来年、飢餓がおとずれる?

気候問題による小麦の不作が来年にまで続くという。
明らかに小麦の値段は上がり続ける。
そのとき、貧しい国はどうするのだろう?

現在でも何億という人々が飢餓に直面している。
飢えて死んでいる。
飢えて死ぬとき、人間は何を経験するのだろう?
むなしさ、無力感、惨めさか?
その心を想像すると、いたたまれないものがある。
そして、生きるために恐るべき行為を決意する人々がいる。
文化や社会によって覆われてきた、生々しい生き物としての性が、
むき出しで、そして最悪の形で現れる。
それが飢餓である。

来年、オーストラリアの不作とともに、アフリカや中国、インド、ロシアにおいて食料生産に、
何らかの支障が出るならば、その影響は先物市場などの緩衝を軽々と超えて、
とんでもない状況を生み出すかもしれない。

まず、世界的な食料生産の見通しが確実に暗いものとなる時期に、
当然ながら、小麦、大豆、トウモロコシ、米などの相場が上昇していく。
なぜなら、食料は代替するものがありえない、命の保証だからだ。
食料が足りなければ、誰でも、可能な限りの金を払うのである。

江戸時代ならば一揆か打ち壊しであるが、
食糧輸入国の敵は遠い国アメリカである。

上昇した価格を払える先進国では、極端な動きは当初はないだろう。
しかし、貧しさ故に国民を飢えて死に至らしめねばならない国はどうなるのか。
もちろん、国内で様々な動きがあるだろう。
だが、世界的な食糧不足故に、解決手段はない。
少ない食料を分け合うか、奪い合うか、どちらかである。
あるいは、食料を欠けた殺しあいや虐殺が起こる。
しかし、いずれにしても絶望的な状況が好転する望みはない。
春か秋の収穫時期の前に飢えと種籾の確保のための恐るべき状況に至る。

種籾まで消費してしまったら、
次の年、全滅してしまう。
国際的な協力も実を結ばないだろう。
なにしろ、全世界で食料が枯渇するのである。

そのとき、飼料やバイオエタノールなどへの穀類の使用が禁じられ、
大量の米国産牛肉が一時的に世界に流通する。
しかし、最後の肉になるかもしれない。
『ソイレント・グリーン』の世界である。

先進国では妙なことに、処分された畜肉がだぶつき、
穀類が高騰することになる。
蓄えを確保するために、予想以上に高騰し、
比較的経済的に豊かな人々にまで影響していく。
日本では食管法が復活し、
闇米や投機は禁止される。
されなければ、暴動が起こる。
もちろん、「たくわえ君」は治安維持のために放出される。

食糧問題が一時的なものでないことが理解されるようになると、
都市人口の移動が始まる。
忘れ去られた過疎の村へ居を移す人も出始める。
カボチャやサツマイモを作付けする人が増え、
多摩川の河川敷のゴルフ練習場や野球場は畑になる。
いかにして、失敗無く穀類をつくるか、
そういう情報が流れるようになる……

しかし、食糧確保のために世界中で無理な耕地の拡大がなされると、
さらに大きな気候変動を招くだろう。
数年のうちに本当に大変な状況になっていくだろう。

貧しい国同士が争いあい、奪い合い、とんでもないことになる。
しかし、先進国はもはや何の援助も支援もできない。
放っておくしかない。
そして、広大な土地がひからびた屍をのせた土漠と化していく。
先進国は様々な技術を投入して食料の生産に乗り出す。
だが、気候変動まで止めることはできない。
数年後に、本当に備蓄を失い、食糧の確保に国家が責任を持てない北朝鮮状態になる。
(そのとき、北朝鮮だけは今と変わらないのであった。)

中国、インドという10億を超える人口を有する国ではどうなるか。
億単位の飢えである。
そして、植えた地域から人々が移動し始める。
異動先で食料を奪い、殺し合いをはじめる。
そしてさらに飢えが広がり、移動も大規模になる。
人民解放軍は、そのとき、恐ろしい決断をすることになる。
国内すべてが騒乱状態となることを避けるため、
決断がなされる。
黄河流域の農民たちは、どうなるのだろう?

