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剽窃学生

最近レポート試験の採点が大変である。
むかしなら、手書きで書かれたレポートのたたずまいをみるだけで八割がた、点数を予想することができた。
しかし、最近は「コピペ」の嵐である。
ネットで拾った文書をくっつけて、申し訳程度に感想をくっつけて、レポートでござい、とでっかく名前を書いて提出してくる厚顔無恥が増えたのである。
全部ばれるぞ、と言っておいても、万が一、単位がもらえればラッキー、と提出してくる。
もちろん発覚したら、0点。
「引用」が異常に長い場合も不可。
しかし、ペナルティーは実質ゼロである。

教科、教員により評価基準は違い、正解を求める、情報を検索させる、ノートとっているか確かめる、とか、いろいろあるだろう。
私の場合は、レポートを書くときに、ほとんど使っていない頭をフル稼働して頭の体操してもらう、あるいは、問題意識をもって、自ら考えるということを体験してもらう、といったことだろうか。
もちろん、レポートは教育効果をもっていなければならない。
いずれにしても、自らの頭を使って書かなければ、効果なし。
さらにいえば、どうせ考えなくても単位とれるぜ、と思っていたら、授業全てが効果を失ってしまう。

と、いうことであれば、コピーアンドペーストのレポートはカンニングと同じである。
処分もカンニングと同じでなければならない。
つまり、同時期の試験全て不可である。
学生なんて留年させれば良いのである。
大学の収入も増えるし、反省もして、社会に出てからもなめたことしないだろう。
剽窃は不正であり、不正に対するに相当の対価を払うべきである。
そのうち、そういうことになってくるだろう。
もちろん、コピペ不可能なテーマのレポートを課すことも重要だ。

しかし、コピペレポートはだいたいにおいてテーマと変にずれている。
だから疑われ、検索して発覚する。
そんなことすぐにばれる、といっているのに、馬鹿である。
こっちとら、インターネットが存在するようになってすぐにネット始めていて、アホほど検索してきたんだから、赤子の手をひねるようなもんだ。
大学のネットが遅すぎてネットスケープが止まった状態なもんだから、そのまんま「ネットカフェ」という名のネットカフェの会員になったりしたが(全国で2番目くらいだっけこれ?)、やはりむちゃくちゃ遅くて。
結局、研究とかには当時全く使えていなかった。
そんなときから、ヤフーで検索していたのである。
検索結果が出てくる間、論文を書いていたりしたのである。
そんな私が、アホ学生の窃盗レポートなんぞ、、、

と、今回は時間がかかってきた。
検索にヒットしずらいのである。
そういうところを狙っているのだろうか?
馬鹿な学生は、ウィキからコピーしてくる。
そしてそれをつぎはぎして、もう、意味不明の文である。
こういうのは文ではない。

それより、今回はハッピーキャンパスなるものを発見した。
全国の学生がレポートや論文を「共有」するサイトだという。
会員登録とポイントの支払いが伴うため、いったいどんなレポートがあるのか検索できない。
また、ここから買ったレポートを提出しても、一応、「剽窃」ではない。
しかし、教育効果ゼロである。

こんなものを公に作って、馬鹿を増やしてどうなる、ハッピーキャンパスのハッピーって、おめでたい、という意味なのか?と憤っていた。
ついでにやっぱりネットでググったり、ヤフったり?してみると、同じ悩みの同業者のブログがたくさん。

このハッピーキャンパスは元々韓国の企業で、その韓国で2百万、ついで上陸した中国で百万の利用者があると言っている。
一昨年から日本に来ているらしい。

来んな、バカ。


韓国、中国、と剽窃、盗作についての倫理なんぞない国ならいざしらず、正直、直き心、清く赤き心のこの蜻蛉洲がこんな下らんものに汚染されるとは情けない。
最初の授業で、勉強しないで単位が取れたら、お前ら損なんだよそれは、喜んでいるやつはおめでたいやつだ、といっておいたのだが、やつら、平然とコピペしてくる。
おそらく、このハッピーキャンパスでハッピーになっているやつもいるはずだ。

