<   2011年 03月 ( 3 )   > この月の画像一覧

災害と人の死

多くの人が津波に飲み込まれてしまった。
親族や友人が被害に遭い、あるいは行方不明になった人々にとって大きな衝撃である。
あるいはそうでない人々にとっても、つまりこのニュースに接するすべての人々にとっても、大きな衝撃である。

親しい人を失った人々にとって、何万人の被害があろうとも、それは問題ではない。
その人を失ったことが問題だからだ。
一方、親しい人を失わなかった人にとっては、被害にあった人々の数に大きな衝撃を受ける。
その数字は、自然の力で命を失うことの「確率」の高さ、つまり、人間の自然に対する無力さがそこにあらわれている。

親しい人を失った人々も、その不条理を嘆くことから、人間の運命の中での圧倒的な弱さに気付くときが来る。
一方で、被害者の数に衝撃を受けていた人々は、その一人一人が一つ一つの人生を生きていて、その死を迎えたことを理解するようになるだろう。


結局、人間は自分だけの人生を生き、自分だけの死を死ぬ。
それが災害であろうと、病気であろうと、変わらない。
災害に遭わなければ、人生の最後の瞬間は納得のいくものになるわけではない。
我々の死は、常に厳粛で、あっけなく、自然なものだ。

こういったことが、改めて認識されると、人々の人生に対する意識も変わってくるだろう。
思想も哲学も、本来の人間を見いだすことになる。
あっけなく はかないもの、その意味を見いだすことが重要だ。
[PR]
by lebendig | 2011-03-22 09:42

哲学、、、だった

このブログ、テーマが哲学だった。
といっても、その最期であるが。

ニーチェ本が売れている。
癒されるそうである。
ニーチェも役に立つものだ。
いや、いまどき、どんな「哲学」でも役に立つものとして売り出されている。
役に立つ、というのは、今時は癒される、ということである。

現代は人間の心を疲れさせ、病ませる。
これが一つの条件である。
そしてもう一つ、哲学であろうと宗教であろうと、ありとあらゆるものを道具として使用する。
これが二つめの条件である。

マルチン・ハイデッガーは集立という言葉で現代を表現した。
たしかに、ニーチェの思想であろうと、あるいはハイデッガーであろうと、癒される部分だけ持ってきて、わからない部分はきれいに捨てて、適当な言葉を付け足して、マンガもつけて、、、、
そうして、ニーチェやハイデッガーまでもが存在させられている。

哲学とは役に立つ、哲学は癒される、哲学は楽しい、哲学は、、、、
逆に、役に立たなければ哲学ではない、癒されなければ哲学ではない、楽しくなければ哲学ではない、となる。
終いには、つまり最期には、哲学の目的は人生に役に立つこと、就職に、落ち込んだときに、暇なときに、などなど。

別に哲学でなくても、すべてそうである。
学校も、勉強も、学問も、就職も、結婚も、子育ても、定年も、そして老後と人生の最期も。
すべて、癒されて、楽しくて、おもしろくて、、、、でなければ、と。
果たしてそうだろうか?

ニーチェの言った生は、たとえば岡本太郎的に表現すれば、痛切なものである。
そのリアリティーを生とよんだ。
夢うつつの宗教的妄想を切り裂き、まじまじと生を見つめたのである。

それが果たして万人にとって心地よいものであろうか?
誰にとっても心地よくない。
ハイデッガーに思想も、重い不安を耐え抜く。
生の自覚、存在の自覚であり、覚悟と根性、勇気、力があるものだけ過一見ることが出来る「深淵」である。

結局、人格的に選別される。
その人にその人の力量に応じた哲学、だが、ハードルはかなり高い。
哲学は万人に到達可能な知識ではなく、やはり「学問」、人間の道である。
それにしても、ニーチェ、ハイデッガーはフィロソフィーの最期であり、
学問の入り口にしか過ぎないのかもしれない。
[PR]
by lebendig | 2011-03-10 10:08

ブログ、ツイッター、フェイスブック、、、

Weblogがブログとなって、ネットにダラダラと思いつきを垂れ流しにすることが許されてしばらく経った。
このHPもダラダラと、思いついたように書き込んだり、忘れたりと続いてきた。
そして、いつしか目的のあるブログが残り、本当にダラダラしている戯言、戯れ言はツイッターに移っていったようである。

たしかに、ブログにまともに書き込むのは面倒である。
一応、文章としての作法が必要で、文を書くだけではいけない。

一言だけなら、文章を書くときの構成とか考える必要がない。
何かしらのテーマについて書き抜く見識は必要がない。
誰でも書き込める。

その前兆として、ブログの書き方が変わっていった。
一言書き込んでは、改行を繰り返し、文どうしのつながりを断ち切っている。
ある程度のテーマはあっても、文同志の論理的な関係や全体的な構成を拒絶している。
拒絶というか、面倒くさいので、つなげないのである。

誰でも書くことが出来るのがブログだったが、
文章は誰にでも書けるものではなかったのだ。
まさに文章は人間の知性そのもので、つぶやきにはアイデアはあっても知性は無いのである。

文章を書かなければ表現できなかった時代は、文章を操ることの出来る人間の天下だった。
しかし、その特権はいま不平等なものと認識されつつある。
その実体は、文章力の低下、見識の低下であり、新聞の社説など以前なら三流週刊誌のとんでも記事なみになっている。
文章に力を入れて新聞の見識を競った時代は終わった。
そんな見識を大学で育てなくなったからでもある。

いまどき、文学者も平たい文章で、平たい内容で薄利多売の時代である。
読み手も書き手も衰えてきた。
これがネット時代の知性レベルなのか。

さらにツイッター、フェイスブックで平たくなっていくだろう。
独裁者がいなくなって、平たくなるのは良いが、知性を平たくするのは人類文明にとって決定的な問題になるだろう。
[PR]
by lebendig | 2011-03-08 10:12