人民解放軍の恐るべきコントロールが功を奏せば、
我が国への影響がないが、
人民の海が津波となって沿岸部に押し寄せるなら、
その波はそのまま日本列島に向かうかもしれない。

我々はそのとき、恐ろしい決断をするのだろうか?
だが、我々もまた飢えるだろう。
飢えが更なる環境破壊を招き、
気候変動もいっそうひどくなる。
そこで我々はいきなり自給しなければならなくなる。

その後どうなるのか、また考えてみたい。
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# by lebendig | 2007-10-26 17:20

今の哲学に、なんか無いのか?

ホント、なんもない。




何もなくてもいいのか?
百年二百年の研究の反芻でいいのか?

テツガクシャってのは、牛である。
というか、哲学牛である。

いや、反芻は消化の難しい草の消化のための機能。
おなかの中で菌類に発酵分解させているのだ。
優れた能力なのである。

だが、テツガクシャのは、なんか何回もモグモグしているうちに、
消化不良になってきた。
何食っているかもわからなくなってきた。
食うということが何かもわからなくなってきた。

ただただ、涎を垂らしつつ虚空を見つめ、
口だけ動いている。
それ自体に意味があるとかいいながら。
神のためにモグモグしていた時代の方がよかったかもしれない。
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# by lebendig | 2007-10-16 11:05

怒るには体力がいる

本当である。
これだけアホのようなことが世の中を蔓延すると、
もう疲れてしまって、どうでもよくなる。

しかし、ここで負けてはいけない。
「ダメなものはダメ!」である。
何でもかんでもダメなのだが、次の二つのことに気をつけて怒りたい。

すなわち、
何に対して今怒らなければならないのか、
つまり、今怒るべき怒りをわきまえることである。
そしてもう一つ、
何が最も根本で世界を腐らせているかを知ること、
つまり、本質に対して怒ること、である。


哲学とか思想に怒ったりしてもダメである。
それは勘違い。
怒るべきは現実であり、人間であり、その本質である。

悪のエーテルのようなものが人類を破滅へ誘っている、とか考えて、
その世界悪の観念に対して怒る、なんてのはオカシイのである。
腐るのは「人間」だけだ。

だが、他者の死や消滅をねがったり望んだりする人間になってはいけない。
その態度は、最も幼稚である。
なぜなら、すべての腐敗は他者に対する共感の欠如、
尊重する謙虚な態度の欠如から来るからである。
アホがアホをアホと言ったり、馬鹿が馬鹿を馬鹿と罵ったり、
人殺しが人殺しを軽蔑したり、
まぁ、そういうことである。
人を呪わば穴二つ、である。

ただ、不遜な人間を軽蔑するのはいいことだと思う。


腐った人間、不遜な人間、これに対して怒る。
怒るべき時に怒るべき仕方で怒る。


怒りのエネルギーを大切にそこへ集中させるのである。
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# by lebendig | 2007-10-09 23:01

持続可能な発展=永久機関

十年以上「持続可能な発展」と言い続けてきた。
しかし、どうやらそれは不可能らしい。
そんな都合のいいことはないのは当然か。

カップヌードルが値上げされるのは序の口で、
これから大変なことが起き始めるかもしれない。

小麦粉さえ手に入れられない人々。
それが、何億人にも達するときが来る。


その昔、永久機関という都合のいい装置を作ろうと研究するものがいた。
もしかしたら、今でもいるかもしれない。
それはエネルギーを無尽蔵に取り出せる装置である。
そんなものあったら、環境問題解決である。

永久機関を研究するのはマッドサイエンティストであって、
他にも「エーテル」を探すとか、
ピラミッドパワーを測定するとか、
幽体の実体化、テレパシー、テレキネシス、オーパーツってのがあった。
今ではオカルトに括られている。

しかし、「持続可能な発展」も同じだ。
人々の欲望を増大させ、物質を生産し、
大量廃棄しつつ、環境を維持する。
単純に考えて無理である。

発展という言葉は物質の浪費を意味する。
ということは、発展の継続は物理的にむり。
自然の回復力を上回る浪費は成立し得ないのである。

人口を減らすか、生産を減らすかどちらか。
もしかしたら、欲望を非物質的なものに転換していけばできるかもしれない。
今は、物質が貨幣に換算され、貨幣が信用へ変換され、
ビルゲイツは抽象的としか言いようのない資産を所有している。
だが、その信用がパンクするかもしれないという。

そのときむき出しの物質欲はどのように振る舞うのか。
トイレットペーパー買い占めなんてありました。
米の売り惜しみで打ち壊しが起こったのは昔々。
だが、そういうことになる。

人間が生きる意味、か?
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# by lebendig | 2007-10-04 15:38

学会とは何だろう?

