<   2007年 09月 ( 9 )   > この月の画像一覧

再生紙で地球温暖化

100%再生紙がなくなる。
それは、再生紙がCO2を多く発生させるからである。
木のチップから作る紙はそれ自身に由来する樹脂を燃料にする。
だから、木を切ってまた植えれば循環が成立する。
ところが、再生紙は化石燃料を使うので、CO2はただ増えるだけである。

って、最初からわかっていたはず。
製紙業界は。
アホな役所が調べずに推奨し、
アホな市民団体がそれを鵜呑みにした。
かれこれ何年再生紙を使ってきたか?
ずいぶんと温暖化に貢献してきたもんだ。

なぜ、きちんと検討せずにわーわー騒いだのか。
愚かな。
製紙業界は、確信犯か?
ひどいものである。
古紙が品質低下し、また高くなる中で製造中止。
そして、エコではないからというその理由。
ひどい。

だがエコロジーってのはそんなのばっかである。
みんな雰囲気と勢いだけ。
子孫の人生なんて考えちゃい無い。
自分の子供の学費の計算ならきちんとやるくせに、
子孫の命を守るための計算は無し。

マイ箸、牛乳パック、古紙回収、椰子の実油。
風力発電、ハイブリッド車、燃料電池、、、、
こいつらもトータルで勘定すると、環境破壊。
製造か運用の段階で化石燃料使っているのだ。
ひどいもんだ。

エコロジーにたかった偽善者どもが、
裁かれつつある。
良いことだ。
[PR]
by lebendig | 2007-09-29 04:18

歴史の転換点

なんか、時事ネタに引きずられてしまいました。
ただ、最近、我々が歴史の転換点にあり、
そしてまた、これまでの歴史の実像が見えてきたということは事実。

歴史の転換点、潮目が変わりつつある。
一つは第二次大戦の世界的な妄想世界が消えつつあること。
当時大人であった人々が死に絶えつつある。
もう一つは、共産主義者が壊滅したこと。
彼らは「科学」やらの狂信者だが、
重要なのは、ルサンチマンをエネルギーに、
ロウドウシャの味方とか偽善ぶっていたのがばれたこと。
不誠実な人間の生き方が暴かれ、
実際には極めて多くの虐殺が肯定されてきたことが、
しらふの人々に裁かれ始めたのである。

共産主義の核は良い核とか言ってたアホたち、
文化大革命万歳とか言っていたマスコミやら、
そういう輩も現役を退く。
学生運動を青春の一頁、とかまとめ方で、
アホか。


もう一つ。
やはり、地球環境問題。
多くの人々が餓死する危険がある。
死を忘れ、幼児化してきた人間たちが、
社会的なことにシリアスになってきた。
死の可能性がある中で生きるとき、
重要なことがわかってくる。

しかしまだ、十分ではない。
人間が死ぬとき無となること。
真にはかない存在であること。
無惨に死んだ人々は、帰ってこないこと。
絶対に戻らず、永遠に無である。

この恐るべき世界に我々は生きている。
絶対に取り返しの付かない瞬間に生きている。
それが認識されて、初めて何が重要か見えるだろう。


「美しい国」とか、そこら辺全然わかっていない。
妄想の戦前復活である。
アナクロニズムの極地。

ただ、わかりやすかったから、みんな気付いてよかったね。
[PR]
by lebendig | 2007-09-24 09:35

政治哲学? 哲学と政治?

政治哲学。
なんだ、それは?
哲学というと、なんか根本的なもの、基礎付けをする学問のような気が、、、
そんなことは、無い。
哲学をありがたがりすぎ。
哲学がだめなのに、政治哲学がどうにかなるわけはない。
法哲学も教育哲学も、社会哲学も、倫理学も美学も、
全部、だめ。
哲学が倒れて、ドミノ倒しである。
って、実は「立って」なんかいなかったんだけど、
幻想の学問の雪崩現象である。

