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哲学 跡目争い

中央公論に哲学がちょっとした特集を組まれている。
一つは木田元氏の哲学書紹介。
これは、まぁ穏当なところ。
しかし、学生時代に読みかけた本を、退職してから読み返そう、
といった、団塊世代向けの、ノスタルジックな紹介コーナー。
中央大学を退職してからの氏の問題意識は、まぁだいたい、いいところにあると思う。
だが、やはり今の哲学を生きる人ではない。
人生と青春の日々を振り返る、隠居哲学といったところか。

酷いのは野矢氏と筒井康隆の対談。
酷いのは野矢氏。
「対談」「ダイアローグ」ってわかっているのか?
アナクロな哲学をだらだら語ってるだけで、はずかしい。
おたくのなれのはてといった印象。
ちょっとでも哲学をわかった編集者なら、これはまずい!と何らかの手を打つような内容。
筒井の方が一生懸命話を合わせようとしてくれてるのに。

まぁ、野矢氏のアナクロ哲学では仕方がないか。
人選ミスだったということか。
しかし、よりによって。

それにしても、いまだに言語の人たちは自分たちだけでよりあって、盛り上がっていると思っているらしい。
浮世離れと言うより、人類社会から乖離である。
彼らの議論というのは、そもそも何のためにしているのか、全くわからない議論である。
ヴィトゲンシュタインとか持ち上げるが、あれは中途半端な「哲学者」で、
なんかもう流行らなくなってしまった。
20世紀の哲学者で陳腐化していないのはハイデッガーくらいか。

だが、言語の哲学を未だにやっている人たちは、勝手になんか盛り上がっている。
内側だけで。

しかし解せないのは、何で彼らは「哲学」を名乗ろうとするのか、である。
言語学、論理学、数学、なんでもいいから、そっちで一生懸命やっていればいいのである。
なにしろ、そういうことしかしないのだから。
哲学というのは、伝統的にも、世間一般の期待からしても、
人間の世界や存在への問いに答えるためのもの、
意味への問いであったのであり、それはやはり個々人の人生へと何らかの形でつながるべきものだ。

だから、哲学ということばは、特殊な一学問領域ではなく、
なにか根本的な、そして社会、時代を動かし、一人の生きる自己にとっても大きな意味を持つものだったのである。

そういう期待があって、哲学ということばに惹かれるまだ人が多いのだ。
しかし、言語のやってる人たちは、そんなのと全く違うことをやっている。
だが、哲学を名乗ろうとする。
いや、むしろ私たちのやってるのが「哲学」で、いまは哲学ってこうなんですよ、だって。

彼らは全く違うことやっているのだから、別に名前をつければいい。
そして学会も別に立ち上げればいい。

結局彼らは、「哲学」ということばに付随してきたイメージがほしいのである。
たとえば、学問、問い、その根源にある深奥の知恵、
あるいは、人間の最も深い知恵、人生の意味に答える、真の知恵。

まぁ、そんなもの全く考えてはいない彼らがである。
矛盾した態度。
哲学の跡目を継がしてもらって、代紋背負って肩で風切りたいのである。
幼稚だ。

学問は肩書きでするものではないし、
数学とか論理学とか言語学、そんな興味でやるならそっちを名乗ればよい。
彼らにとって「哲学」という語は如何なる意味を持っており、何故こだわるのか。

ところで、後継者なんているのか?
もちろん、世間じゃ、全く興味も関心もなーんにも持たれていないが。
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by lebendig | 2007-04-28 10:01

大木

大木の絵にしてみた。

最近は樹に触ったことのない子供も増えているらしい。
だが、樹というのは人間にとってあらゆる経験の原型である。
何しろ、今は地上を歩いたりしているが、つい最近まで木の上にいたのである。
五感は樹を基準にしているはずである。
もちろん、地上に降りてから多少の適応はしているだろうが。

たとえば、子どもの時から木に登ったりしていた人間ならばわかるはずだが、
足をかけてはいけない枝というのがある。
細いのはもちろん、中で枯れているような枝があるのだ。
そういう枝は、手で触ったり足でふれたりしたときの感覚が違う。
幹と共振しないのである。音も震動も。
その枝がどのような状態にあるのか、我々は音でわかるのだ。
古道具屋が陶器をコンコンとたたくが、あれも同じ。

そもそも、猿の聴覚は樹の響きを最も能く聞き分けるように発達している。
遠くの敵の声とかは副次的だ。
なにしろ、腐った枝を判別できなければ直ぐに死んでしまうから。
敵はにおいとか他のことでも大丈夫だろう。

ところで、その枝が幹にしっかりついているか、枝の先の方は枝や葉がついているか、
枝の震動・響きですべて判別する。
これが人間の聴覚の基本だろう。
すべて共振した状態に安心し、不協和音に不安を覚える。
それは、しっかりした枝を信頼し、腐った枝を忌避するためだ。

そんなところから人間の和音に対する感覚が成立している。
長調短調という所に感情が伴われるのである。
音だけで感動したり、興奮するのは「樹」が我々のふるさとだからだろう。
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by lebendig | 2007-04-01 17:50