学会とは、組織でなく、会員がみんな集まるアレのことである。
人を集めて発表を聴き議論する。
そういうことだが、それだけだろうか?

学会とは本来その学問で問題になっていることを議論する場である。
単なるお勉強の発表会ではない。
しかし、今単なる発表会である。

哲学、倫理学で「今」何が問題か?
それが発表もされなければ論じられない。
百年前に十分議論されていたようなことを、
レベルを下げて発表する、的な学会である。

問題は、誰も「何が今問題か」知らないことである。
何も問題になっていない。
だったら、実は学会はいらない。
考えるべき事、究明すべき事がないなら、学問はいらないからである。

読書会の延長のような発表で、論争なんて起こらない。
起こった気がして、それはいつか論じられたことばかり。


今、問題なのは「問い」の欠如。
哲学や倫理学だけではない。


ただ、我々の目の前には漠然としながらも恐ろしい不安が見えている。
まだ、問いにも言葉にもなっていない。
それが、なにか単純な言葉となって問われたとき、
すべてがひっくり返るかもしれない。
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# by lebendig | 2007-10-03 19:47

人類の最期

哲学でなくて、人類が死ぬ。
もちろん、人類が死ねば哲学は死ぬ。
当たり前だ。

哲学なんかのことかまっている間に、
人類のこと考えなければいけない。
もちろん、本当にまともな哲学が生まれれば、
人類が多少救われることにはなるだろう。
しかし、可能性が薄い。

シロクマが絶滅するのはもう常識である。
北極海に新たな航路が開ける。
氷がなくなるからである。

氷がなくなると、太陽光の反射が減じて温暖化を加速する。
気候変動も生ずる。
雨が多量に降る地域、
ほとんど降らなくなってしまう地域。
降雨の総量が変わらなくとも、
突然降らなくなったり、降ったりすると、
農業が崩壊し、食料がなくなる。
農業は長年、安定した気候の条件の下で少しずつ適応してきたからだ。

食糧を求めて何億という人口が移動し始める。
そこで戦争と虐殺が起こる。
日本列島に何億かの人間が移動し始めたとき、
我々も又、虐殺者とならねばならないかもしれない。
恐ろしい未来である。

幸いにして日本は海に囲まれながらも、
急峻な山地を有しており、
海面上昇、気候変動には強いかもしれない。
だが、大陸の気候はどうなるのか?
中国大陸が乾燥し始めている。
シベリアが山火事で森林を失いつつある。
ヨーロッパの氷河がどんどんなくなっている。

このままでは、
「日本以外、沈没or砂漠化」
である。
筒井康隆の本でも読み返してみようか。
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# by lebendig | 2007-10-01 17:29

再生紙で地球温暖化

100%再生紙がなくなる。
それは、再生紙がCO2を多く発生させるからである。
木のチップから作る紙はそれ自身に由来する樹脂を燃料にする。
だから、木を切ってまた植えれば循環が成立する。
ところが、再生紙は化石燃料を使うので、CO2はただ増えるだけである。

って、最初からわかっていたはず。
製紙業界は。
アホな役所が調べずに推奨し、
アホな市民団体がそれを鵜呑みにした。
かれこれ何年再生紙を使ってきたか?
ずいぶんと温暖化に貢献してきたもんだ。

なぜ、きちんと検討せずにわーわー騒いだのか。
愚かな。
製紙業界は、確信犯か?
ひどいものである。
古紙が品質低下し、また高くなる中で製造中止。
そして、エコではないからというその理由。
ひどい。

だがエコロジーってのはそんなのばっかである。
みんな雰囲気と勢いだけ。
子孫の人生なんて考えちゃい無い。
自分の子供の学費の計算ならきちんとやるくせに、
子孫の命を守るための計算は無し。

マイ箸、牛乳パック、古紙回収、椰子の実油。
風力発電、ハイブリッド車、燃料電池、、、、
こいつらもトータルで勘定すると、環境破壊。
製造か運用の段階で化石燃料使っているのだ。
ひどいもんだ。

エコロジーにたかった偽善者どもが、
裁かれつつある。
良いことだ。
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# by lebendig | 2007-09-29 04:18

