<   2007年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

ぼやき哲学

なにやら、全体としてぼやき哲学である。
乏しき時代のぼやき哲学。
時代がぼやきを求めているのか。

いや、否定こそ創造の第一歩。
ぼやいてぼやいて、 ぼやき続けてこそ、徹底的な否定に到達し得る。
ぼやきを己自身へと化す。
ぼやきがぼやく、そこまでいくとき何かが始まる。

と、悪のりだが、
しかし、哲学やる連中の異常な買い被りっぷりをみれば、
頭に来るのである。
ソクラテスもデカルトもカントもフッサールも、デリダもフーコーも、
何でもすばらしい!
んな訳ないだろ。
全部失敗したひとびとである。

真理やら究極の答えを彼らが得ていないのは、確かである。

だが、馬鹿者どもは「より」正しいのはどれか?とか、
「可能性」があるのはだれだ?とか、
比較やらなにやらの仕方で、
評価したがるのである。
評価したくてしようがないのである。
しかし、答えが何か知らないのに、
それにより「近い」なんてこと知り得ないはず。
だから、それも結局お手盛りである。

そしていつのまにやら、答えなんてどうでも良くなったのである。
あほか、と、

ぼやくのである。
[PR]
by lebendig | 2007-06-30 18:04

おのが仏のみ尊し哲学

最近、どこの大学でも哲学講座が崩壊し始めているらしい。
お取りつぶしや減員でなく、担当教員がいないのである。
ヨーロッパ哲学史の小宇宙を大学に再現できないのである。

小宇宙、ミクロコスモスはいらない。
だが、誰ならよいのか?

これは哲学の問題ではない。
なぜなら、教員の主張の妥当性が問題ではないからだ。
フッサールとかヘーゲルとかカントとか、
そんな専門とするところの哲学者たちの評価が、いまがた落ちなのである。

最近のつまらない研究者はいいのか?

そんなもん、ゴミに決まっている。


だが、研究者たちは何十年も研究している対象に、
いつのまにやらとりつかれ、
先がないのである。

おのが仏のみ尊し。
議論で否定されるよりは、
「嘘」かもしれないけど信じていたい、
のである。


大人になるのに失敗した人間たちなのである。
[PR]
by lebendig | 2007-06-13 02:29

乏しき時代?

明らかに乏しい。
乏しいところに救いが、とはハイデッガー。
じゃあ、そろそろ、ということか。

しかし、乏しいというか、底をついている。



人間がいないんだから。
[PR]
by lebendig | 2007-06-09 16:25

「じゃぁ、証明してみろよー」的哲学

哲学の論文は何かを論じ明らかにするものである。
より暗くなったり、というのはだめである。
しかし、本当に明らかにしたのか?
なにか、確かなことが証明されたことはあっただろうか?

皆無である。

全部、うそであった。

たとえばこういう事だ。
ヘーゲルなり、デカルトなり、カントなり、
偉そうに長々長々理屈をたれて、なんぞ証明したつもりになっている。
だが、今では彼らの言うこと額面通り信じる人は***である。(自粛)
証明されていなかったのである。

もちろん、出来てたら、今頃哲学は必要ないだろうけど。
ヘーゲル教とかになっていただろう。(それに近いものはどこかにありましたが。)

そりゃずいぶん昔の哲学者だろ、っていうかもしれないが、
じゃあ最近のテツガクシャは大丈夫か?
って、死んだと言われ、滅ぶと言われ、誰も気にしちゃいないと言われるテツガクに、
「確かなこと」を明らかにしているか?、とは木に魚を求めるようなもの。

それにしても、これまで2千年以上にわたって、
哲学はいったい何十万何百万の「証明」をしてきたのだろう?
証明のインフレーションである。
おまえら、「世界」とか「存在」とかで証明しすぎなんだよ。


つまり、哲学の「証明」は証明にあらず。
ほんと、アホな学問である。
学者に多少の良心でもあれば、気付くはず。

哲学には証明なんぞ出来ないと言うこと。
狂信、アナクロニズム、コンプレックス、人格障害、
それに基づく偏狭な主張が「証明」されまくっている。

そして、テツガクシャは自分自身をなにがしか「証明」し、
なにがしか知っている人間だと自負している。
さむい。

ソクラテスとかデカルトで、少しだけ尊敬できるところがあるとしたら、
知ったつもりになるより、知らないことを知った方がましだ、
と考えていたところである。
でも、やっぱり彼らもなんかおかしくなったけどね。

いまは、みんな信じてしまっている。


今日、テツガクシャの適性は「自分を信じることが出来る」、である。
おまえら、「自分を信じて信念を貫」いとけ。
死ぬまで。
[PR]
by lebendig | 2007-06-04 10:23