韓国といえば事大主義の国。
強いものに言い寄ってすり寄って、たかって、下のものからかすめ取り搾り取る。
強い「立場」になるためなら、主旨とか意義とかほっといて、何でもやるのだ。
携帯電話による入試集団カンニング事件はまだ旧聞に属するところではない。
こんな国になったのは、やはり通ごくの属国としての歴史が長過ぎたためだろう。
彼らには絶対的な強者が他者として存在することが必要なのだ。
自らの生き方を自分で決めるなんてことはしてきたことがなかった。
常に基準になる国があったので、それに受け入れられれば良し、だめならバツ。
試験は受かりさえすれば良い。教育効果とか、自分のため、とか、そういう「意義」とか「主旨」とかは、どうでもいい。
これが韓国の伝統であった。
もちろん、中国の科挙の歴史なんてのもカンニングの歴史であって、韓国だけの問題では内面もある。

しかし、こんな恥知らずな企業が存在し得ることに驚きである。
日本では、むろん、日本人の手によってこんな企画が立てられることはないだろう。
こんなのは、日本では抹殺すべきである。

しかし、ある程度放置しておくのもいいかもしれない。
登録者数で現在の日本の民度が測れる。


今後剽窃、共有、売買はカンニングと同様とあらゆる大学の学則に明記されねばならない時代が来るだろう。
馬鹿な時代である。

昔の日本では、こんなことは絶対にあり得なかったはず。
学生、というのも改称して盗生とかにすればよい。
いや、生きちゃあいないから、盗骸とかにすればよい。

Wahrhaftigkeitだよね。
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by LEBENDIG | 2006-08-29 23:27

哲学と靖国

西田幾多郎は鎌倉で近衛文麿の訪問を受けていたという。
当時は「哲学者」が買いかぶられていたのだろう。
しかし、妄想や幻想が取り除かれた今の感覚で考えると、信じがたいことである。
西田幾多郎と言えば、歴史の教科書に必ず登場する評価の定まった哲学者という感じだが、しかし、じゃあ今、西田をアクチュアルな哲学者として研究している者があるかというと、そんなやつはいない、ということになる。
もちろん、アナクロな連中というのは学問の世界にはかならず端っこのほうに群れて、自分たちワールドを作っているもので、これもいます。
しかし、そういう人たちだけのためのヒーローでしかない。

アナクロニズムな骨董趣味の哲学研究者というのが何の役にも立たず、現実との乖離を前提として生きる寄生虫みたいなもので、ひどいものである。そりゃあ哲学のポストも全国的にどんどん減っている現実もうなずけるというものだ。
哲学の学会の内部では、ヨーロッパの哲学史のあらゆる時代の代表的な哲学者の全てにそれぞれ専門家が十分いることが望ましいと考えられている。
そして、日本哲学界などでも例えば、古代、中世、近世(英/独仏)、現代(英/仏独)みたいな、大きなくくりを作って、それぞれに発表者のわくみたいなのをこしらえて発表させている。
しかし、ちょっと待て、といいたい。当然。
なんでそんな者が必要なのか、と。
確かに哲学は歴史を学ばずには議論の文脈さえわからない学問である。
しかし、これまで相当に研究がなされていて、もうほじくってもしょうがない。
また、日本の中に全部そろえておく必要も無い。
日本の中に西洋哲学史の小宇宙でも作る気なのかといいたい。
しかし、実際には、もう研究者が減ってきてしまって、発表のレベルも最近ではドクター、オーバードクターの発表がマスターレベルに落ち込んでいる。
まぁ、おそらくこの調子で行くと、十年後には代表的な大きな学会も無くなってしまうかもしれない。
実際、学会で若手をみることが少なくなった。
哲学自体が西洋哲学を必然的に要求しなくなったこと、団塊の世代の辛気くさい研究が全く魅力なく、若者にウザがられているということ、これが大きな要因だろう。