歴史の転換点

なんか、時事ネタに引きずられてしまいました。
ただ、最近、我々が歴史の転換点にあり、
そしてまた、これまでの歴史の実像が見えてきたということは事実。

歴史の転換点、潮目が変わりつつある。
一つは第二次大戦の世界的な妄想世界が消えつつあること。
当時大人であった人々が死に絶えつつある。
もう一つは、共産主義者が壊滅したこと。
彼らは「科学」やらの狂信者だが、
重要なのは、ルサンチマンをエネルギーに、
ロウドウシャの味方とか偽善ぶっていたのがばれたこと。
不誠実な人間の生き方が暴かれ、
実際には極めて多くの虐殺が肯定されてきたことが、
しらふの人々に裁かれ始めたのである。

共産主義の核は良い核とか言ってたアホたち、
文化大革命万歳とか言っていたマスコミやら、
そういう輩も現役を退く。
学生運動を青春の一頁、とかまとめ方で、
アホか。


もう一つ。
やはり、地球環境問題。
多くの人々が餓死する危険がある。
死を忘れ、幼児化してきた人間たちが、
社会的なことにシリアスになってきた。
死の可能性がある中で生きるとき、
重要なことがわかってくる。

しかしまだ、十分ではない。
人間が死ぬとき無となること。
真にはかない存在であること。
無惨に死んだ人々は、帰ってこないこと。
絶対に戻らず、永遠に無である。

この恐るべき世界に我々は生きている。
絶対に取り返しの付かない瞬間に生きている。
それが認識されて、初めて何が重要か見えるだろう。


「美しい国」とか、そこら辺全然わかっていない。
妄想の戦前復活である。
アナクロニズムの極地。

ただ、わかりやすかったから、みんな気付いてよかったね。
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# by lebendig | 2007-09-24 09:35

政治哲学? 哲学と政治?

政治哲学。
なんだ、それは?
哲学というと、なんか根本的なもの、基礎付けをする学問のような気が、、、
そんなことは、無い。
哲学をありがたがりすぎ。
哲学がだめなのに、政治哲学がどうにかなるわけはない。
法哲学も教育哲学も、社会哲学も、倫理学も美学も、
全部、だめ。
哲学が倒れて、ドミノ倒しである。
って、実は「立って」なんかいなかったんだけど、
幻想の学問の雪崩現象である。

まぁ、世間で言う「哲学」ってのは、
哲学の正反対で(これを最近は真逆、と言うらしい。逆でいいと思う)、
思いこみ、信仰箇条、信念、のことをいう。
こんなものはいらない。
何しろ、思いこみでしか無く、
学問でも答えなんか無いのだから。

政治で信念語るのは、
思いこみか、信仰か、
とにかく、馬鹿である。


哲学も、ね。
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# by lebendig | 2007-09-24 03:55

そもそも「政治」とは

猿山にも社会があり、それゆえ政治がある。
社会があって、それが機械のようにかってに動くというのは現代人だけの妄想。
政治なくして社会は動かない。
猿と人間は同じだからである。

ボス猿が政治的な行動をして、雌猿、若い雄猿、子猿などがその振る舞いに呼応、
それが社会的関係を猿の間に作り出し、社会になる。
猿どうしの関係なしに社会はないし、猿山もない。
インターモンキーが重要なのである。

人間も最近は引きこもりやニートのように関係もしないで社会の中に存在する人もあるが、
基本的に人間と人間との関わりがなければ社会は成立しない。
通勤電車に詰め込まれた人間たちは、
近接してはいるが社会は形成していない。
しかし、そこで何らかのコミュニケーションが多少なりとも生ずれば、
そこには出現する。

社会を存在させるためには、
常にその社会全体に関わるコミュニケーションが必要である。
そこで「政治」なるものが、つまり「国」という社会の全体に関わるコミュニケーションが必要なのだ。
社会を維持するには、基本的にその中身は何でもいい。
暴君が私腹を肥やすために政治をしようが、
構造改革であろうが、土建政治、貴族政治、戦時国家体制、
なんでもあり。

無論、それは社会が維持されるためだけに必要だというであり、
社会が幸福であるか否かは全く別問題である。
たとえば、日本がきわめて独立性の高い道州制になり、
関西では標準語が大きく変更され、
東北北海道では経済を完全にブロック化し、
電波も新聞も分割し、互いに関心を持たなくなったら?
事実上分裂である。