まぁ、世間で言う「哲学」ってのは、
哲学の正反対で(これを最近は真逆、と言うらしい。逆でいいと思う)、
思いこみ、信仰箇条、信念、のことをいう。
こんなものはいらない。
何しろ、思いこみでしか無く、
学問でも答えなんか無いのだから。

政治で信念語るのは、
思いこみか、信仰か、
とにかく、馬鹿である。


哲学も、ね。
[PR]
by lebendig | 2007-09-24 03:55

そもそも「政治」とは

猿山にも社会があり、それゆえ政治がある。
社会があって、それが機械のようにかってに動くというのは現代人だけの妄想。
政治なくして社会は動かない。
猿と人間は同じだからである。

ボス猿が政治的な行動をして、雌猿、若い雄猿、子猿などがその振る舞いに呼応、
それが社会的関係を猿の間に作り出し、社会になる。
猿どうしの関係なしに社会はないし、猿山もない。
インターモンキーが重要なのである。

人間も最近は引きこもりやニートのように関係もしないで社会の中に存在する人もあるが、
基本的に人間と人間との関わりがなければ社会は成立しない。
通勤電車に詰め込まれた人間たちは、
近接してはいるが社会は形成していない。
しかし、そこで何らかのコミュニケーションが多少なりとも生ずれば、
そこには出現する。

社会を存在させるためには、
常にその社会全体に関わるコミュニケーションが必要である。
そこで「政治」なるものが、つまり「国」という社会の全体に関わるコミュニケーションが必要なのだ。
社会を維持するには、基本的にその中身は何でもいい。
暴君が私腹を肥やすために政治をしようが、
構造改革であろうが、土建政治、貴族政治、戦時国家体制、
なんでもあり。

無論、それは社会が維持されるためだけに必要だというであり、
社会が幸福であるか否かは全く別問題である。
たとえば、日本がきわめて独立性の高い道州制になり、
関西では標準語が大きく変更され、
東北北海道では経済を完全にブロック化し、
電波も新聞も分割し、互いに関心を持たなくなったら?
事実上分裂である。

大ブリテン連合王国がそうだ。
日本人がイギリスといってるのは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドだが、
オーストラリアとかニュージーランドも連合王国の一部で、ホントは元首は女王である。
コミュニケーションがないと国だってバラバラである。

おなかが痛くて首相がやめたとか、
2世3世がどうだとか、
格差社会、年金問題。
これをネタに我々は国家社会を束ねるコミュニケーションをしている。
中身が相当低レベルであるが、
やっぱり、日本は大きな一つの社会なのである。
完璧な国家社会が形成されたなら、
むしろそこから日本は分裂し始めるだろう。

くだらない与太話や、インチキくさい選挙の話で国家統一。
これが日本である。

旧陸軍の妄想とかオウムとかよりゃマシか。
しかし、もっとなんかあってもいいんじゃないの?
くだらないおしゃべりが続き、「日本」もつづく……
[PR]
by lebendig | 2007-09-19 03:28

麻生太郎、福田康夫、安倍晋三

30年くらい政治に関心を持ってきた人間なら、
この顔ぶれに驚愕せざるを得ない。
偶然に2世、3世議員が首班指名を争うことはあるかもしれない。
しかし、出てくる役者が全部3代目では日本も終わりである。