いずれにしても、今日の「問い」がなければならない。
そしてそれは、西洋哲学の歴史、これが根本から否定されねばならないのではないのか?というものなのだ。
東洋の思考を無理からに西洋哲学的思弁、偏った「論理」的思考に接いで書かれた西田の著作なんてのは、今日では本質からひっくり返されなければならない。
非西洋の思考の立場から、哲学的思考を批判し相対化する、これならばGJである。
その逆は、おはなしにならない。
もっともいらない哲学である。
学問がヨーロッパ的な作法で表現されねばならない、という強迫観念は、しかし、いまだ強固なものである。

ところで、靖国神社も同じようなものである。
神仏混淆であった江戸の宗教は、神道も仏教も無い。ごちゃ混ぜである。
神道と仏教、その他諸々の神々、霊魂、これらが同じ世界に住んでいた。
この混沌の世界が現実と観念的世界をグニャグニャグニャッと接続していた。
もちろん、胡散臭い宗教である。
しかし、だからこそ、彼らは現実的であったのだろう。
純粋な原理的宗教が荒唐無稽なあの世を大まじめに信じるのとは違っていた。
だからこそ、この世に生きることを彼らは慈しみ、生きて出会いがあることをかけがえの無いこととして大切にしていた。
オカルト的妄想の世界の人々がいとも簡単に大量虐殺をしてしまうのとは対照的である。
イスラエルが無差別に小学校に爆弾を落としてこどもを殺害したり、水道、電力などのライフラインを破壊するのは、そんなところから理解できる。
これに抵抗する人々が彼らと同じ純粋な原理的宗教へと向かっていくのは、しかし、由々しいことである。
どんな宗教を信じている人間でも、小さいこどもが無惨に殺されていくことに、意義を与えることなどできない。
それを悲しまない人間がいるだろうか。
ユダヤ人はパレスチナ人のこどもが無惨に死ぬ姿を見て、どう思うのだろうか。
もしかしたら、おぞましいことを考えているかもしれない。

明治に入って行われた廃仏毀釈に寄って、神仏混淆の歴史が無理矢理に終焉させられた。
そして神道をキリスト教のような者に改造しようとしたらしい。
しかし、神道なんてものは西洋における宗教の概念とは別のところにあるだ。
というか、ヨーロッパの宗教はきわめて特殊な、オカルト宗教であり、洗脳、信者拡大のための宗教である。だから、広がったのだ。こんな恐ろしい者のようにするためになにがおこなわれたのか?

天皇が神である、としていたが、しかし、「神」とはなにか?
これが重要だ。
しかし、これは西洋的解釈により、オカルト的な神と解釈された。
人間宣言しなければならなかったのはそのせいである。

明治に入って作られていったオカルト国家神道は、死んだ者を全部神として祀るという、瞠目すべき長州の土着宗教を取り入れ、靖国神社とした。
もちろん、そんな神道、明治になるまであった試しは無い。
怨念を沈める、あるいは、大きな徳をなした者を顕彰するための神社はある。
天神様や天草の鈴木神社とかだ。

家康が祀られている東照宮、これ信仰する人いるんでしょうか?
江戸時代はいたと思いますが。
まさに靖国神社は現代の東照宮。
政治的な都合で作られた、訳の分からない宗教。
信じて死んだ人はあまりにもかわいそうである。
だから、靖国はきちんと国家の意思でつぶして、インチキ宗教信じさせて死んだ人たちに詫びなければならない。
東照宮は、そんな罪はおかしてない。
オウム真理教は犠牲者がずいぶんいるが、靖国神社の数百万人と言うのとは5〜6桁違う。
信じて死んだ人のため参拝しなければ、って、信じさせたんだから信じていたのは当たり前。
彼らの自由意志で選択した宗教ではないのである。
しかも、不誠実なインチキ宗教だ。
これを、「日本人の宗教観はぁっ、」と口角泡飛ばし、口をとんがらせて主張している輩は全然わかっていないのだろうか。
オウムを信じて死んだ信者を弔うのに、オウム式で上九一色で行うのと同じ意味を持っている。