大ブリテン連合王国がそうだ。
日本人がイギリスといってるのは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドだが、
オーストラリアとかニュージーランドも連合王国の一部で、ホントは元首は女王である。
コミュニケーションがないと国だってバラバラである。

おなかが痛くて首相がやめたとか、
2世3世がどうだとか、
格差社会、年金問題。
これをネタに我々は国家社会を束ねるコミュニケーションをしている。
中身が相当低レベルであるが、
やっぱり、日本は大きな一つの社会なのである。
完璧な国家社会が形成されたなら、
むしろそこから日本は分裂し始めるだろう。

くだらない与太話や、インチキくさい選挙の話で国家統一。
これが日本である。

旧陸軍の妄想とかオウムとかよりゃマシか。
しかし、もっとなんかあってもいいんじゃないの?
くだらないおしゃべりが続き、「日本」もつづく……
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# by lebendig | 2007-09-19 03:28

麻生太郎、福田康夫、安倍晋三

30年くらい政治に関心を持ってきた人間なら、
この顔ぶれに驚愕せざるを得ない。
偶然に2世、3世議員が首班指名を争うことはあるかもしれない。
しかし、出てくる役者が全部3代目では日本も終わりである。

政治家の「優れた」遺伝子を受け継いでいる、
とか、弁明が聞こえてきそうだ。
しかし、金やコネにものを言わせて政治家になった、
その3代目である。

吉田茂が優れているとか、いえるのか?
戦後政治に一定の役割を果たしたが、
誰がなっても果たしただろう。

いろんなサポートがあって、
教育を受けているのか変わらず、
言っちゃあ悪いが、
すばらしい学歴ではない。
そういう試験の点数を取る能力もない。

政治的な振る舞いは、その世界に入れば誰でも身につけるだろう。
それは条件ではない。


そんなこと言う前に、
120000000人の人間がいるこの日本で、
2世3世が特に優れている確率は極めて少ない。

つまり、現在のような間接民主制は、
優れた政治指導者を選ぶシステムとして、
本質的な欠陥があり、
現在、それがあまりにもあからさまになっていると言うことである。

民主党が多少ましなのは、
世襲議員が少ないからだが、
それだけである。
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# by lebendig | 2007-09-17 12:46

安倍晋三の遅すぎる辞任

早晩、グダグダになり辞めるのは目に見えていた。
「人気」の勢いだけでなって、あとウヨクだけが頼みの綱。
しかし、それは日本の歴史や社会の中枢から外れた人々。
歴史の中で生き抜き、社会の中で責任と義務とを担ってきた人間は、
強硬なふうのポーズが、
「真剣に問題に立ち向かう」っぽく捉えられているだけだとわかっていた。
言わずもがな。


しかし、振り返れば、
小泉前首相就任直前の自民党は現在とほぼ同じ。
崩壊寸前であった。
それを小泉が延命した上に、日本中をぼろぼろに改造し、
不幸な人間をふやした。


現在、失業者や実質失業者の若者があふれかえっている。
これは、しかし景気でどうなる問題ではない。
彼らのほとんどは、非熟練労働者でしかない。
誰でもできる労働を、マニュアル通りにこなしてきただけ。
マニュアル奪えば、ただの人間でしかない。
最低の賃金しかもらえないのである。
それでは結婚して、子供を養うなど困難だ。
この数年の空しい年月は、彼らの人生にとって決定的だった。
経済政策ではどうしようもないのである。

さらに、彼らが非熟練労働者として空しい労働しかできないことを、
彼ら自身のせいだとされて、自尊心が傷ついていることだろう。
社会のためにくだらなく空しい労働を、低賃金で未来も無くやっているのをけなされる。
絶望的である。


空しい労働に従事する人々の、その労働は尊い。
金銭的見返り少なく働くことに耐えることは厳しい。
しかし、そのような人無くして、今日の日本社会は無い。

工業製品は工作機械やロボットが効率的に作る。
それは合理的である。
不要な人間を排除する。
すると、効率的な生産で大変儲かる。
当たり前である。
これが小泉構造改革である。
排除した「余分」な人間は、居てもらっては困る。
だが殺す訳にも行かない。
彼らに自己責任といって責任を転嫁し、
マニュアル化された労働集約産業へ送り出す。
まだ機械化されていないが、マニュアル化された産業へ。
だが、その改革の受益者は国民ではない。
誰が利益を得ているのか。

