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ブログ、ツイッター、フェイスブック、、、

Weblogがブログとなって、ネットにダラダラと思いつきを垂れ流しにすることが許されてしばらく経った。
このHPもダラダラと、思いついたように書き込んだり、忘れたりと続いてきた。
そして、いつしか目的のあるブログが残り、本当にダラダラしている戯言、戯れ言はツイッターに移っていったようである。

たしかに、ブログにまともに書き込むのは面倒である。
一応、文章としての作法が必要で、文を書くだけではいけない。

一言だけなら、文章を書くときの構成とか考える必要がない。
何かしらのテーマについて書き抜く見識は必要がない。
誰でも書き込める。

その前兆として、ブログの書き方が変わっていった。
一言書き込んでは、改行を繰り返し、文どうしのつながりを断ち切っている。
ある程度のテーマはあっても、文同志の論理的な関係や全体的な構成を拒絶している。
拒絶というか、面倒くさいので、つなげないのである。

誰でも書くことが出来るのがブログだったが、
文章は誰にでも書けるものではなかったのだ。
まさに文章は人間の知性そのもので、つぶやきにはアイデアはあっても知性は無いのである。

文章を書かなければ表現できなかった時代は、文章を操ることの出来る人間の天下だった。
しかし、その特権はいま不平等なものと認識されつつある。
その実体は、文章力の低下、見識の低下であり、新聞の社説など以前なら三流週刊誌のとんでも記事なみになっている。
文章に力を入れて新聞の見識を競った時代は終わった。
そんな見識を大学で育てなくなったからでもある。

いまどき、文学者も平たい文章で、平たい内容で薄利多売の時代である。
読み手も書き手も衰えてきた。
これがネット時代の知性レベルなのか。

さらにツイッター、フェイスブックで平たくなっていくだろう。
独裁者がいなくなって、平たくなるのは良いが、知性を平たくするのは人類文明にとって決定的な問題になるだろう。
# by lebendig | 2011-03-08 10:12

教育制度崩壊へ

とはいっても、明日とか来年とかではない。
そのうちに、である。
が、確実に、でもある。
そして、いつの間にか、そうなるだろう。
それは人間が変質したからである。

質が下がったとか、変わったとか、そういう単純な話ではない。
本質が変質したのである。
哲学的に言うと、本質なるものがあって、それが変質するなんて事はありえない。
もちろん、ここで言う本質とは、人間を成立させるもっと野根本的な性質のことで、プラトニズムとは関わりはない。

戦時中、国を守るために死んだ若者がいた。
国というと、廃仏毀釈で純粋化された「国家神道」という明治以来の「神話」と近代国家理念のまさに混淆物であり、そんなものを信じていたのはほとんどいなかっただろう。
そうではなく、そこでの国は、人と人がつながり作り出された社会のことで、一人一人がそれが確かに存在することを信じていた、目には見えないが確かな人間の人生のよりどころのことである。
そういう若者だけでなく、古い時代には信じられてきたそのよりどころを守るため、人々はその目に見えないものの実在を前提し、確認しながら己のあり方を定めてきた。
そういう人間が集って初めて高度に組織化された現代社会も営まれてきたのである。
しかし、団塊の世代はそうではなかった。
個人の自由の価値の対局に社会がすえられた。
そして社会は今無くなった。
あるのは「同好会」のような人の集まりだけである。

教育は人間の人生のよりどころを確信させ、心に深く刻みつけることを中心にしなければならない。
そうでなければ、社会が無くなるからである。
しかるに、学校では自由を教えるのみである。
このバラバラの、膠質を欠いた人間集団がいくらあつまったところで、バラバラの細胞が物理的に集まっているだけである。
社会にはなれない。
どんなに寂しくても、なれないのである。

昭和一桁がほぼ引退しつつある現在、社会は至る所で自壊を始めている。
つなぎがなくなったのである。
つなぎを入れないハンバーグはぽろぽろしている。
挽肉炒めの固まりである。
今後の社会も挽肉炒めになり、ハンバーグにはなることはないだろう。
そういう社会は、次世代を組織的に教育できるのか?
もちろん出来ない。そして教育なるものが何かさえわからない。

学問って、就職に役立つアレのことだよね。
そういうことにもはや半分なっている。
教育・学問はすでに死んでいるのである。

文科省にはこの傾向、つまり、自由を植え付け、社会を解体し、組織化する、という明治以来の恐るべき社会は改教育を変えなければならない時期にあることを自覚してもらわなければならない。

その前に、学者ががんばらなければならない。
巨大なサイエンスシステムの中でひたすら業績を積み上げるルーチンワークを行うのは学者ではないし、人間ではない。
# by lebendig | 2011-02-19 02:02

忙中閑あり

とてもとても長い空白期間になってしまった。
とにかく、大変なことが続いたのだが、しかし、事態はそう簡単には動かなかった、
今週来週が一番の山場であるが、そして今現在も動いているが、
そういうときに限って一瞬の空白の時間がある。

世間も騒然としていて、大きな社会の変化が起きそうである。
# by lebendig | 2011-02-15 21:52

就職難時代に顕著になった世代間差別

環境問題においてよく「世代間倫理」の必要性が指摘される。
今の世代は次の世代に対し責任ある行動をしなければならない、ということである。
現在、我々はそうしていないからこそ、指摘されているのである。
ただし、環境問題という茫洋としてつかみ所がない問題だけに、その欠落は明確に意識されてこなかった。
だが、バブル崩壊、リーマンショック、ギリシア危機と経済の世界的な危機状態に際して、極めて明確に世代間倫理の欠如が認識され始めている。