政治家の「優れた」遺伝子を受け継いでいる、
とか、弁明が聞こえてきそうだ。
しかし、金やコネにものを言わせて政治家になった、
その3代目である。

吉田茂が優れているとか、いえるのか?
戦後政治に一定の役割を果たしたが、
誰がなっても果たしただろう。

いろんなサポートがあって、
教育を受けているのか変わらず、
言っちゃあ悪いが、
すばらしい学歴ではない。
そういう試験の点数を取る能力もない。

政治的な振る舞いは、その世界に入れば誰でも身につけるだろう。
それは条件ではない。


そんなこと言う前に、
120000000人の人間がいるこの日本で、
2世3世が特に優れている確率は極めて少ない。

つまり、現在のような間接民主制は、
優れた政治指導者を選ぶシステムとして、
本質的な欠陥があり、
現在、それがあまりにもあからさまになっていると言うことである。

民主党が多少ましなのは、
世襲議員が少ないからだが、
それだけである。
[PR]
by lebendig | 2007-09-17 12:46

安倍晋三の遅すぎる辞任

早晩、グダグダになり辞めるのは目に見えていた。
「人気」の勢いだけでなって、あとウヨクだけが頼みの綱。
しかし、それは日本の歴史や社会の中枢から外れた人々。
歴史の中で生き抜き、社会の中で責任と義務とを担ってきた人間は、
強硬なふうのポーズが、
「真剣に問題に立ち向かう」っぽく捉えられているだけだとわかっていた。
言わずもがな。


しかし、振り返れば、
小泉前首相就任直前の自民党は現在とほぼ同じ。
崩壊寸前であった。
それを小泉が延命した上に、日本中をぼろぼろに改造し、
不幸な人間をふやした。


現在、失業者や実質失業者の若者があふれかえっている。
これは、しかし景気でどうなる問題ではない。
彼らのほとんどは、非熟練労働者でしかない。
誰でもできる労働を、マニュアル通りにこなしてきただけ。
マニュアル奪えば、ただの人間でしかない。
最低の賃金しかもらえないのである。
それでは結婚して、子供を養うなど困難だ。
この数年の空しい年月は、彼らの人生にとって決定的だった。
経済政策ではどうしようもないのである。

さらに、彼らが非熟練労働者として空しい労働しかできないことを、
彼ら自身のせいだとされて、自尊心が傷ついていることだろう。
社会のためにくだらなく空しい労働を、低賃金で未来も無くやっているのをけなされる。
絶望的である。


空しい労働に従事する人々の、その労働は尊い。
金銭的見返り少なく働くことに耐えることは厳しい。
しかし、そのような人無くして、今日の日本社会は無い。

工業製品は工作機械やロボットが効率的に作る。
それは合理的である。
不要な人間を排除する。
すると、効率的な生産で大変儲かる。
当たり前である。
これが小泉構造改革である。
排除した「余分」な人間は、居てもらっては困る。
だが殺す訳にも行かない。
彼らに自己責任といって責任を転嫁し、
マニュアル化された労働集約産業へ送り出す。
まだ機械化されていないが、マニュアル化された産業へ。
だが、その改革の受益者は国民ではない。
誰が利益を得ているのか。

この惨状が実現される中、
首相になりたいだけのヒョロヒョロが、
運だけでなった。
いや、実は運ではなく必然である。
自民党は崩壊寸前。
そのなかで、空しい言葉のポージングだけの男がえらばれた。
中身があったら、偉そうなウヨクのポーズはできなかっただろう。

満州で何十万と死んだ責任者は彼の祖父。
戦後抜けシャアシャアと首相になった。
彼は狡猾だった。
瀬島と同罪の男であった。

その恥知らず男の最後っ屁が安倍晋三、彼の孫のこの無茶苦茶である。
親子三代で国を無茶苦茶にした、亡国の国賊家系。


ところで、自民党は数年の延命の後、崩壊寸前である。
もはや、それはさけがたい。
自民党最後の首相になるために、駆け込み立候補が続々である。
どうもそれをわかってようやく腰を上げた奴も居るようだ。
とにかく、なってみたいのだ。
そんな奴を当選させるなっての。


間接民主制よ、さらば。
[PR]
by lebendig | 2007-09-14 01:23

「一杯のラーメン」

人間には可能性がある。
生きる意味と価値がある。

『一杯のラーメン』
http://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/kiko_jijo/chugoku/shuki/sm/ipai.html
[PR]
by lebendig | 2007-09-09 08:16

瀬島龍三の遅すぎる死 

大本営参謀であった瀬島龍三が死んだ。
百万単位の人間を殺す(自国民含む)ようなことを平気でやってのけた亡国の帝国陸軍。
その参謀であった。
つまり、その重大な責任者の一人である。
しかも戦後、シャアシャアと伊藤忠商事の会長とかやっていた人間である。
私なら恥ずかしくて、日本に帰って来れなかっただろう。
(しかし、よく帰ってこれたもんだ。)