この惨状が実現される中、
首相になりたいだけのヒョロヒョロが、
運だけでなった。
いや、実は運ではなく必然である。
自民党は崩壊寸前。
そのなかで、空しい言葉のポージングだけの男がえらばれた。
中身があったら、偉そうなウヨクのポーズはできなかっただろう。

満州で何十万と死んだ責任者は彼の祖父。
戦後抜けシャアシャアと首相になった。
彼は狡猾だった。
瀬島と同罪の男であった。

その恥知らず男の最後っ屁が安倍晋三、彼の孫のこの無茶苦茶である。
親子三代で国を無茶苦茶にした、亡国の国賊家系。


ところで、自民党は数年の延命の後、崩壊寸前である。
もはや、それはさけがたい。
自民党最後の首相になるために、駆け込み立候補が続々である。
どうもそれをわかってようやく腰を上げた奴も居るようだ。
とにかく、なってみたいのだ。
そんな奴を当選させるなっての。


間接民主制よ、さらば。
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# by lebendig | 2007-09-14 01:23

「一杯のラーメン」

人間には可能性がある。
生きる意味と価値がある。

『一杯のラーメン』
http://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/kiko_jijo/chugoku/shuki/sm/ipai.html
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# by lebendig | 2007-09-09 08:16

瀬島龍三の遅すぎる死 

大本営参謀であった瀬島龍三が死んだ。
百万単位の人間を殺す(自国民含む)ようなことを平気でやってのけた亡国の帝国陸軍。
その参謀であった。
つまり、その重大な責任者の一人である。
しかも戦後、シャアシャアと伊藤忠商事の会長とかやっていた人間である。
私なら恥ずかしくて、日本に帰って来れなかっただろう。
(しかし、よく帰ってこれたもんだ。)

こんな人間がなぜ担がれてきたのか、
戦後日本の病巣がそこにある。
人間の命なんてどうでもいいから、
己の妄想の帝国を拡大しようという帝国陸軍の倒錯が、
戦後反省無く商売に転生した。

だから、最も軽蔑されるべき瀬島龍三はじめ、
元帝国陸軍参謀なんかがちやほやされたのである。
ちやほやしてきた馬鹿がまだ多少は存命だろう。
彼らは死んで無になった子どものことなんて気にしていないだろう。
反省しないのだったら、みんな死んでいなくなってもらうしかない。
そうして初めてなにがこの100年、あるいは150年で起こってきたのかわかるだろう。

陸軍でノモンハン事変はじめ、満州でむちゃくちゃやりまくった陸軍の辻政信が、
戦犯として処刑されるのを恐れて海外を逃げまくり、
ほとぼりさめてから帰国したところで、
馬鹿な我が国の国民はこんな奴を国会議員に当選させた。
そういう馬鹿がようやく寿命でいなくなるのだ。

辻が東南アジアで行方不明になったのは、
中国共産党か何かの工作員に殺されたのではなく、
物盗りにでもおそわれて惨めに死んだと思いたい。

それはともかく、
基地外陸軍をチヤホヤ、
そんな奴らの頭の中は戦中と戦後が陸続きなのである。
肝心な文化的伝統は断絶、いいものは全部断絶。

そうして陸続きになっていた戦後がようやく終わる。
しぶとく狡猾に生き残った日本史の恥が、
ようやく死に絶える。
瀬島はマスコミから逃げ回っていたそうだが、
こんなのを担いできた伊藤忠とか、財界とかって、
本当に腐っている。
誰でも知っているか、そんなこと。
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# by lebendig | 2007-09-04 11:24

希薄な文体

最近のあらゆる文という文が希薄である。
テツガクシャだって例外ではない。
難しいか平易かという問題ではない。
平易な文でも、徹底的に練られた思考を表現し得る。
いや、むしろ、そういう文というのは一見平易である。
最近のテツガクシャの文は難解なだけで、中身は希薄。
しかも、つまらない思いこみだけが「言いたいこと」だったりする。
中身がないのである。
おつむの中身もないのだろう。

例を挙げれば、岩波新書である。
1980年より以前のものは濃い。
それに対して、特に最近のは徒に具体例を連ね、肝心の己の主張は貧弱である。
小説だって同じだ。
何事か表現するときに、その表現すべき事が徹底的に練られたのならば、
自ずと濃いものになる。
1頁読むのも大変なくらい濃い文というのがかつてはあった。
志賀直哉とか濃い。
今時のは、直木賞やら芥川賞もらっているのも薄い。
無い中身をひねくった文体やら偏ったディテールの描写で隠蔽である。
もはや文「学」ではない。