無理からに国家の宗教をつくれば、西洋の列強みたいな国になってかっこいいとかおもったのだろう。
明治政府の馬鹿どもは田舎から出てきて、何にもわからなかったのかもしれないが、ほんとにひどい。
わかっていたのは、大量殺戮した者が勝つ、ということ。
人間性を売り渡して手にした勝利だ。

良くこんなことを言う馬鹿がいる。
やり方とか、思想はともかく、明治維新がなければ日本が滅びていた、と。
第二次大戦と全く同じ理屈。
そりゃそうである、だいたい同じ連中が、同じ理屈を後から付けて自己正当化したのだから。
しかし、だまされてはいけない。
どうやって日本が滅んだのか。具体的になんかあるのか?
妄想である。いや、作り話である。
しかし、何十年も政府がごり押ししてきたこのレジティマシーは、糞であるが、長過ぎた。
あんまり、長く言い続けていると、本当に信じるやつばかりになる。
私は嫌いだがすきな者の多い司馬遼太郎とか、その辺の連中も信じきっている。

しかし、だ。
日本は滅んだ。
敗戦によってではない。
明治維新のとき、本当に日本の尊い歴史と文化が破壊され、残すべきものが死んだのである。
明治からこのかた日本人が本当の最低民族になったのはなぜか?あんなに尊敬すべき人間が社会の上からしたまで、犯罪者でさえ人格者であった国であったのに。
今では、警官、学者、教師、さらには僧侶、神官までも、そして政治家に関してはもはや当然、犯罪者であり、尊敬とは最も遠い民族と化したのである。
こどもたち、子孫に残すべきであったのは何か?
馬鹿が天皇担いでやりたい放題なことやって、(仕舞には天皇を暗殺)、この下品な情けない国となった。
最近靖国とか担いでいる連中、昭和天皇の本音が暴露されると、こう言った。
人格としての天皇とかは問題じゃない、と。
これは、明治新政府の連中とおんなじ考えである。
天皇なんざぁどうでもよい。しかし、これを握っていると何でも許されるのだから、担ぐのだ、と。
ひどいやつらだ。
そして天皇に洋服を着せたのである。

これは明治以来の哲学者たちも同じである。
同罪である。
もちろん、いまだに西洋文明が滅びかけているのを認識しない哲学者は、横のものを縦にして得意げで、目も当てられない状態のままで、靖国神社のことなんざぁ、チンプンカンプンだろう。
ばかが。

馬鹿だねー。
もう日本も地球もおわりだね。
物が分かっている人間、いや、人間がいないのだ。もう。
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by lebendig | 2006-08-24 00:01

「靖国神社」よ、さらば。

明日、終戦の日、靖国神社に参るか参らぬかでテレビが騒いでいる。
中国と韓国(だけだが)も騒ぐつもりらしい。
だが、このあほらしい騒ぎも、あと10年もすれば消えてなくなるはずである。
問題が解決するからではない。
騒ぐ人間がいなくなるからだ。

かといって、それは戦争を知らないだけでなく、全く関心のない、「不届き」な若者だらけになるからではない。
靖国神社に英霊が集っていると思う人が死に絶えるからである。

少し頭を冷やせばわかることである。
そんなオカルトは、本当に気休めにしかすぎない。
人間死んだら無である。
だから、人間の生はこの上なく尊いのだ。

だが、その尊い命をむなしく投げ出した人々があった。
その友人や家族は、そんなむなしい話を信じたくはない。
だから、未だに「靖国神社」を信じている。いや、信じたい、だから、信じるのである。
それは悲しい人間のこころだ。

