大になれる訳はない。
しかし、なろうとしないのはどういうことか。
なれないとき傷つくから、小市民的キモ幸福で妥協しておいたというのだろうか。

グローバリズムではなくて、グローバルなキモ世界化である。
放っておけば人間社会はドロドログズグズになる。
だからこそ、遠く、高く目指していかなければならない。
そのことで人間は偉大になるのである。
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# by lebendig | 2006-09-03 10:02

剽窃学生

最近レポート試験の採点が大変である。
むかしなら、手書きで書かれたレポートのたたずまいをみるだけで八割がた、点数を予想することができた。
しかし、最近は「コピペ」の嵐である。
ネットで拾った文書をくっつけて、申し訳程度に感想をくっつけて、レポートでござい、とでっかく名前を書いて提出してくる厚顔無恥が増えたのである。
全部ばれるぞ、と言っておいても、万が一、単位がもらえればラッキー、と提出してくる。
もちろん発覚したら、0点。
「引用」が異常に長い場合も不可。
しかし、ペナルティーは実質ゼロである。

教科、教員により評価基準は違い、正解を求める、情報を検索させる、ノートとっているか確かめる、とか、いろいろあるだろう。
私の場合は、レポートを書くときに、ほとんど使っていない頭をフル稼働して頭の体操してもらう、あるいは、問題意識をもって、自ら考えるということを体験してもらう、といったことだろうか。
もちろん、レポートは教育効果をもっていなければならない。
いずれにしても、自らの頭を使って書かなければ、効果なし。
さらにいえば、どうせ考えなくても単位とれるぜ、と思っていたら、授業全てが効果を失ってしまう。

と、いうことであれば、コピーアンドペーストのレポートはカンニングと同じである。
処分もカンニングと同じでなければならない。
つまり、同時期の試験全て不可である。
学生なんて留年させれば良いのである。
大学の収入も増えるし、反省もして、社会に出てからもなめたことしないだろう。
剽窃は不正であり、不正に対するに相当の対価を払うべきである。
そのうち、そういうことになってくるだろう。
もちろん、コピペ不可能なテーマのレポートを課すことも重要だ。

しかし、コピペレポートはだいたいにおいてテーマと変にずれている。
だから疑われ、検索して発覚する。
そんなことすぐにばれる、といっているのに、馬鹿である。
こっちとら、インターネットが存在するようになってすぐにネット始めていて、アホほど検索してきたんだから、赤子の手をひねるようなもんだ。
大学のネットが遅すぎてネットスケープが止まった状態なもんだから、そのまんま「ネットカフェ」という名のネットカフェの会員になったりしたが(全国で2番目くらいだっけこれ?)、やはりむちゃくちゃ遅くて。
結局、研究とかには当時全く使えていなかった。
そんなときから、ヤフーで検索していたのである。
検索結果が出てくる間、論文を書いていたりしたのである。
そんな私が、アホ学生の窃盗レポートなんぞ、、、

と、今回は時間がかかってきた。
検索にヒットしずらいのである。
そういうところを狙っているのだろうか?
馬鹿な学生は、ウィキからコピーしてくる。
そしてそれをつぎはぎして、もう、意味不明の文である。
こういうのは文ではない。

それより、今回はハッピーキャンパスなるものを発見した。
全国の学生がレポートや論文を「共有」するサイトだという。
会員登録とポイントの支払いが伴うため、いったいどんなレポートがあるのか検索できない。
また、ここから買ったレポートを提出しても、一応、「剽窃」ではない。
しかし、教育効果ゼロである。

こんなものを公に作って、馬鹿を増やしてどうなる、ハッピーキャンパスのハッピーって、おめでたい、という意味なのか?と憤っていた。
ついでにやっぱりネットでググったり、ヤフったり?してみると、同じ悩みの同業者のブログがたくさん。

このハッピーキャンパスは元々韓国の企業で、その韓国で2百万、ついで上陸した中国で百万の利用者があると言っている。
一昨年から日本に来ているらしい。

来んな、バカ。


韓国、中国、と剽窃、盗作についての倫理なんぞない国ならいざしらず、正直、直き心、清く赤き心のこの蜻蛉洲がこんな下らんものに汚染されるとは情けない。
最初の授業で、勉強しないで単位が取れたら、お前ら損なんだよそれは、喜んでいるやつはおめでたいやつだ、といっておいたのだが、やつら、平然とコピペしてくる。
おそらく、このハッピーキャンパスでハッピーになっているやつもいるはずだ。

韓国といえば事大主義の国。
強いものに言い寄ってすり寄って、たかって、下のものからかすめ取り搾り取る。
強い「立場」になるためなら、主旨とか意義とかほっといて、何でもやるのだ。
携帯電話による入試集団カンニング事件はまだ旧聞に属するところではない。
こんな国になったのは、やはり通ごくの属国としての歴史が長過ぎたためだろう。
彼らには絶対的な強者が他者として存在することが必要なのだ。
自らの生き方を自分で決めるなんてことはしてきたことがなかった。
常に基準になる国があったので、それに受け入れられれば良し、だめならバツ。
試験は受かりさえすれば良い。教育効果とか、自分のため、とか、そういう「意義」とか「主旨」とかは、どうでもいい。
これが韓国の伝統であった。
もちろん、中国の科挙の歴史なんてのもカンニングの歴史であって、韓国だけの問題では内面もある。

しかし、こんな恥知らずな企業が存在し得ることに驚きである。
日本では、むろん、日本人の手によってこんな企画が立てられることはないだろう。
こんなのは、日本では抹殺すべきである。

しかし、ある程度放置しておくのもいいかもしれない。
登録者数で現在の日本の民度が測れる。


今後剽窃、共有、売買はカンニングと同様とあらゆる大学の学則に明記されねばならない時代が来るだろう。
馬鹿な時代である。

昔の日本では、こんなことは絶対にあり得なかったはず。
学生、というのも改称して盗生とかにすればよい。
いや、生きちゃあいないから、盗骸とかにすればよい。

Wahrhaftigkeitだよね。
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# by LEBENDIG | 2006-08-29 23:27