とにかく中身がないのである。
中身というのは、思いこみの自己主張のことではない。
人間として生きることの意味、
それがどのような文であれ深く考えられていなければ読む意味はない。
それは人生、他者に対する徹底的に謙虚な態度によって初めて気付かれる。
思いこみの当てずっぽうを他者に押しつけ、悦にいることではない。
それは幼稚な態度で、見ていて醜い。
最近はかなりの年配者でも幼稚な精神である。
幼稚園児の「見て、見てー」と同じ。
情けない。

謙虚に謙虚に、厳しく、徹底的に、
そういう態度がにじむ文というのは、読むとき「ありがたい」と思うものである。
自己申告の自己主張はもう結構。
テツガクシャもブンガクシャもヒョウロンカも、
ガクシャもセイジカもみんな幼稚。
心がけが醜く、中身がない。
この30年ぐらいの我が国の文字の連なりに、
後世に残すべきもの無し、である。

100年後、日本がまだあるなら、未来の日本人はどんな総括してくれるのか。
国も人間も幼児化し、制度も文化も幼児化し、停滞した時代であった、とか。
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# by lebendig | 2007-09-03 19:45

安倍内閣改造 <時事ネタ>

内閣が改造された。

って、意味がよくわからない。
文科相留任とか、なぜ?が多い。
そして、その顔ぶれが云々以前に、
自民も「人」がいなくなったなぁ、と。

昔は、何やってるかわからない感じはあったものの、
人間的な厚み、そして、いざというときの覚悟、
それが感じられる人がいた。
というより、それがなくては議員なんぞになってはいけなかった。

今は、ひょろひょろ看板鞄地盤譲ってもらった3代目が、
ぐだぐだへりくつだけで乗り切ろうと。
何のために議員なんかなってんの、安倍とか?


一般的な批判はこの程度にして、

安倍首相のあの意味不明記者会見の強弁に、
彼の頭の悪さと、そしてそれを隠蔽する「強弁法」が見て取れる。
この強弁法は言論の貧困、そしてことばのちからの喪失、
そして、学問の崩壊、文化の消滅を見て取れるのである。

人が聞いたことに答えない。
無意味なことばの組み合わせ。
これが安倍のことば。
「困難な状況の中、国民の皆様とのお約束を守り、改革を進めて参りたい」
っていうのが、それ。
約束を守る、改革を進める、なんか無条件にOKということばだが、
実際に何を約束というのか、改革とは何をどうすることを言うのか、
詳しく考えれば、何にも彼が言っていないことがわかる。

これが、しかし、この10年ぐらい、自民党の言い続けてきた、
空虚なことばであり、彼はそれを踏襲しただけだ。


こんな無意味なことばでも、
真顔でカメラを睨みながら語れば、
それっぽく見えたのである。
最近までは。
しかし、誠実な人はそんなことしなかったが、
誠実な「人」はいなくなった。

しかし、こんなアホな言論の空虚がなぜ通用してきたのか?
それは、それを許容してきた国民の責任である。
あんなもんだろう、とみんな思ってきた。
国民が、というより、マスコミがアホで馬鹿な自己顕示欲だけの群れになったから。
真剣な言論、まともな言論、ことばで勝負する言論なんて信じていない連中だらけ。
そこに、あんな馬鹿首相が成立する土壌がある。
最初から、彼に全く首相の能力がなかったことは、
わかる人にはわかっており、
明らかなことだった。
しかし、へりくつ、強弁は人並みだったので、
なっちゃったのである。

この現象は、文化的な現象であり、
社会の崩壊の序曲である。
政治指導者は、その国民に見合った人間がなる。
あの安倍なみに、国民もなったのである。

学者も評論家みたいなことしか言えなくなってるし、
学問も現状に妥協するカスになり、
もうおわりである。


だが、さすがにこれはまずいと誰でも思い始めた。
多少の救いがそこにある。
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# by lebendig | 2007-08-27 21:50

ぼやき哲学

なにやら、全体としてぼやき哲学である。
乏しき時代のぼやき哲学。
時代がぼやきを求めているのか。

いや、否定こそ創造の第一歩。
ぼやいてぼやいて、 ぼやき続けてこそ、徹底的な否定に到達し得る。
ぼやきを己自身へと化す。
ぼやきがぼやく、そこまでいくとき何かが始まる。