こんな人間がなぜ担がれてきたのか、
戦後日本の病巣がそこにある。
人間の命なんてどうでもいいから、
己の妄想の帝国を拡大しようという帝国陸軍の倒錯が、
戦後反省無く商売に転生した。

だから、最も軽蔑されるべき瀬島龍三はじめ、
元帝国陸軍参謀なんかがちやほやされたのである。
ちやほやしてきた馬鹿がまだ多少は存命だろう。
彼らは死んで無になった子どものことなんて気にしていないだろう。
反省しないのだったら、みんな死んでいなくなってもらうしかない。
そうして初めてなにがこの100年、あるいは150年で起こってきたのかわかるだろう。

陸軍でノモンハン事変はじめ、満州でむちゃくちゃやりまくった陸軍の辻政信が、
戦犯として処刑されるのを恐れて海外を逃げまくり、
ほとぼりさめてから帰国したところで、
馬鹿な我が国の国民はこんな奴を国会議員に当選させた。
そういう馬鹿がようやく寿命でいなくなるのだ。

辻が東南アジアで行方不明になったのは、
中国共産党か何かの工作員に殺されたのではなく、
物盗りにでもおそわれて惨めに死んだと思いたい。

それはともかく、
基地外陸軍をチヤホヤ、
そんな奴らの頭の中は戦中と戦後が陸続きなのである。
肝心な文化的伝統は断絶、いいものは全部断絶。

そうして陸続きになっていた戦後がようやく終わる。
しぶとく狡猾に生き残った日本史の恥が、
ようやく死に絶える。
瀬島はマスコミから逃げ回っていたそうだが、
こんなのを担いできた伊藤忠とか、財界とかって、
本当に腐っている。
誰でも知っているか、そんなこと。
[PR]
by lebendig | 2007-09-04 11:24

希薄な文体

最近のあらゆる文という文が希薄である。
テツガクシャだって例外ではない。
難しいか平易かという問題ではない。
平易な文でも、徹底的に練られた思考を表現し得る。
いや、むしろ、そういう文というのは一見平易である。
最近のテツガクシャの文は難解なだけで、中身は希薄。
しかも、つまらない思いこみだけが「言いたいこと」だったりする。
中身がないのである。
おつむの中身もないのだろう。

例を挙げれば、岩波新書である。
1980年より以前のものは濃い。
それに対して、特に最近のは徒に具体例を連ね、肝心の己の主張は貧弱である。
小説だって同じだ。
何事か表現するときに、その表現すべき事が徹底的に練られたのならば、
自ずと濃いものになる。
1頁読むのも大変なくらい濃い文というのがかつてはあった。
志賀直哉とか濃い。
今時のは、直木賞やら芥川賞もらっているのも薄い。
無い中身をひねくった文体やら偏ったディテールの描写で隠蔽である。
もはや文「学」ではない。

とにかく中身がないのである。
中身というのは、思いこみの自己主張のことではない。
人間として生きることの意味、
それがどのような文であれ深く考えられていなければ読む意味はない。
それは人生、他者に対する徹底的に謙虚な態度によって初めて気付かれる。
思いこみの当てずっぽうを他者に押しつけ、悦にいることではない。
それは幼稚な態度で、見ていて醜い。
最近はかなりの年配者でも幼稚な精神である。
幼稚園児の「見て、見てー」と同じ。
情けない。

謙虚に謙虚に、厳しく、徹底的に、
そういう態度がにじむ文というのは、読むとき「ありがたい」と思うものである。
自己申告の自己主張はもう結構。
テツガクシャもブンガクシャもヒョウロンカも、
ガクシャもセイジカもみんな幼稚。
心がけが醜く、中身がない。
この30年ぐらいの我が国の文字の連なりに、
後世に残すべきもの無し、である。

100年後、日本がまだあるなら、未来の日本人はどんな総括してくれるのか。
国も人間も幼児化し、制度も文化も幼児化し、停滞した時代であった、とか。
[PR]
by lebendig | 2007-09-03 19:45