10年前の就職氷河期から多少の回復はあったが、ここへ来て昨年の就職難、そして、今年は更に悪い状況が予想されている。
ここ10年、あるいは20年、大学卒業のタイミングに就職の機会を逃しただけの若者が、未来のない人生を送ることを強制されている。
もしかして、どこかの会社に就職したりしていれば、彼らはまじめに働き、今頃は結婚し、家庭を作って子どもを育てていたに違いない。
卒業後3年は新卒扱いをするよう求める法律など検討されているようであるが、非本質的である。
なぜなら、問題はそこにはないからである。
社会が若者に仕事を与えることを真剣に考えていないことが問題なのである。

現在50代後半から60代の団塊の世代とその前後の世代の人生を振り返ってみればよい。
彼らは大学を出ていれば文句なく、高校卒業なら当たり前のように、そして中学卒業でも金の卵として就職し、みんな毎年給料が上がっていった。
一方で、彼らは自由を謳歌し、社会的な義務や責任を逃げていった。
そして今だに彼らはそんな調子である。
子どもの世代が就職できずに、時間雇いのアルバイトで食いつなぎ続けているのを無視している。
自分の老後の悠々自適の生活だけが彼らの関心である。

もはや回復できないほど彼らの人生の可能性は傷ついてしまっている。
それは老人達の老後の犠牲になったのだ。
本来なら若者にいかにして一生続けられる職を与えてやるのかに年配者の関心がなければ行けないはずである。


機械化以前の農業では、働き手は大変重要であった。
農業が機械化され、人間が必要なくなる過程で、第2次産業が余剰の人間を吸収していった。
都市に人口が集まり、そこで子ども達は生まれ育った。
大手の企業から徐々に機械化、ロボット化していった製造業は、バブル崩壊後、合理化、リストラという言葉を錦の御旗に、従業員を削減していった。
特に新規採用を減らし続けた。
人間の代わりに機械が働いてもうけさせてくれるからである。
その利益を享受するのは団塊の世代以上だけであった。

第2次産業から多くの人間が第3次産業へ移動した。
人間がまだ必要なのは第3次産業だったからである。
工場へ就職すすはずだった人間は、今はスーパーなどの流通産業に就職した。
しかし、最終的に流通産業も極端に合理化し生き残った大手以外は消え去ったのである。
つまり、最終的に、人間が必要なくなったのだ。
ただし、接客だけはまだ人間が必要である。
だからそこはマニュアルによってアルバイトが担当するのである。
このようにして、若者は仕事を奪われ、老人がその利益に預かっている。

その老人が職のない子どもを養っている。
あと10年、あるいは20年で社会は崩壊する。
このように世代間の格差の問題として考えると、就職難は極めて絶望的な社会のゆがみの問題であり、老人が若者の未来を奪い奴隷化するという、これまで人類史上見たことのない状況であることがわかってくる。
世代間をつないでいく倫理を拒絶した団塊の世代が最終的に残したのは、こんなに無惨な状況だったのである。
# by lebendig | 2010-05-31 08:55

appleコンピューター

iPadなる商品をappleコンピューター社が発売するらしい。
アメリカではもう発売して、やっぱり売れたようである。
iMac以来、つまり、ジョブスが帰ってきて以来、こういう新製品発売時の大騒ぎは恒例になっている。

私も初代iBookとか初代MacBookProなど、発表と同時に予約購入している。
いわゆるエバンジェリストということになるのか?
一昨年はアップルストアで福袋の購入に成功した。ネットのほうの。
昨年末は中止のこの福袋の購入難易度は相当なもので、獲得は執念の賜物と言ってよい。
iPodについては当初、そんなに評価していなかった。
というか、当時はあまり音楽を聴かなくなっていたので、興味が薄かった。
アプリがそろってから、iPod touchを福袋で手に入れたくらいで、
iPodに関して言えばエバンジェリストでは到底無い。

アップル社については、もう30年ほどになるが、購読していたマイコン雑誌の「I/O」誌にApple IIのグラフィック性能が紹介されていたところから認知していた。
イメージは、アメリカの先進的な技術はグラフィック志向なんだなー、という感じだった。
シャープのMZ80、NECのPC6001(だっけ?)にグラフィックのボード、というか装置をつけて、というような広告がこのI/Oに載っていて、すごい、とか思っていたのが、Apple IIはそんなの無しで美しいグラフィックをやっている様子。
アメリカはすごい、という印象があった。

その後、グリーンモニターのマッキントッシュなんかがそこそこの値段で手に入るようになり、インターネットによる電子メールの普及とともに、iMacが爆発的に売れて、本当にメジャーな企業として認知されるようになった。
こうなると、以前からおもしろがっていたあたらし物好きの人々は距離を置き始める。
なんか、面白くないのである。
PowerMacの為にナナオの17インチモニター20万円を購入したときの勢いは、今何処。

ただ、おもちゃ然としていたiPod touchと違ってiPadは「新しい道具」見たいな印象である。
コンピューターとは用途が違いそうだが、今後、他のメーカーから同じようなのが出てきそうだ。
値段がコンピューターとくらべて安いのもポイントだ。
珍しいだけで20万円は出せなくても5万円は出せる人も多いだろう。

別にAppleのファンでなくても、買ってもいいんじゃないか。
そういう訳で、日本でもiPhone以上に普及すると思われる。

私も、sigmaの一眼レフSD15かiPadか迷いながらも、
結局購入するのではないか、と恐れている。
いや、どっちも買いそうである。
どことなく、Appleのマーケティングにしてやられている、という気がしないでも無い。
しかし、Appleだったら許す?
# by lebendig | 2010-04-13 14:58