と、悪のりだが、
しかし、哲学やる連中の異常な買い被りっぷりをみれば、
頭に来るのである。
ソクラテスもデカルトもカントもフッサールも、デリダもフーコーも、
何でもすばらしい!
んな訳ないだろ。
全部失敗したひとびとである。

真理やら究極の答えを彼らが得ていないのは、確かである。

だが、馬鹿者どもは「より」正しいのはどれか?とか、
「可能性」があるのはだれだ?とか、
比較やらなにやらの仕方で、
評価したがるのである。
評価したくてしようがないのである。
しかし、答えが何か知らないのに、
それにより「近い」なんてこと知り得ないはず。
だから、それも結局お手盛りである。

そしていつのまにやら、答えなんてどうでも良くなったのである。
あほか、と、

ぼやくのである。
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# by lebendig | 2007-06-30 18:04

おのが仏のみ尊し哲学

最近、どこの大学でも哲学講座が崩壊し始めているらしい。
お取りつぶしや減員でなく、担当教員がいないのである。
ヨーロッパ哲学史の小宇宙を大学に再現できないのである。

小宇宙、ミクロコスモスはいらない。
だが、誰ならよいのか?

これは哲学の問題ではない。
なぜなら、教員の主張の妥当性が問題ではないからだ。
フッサールとかヘーゲルとかカントとか、
そんな専門とするところの哲学者たちの評価が、いまがた落ちなのである。

最近のつまらない研究者はいいのか?

そんなもん、ゴミに決まっている。


だが、研究者たちは何十年も研究している対象に、
いつのまにやらとりつかれ、
先がないのである。

おのが仏のみ尊し。
議論で否定されるよりは、
「嘘」かもしれないけど信じていたい、
のである。


大人になるのに失敗した人間たちなのである。
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# by lebendig | 2007-06-13 02:29

乏しき時代?

明らかに乏しい。
乏しいところに救いが、とはハイデッガー。
じゃあ、そろそろ、ということか。

しかし、乏しいというか、底をついている。



人間がいないんだから。
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# by lebendig | 2007-06-09 16:25

「じゃぁ、証明してみろよー」的哲学

哲学の論文は何かを論じ明らかにするものである。
より暗くなったり、というのはだめである。
しかし、本当に明らかにしたのか?
なにか、確かなことが証明されたことはあっただろうか?

皆無である。

全部、うそであった。

たとえばこういう事だ。
ヘーゲルなり、デカルトなり、カントなり、
偉そうに長々長々理屈をたれて、なんぞ証明したつもりになっている。
だが、今では彼らの言うこと額面通り信じる人は***である。(自粛)
証明されていなかったのである。

もちろん、出来てたら、今頃哲学は必要ないだろうけど。
ヘーゲル教とかになっていただろう。(それに近いものはどこかにありましたが。)

そりゃずいぶん昔の哲学者だろ、っていうかもしれないが、
じゃあ最近のテツガクシャは大丈夫か?
って、死んだと言われ、滅ぶと言われ、誰も気にしちゃいないと言われるテツガクに、
「確かなこと」を明らかにしているか?、とは木に魚を求めるようなもの。

それにしても、これまで2千年以上にわたって、
哲学はいったい何十万何百万の「証明」をしてきたのだろう?
証明のインフレーションである。
おまえら、「世界」とか「存在」とかで証明しすぎなんだよ。


つまり、哲学の「証明」は証明にあらず。
ほんと、アホな学問である。
学者に多少の良心でもあれば、気付くはず。

哲学には証明なんぞ出来ないと言うこと。
狂信、アナクロニズム、コンプレックス、人格障害、
それに基づく偏狭な主張が「証明」されまくっている。

そして、テツガクシャは自分自身をなにがしか「証明」し、
なにがしか知っている人間だと自負している。
さむい。

ソクラテスとかデカルトで、少しだけ尊敬できるところがあるとしたら、
知ったつもりになるより、知らないことを知った方がましだ、
と考えていたところである。
でも、やっぱり彼らもなんかおかしくなったけどね。

いまは、みんな信じてしまっている。


今日、テツガクシャの適性は「自分を信じることが出来る」、である。
おまえら、「自分を信じて信念を貫」いとけ。
死ぬまで。
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# by lebendig | 2007-06-04 10:23