靖国神社は長州軍、帝国陸軍がご都合で作り出した新興宗教である。
麻原彰晃の宗教と同じく、旧来の宗教の信用と威を借りて未だに活動している。
はっきり言えば、全部嘘宗教である。
神道に価値があるとすれば、それは古代の人々の世界観であったからだ。
現代人がすぐにでも理解し信仰できるような、そんなものは神道ではない。
古代仏教に似せて作られたオウム真理教と全く同じ代物である。

オウム真理教に殉じ、生を失った人々が多くいた。
オウム内部でも相当死んでいる。
彼らの死を無駄死と思いたくない人々も多くいるだろう。
彼らはそれゆえにいっそうオウムから離れられなくなる。
しかし、我々はその信者を受け入れられるだろうか。
問題は靖国神社も全く同じである。

ただし、靖国神社のオカルト宗教のマインドコントロールは、国家を挙げて行われたのだからなかなか解けない。
戦争に悔いを残した人までも、「靖国神社」に頭を下げに「参る」始末である。
英霊になるという嘘話と引き換えに、多くの若者が死んだ。
もちろん、真っ赤な嘘宗教だから、「英霊」なんてオカルトな霊魂は存在しない。
本当にひどい話だ。
本当に腹を立てている人がいる。
しかし、この嘘話、でも、信じていれば存在すると思ってしまう、思考の弱い(いやもしかしたら優しいのか?)ひとがたくさんいて、最近は再生産しようとしている。

古書店で大変古い戦争の写真を見たことがある。
今の若者よりずっと幼い(純朴な)顔をした少年兵の亡骸が、南洋の小島の浜辺に延々と横たわっていた。
砂に半分埋もれ、眠るように目を閉じていた。
あるいは東京大空襲直後の市街の写真。
手足を屈折させ、真っ黒にこげてしまった遺体がごろごろ道ばたに転がっている。

彼らはその死と引き換えに、宗教的、オカルト的な報いを受けたというのか?
彼らはただ死んで無になっただけである。
残された身内や友人が、霊魂が英霊に格上げになって、長州神社に来ているとか騒いでいる。
滑稽を通り越して、悲しい光景である。
血を流し、こげていく断末魔の苦しみが、彼らの存在の最後の瞬間であった。
その苦しみに応じて、死後になにか得られたなどということは全くない。

最近の産經新聞的論調の論理はあほくさい。

東京裁判は不当である。
故にA級戦犯なるものは受け入れがたい。
したがって、A級戦犯ということでもって靖国に祀られないのはおかしい。
かつ、これは宗教の問題だから、外国が何か文句を言うのは内政干渉。
それ以前に、神道についての無理解が軍国主義復活という倒錯的反論を生んでいる。
こんなところだろう……

この主張の根底には、マッチョにメンチきるのが独立国家の証し、と思っている、幼稚な心理がある。
安倍とかのナイーブさはそこにある。
ほとんど亀田兄弟、というよりその親父。
その幼稚な心理に上の5行の理屈がくっついて、まんま信じた馬鹿が全く同じことを言っている。
これは知性を測る物差しである。

1番目の東京裁判が不当とか言っているが、もちろんフェアーではない。
この理屈にも、後知恵があって、それこそフェアーでない部分があるが、まぁそのくらいは許そう。
しかし、A級戦犯は不当裁判によるものだ、という理由で、A級戦犯を宣告された人々がイノセントであったということにはならない。
彼らは幼い幼いこども、死ぬには若すぎる若者、そして、無数の人間の未来と自分たちの野望
を秤にかけた。そしてあまりに惨めな、無数の死をもたらした。
彼らは、それが「仕方がない」から、無罪だと考えた。
しかし、国民にとってはそれが死よりも重い罪であるはずだ。

また、神道は悪人でも祀るとか言っている馬鹿がいる。
日本のどこに悪人神社があるのか。
あるのはたたりを恐れて祀られた神社である。
怨念。これが日本の神道を理解するためのキーワードだ。
東条なんかは、逆に何百万という人間の怨念の対象だから、
彼が、自ら死なせた人々の怨念を沈めるための、死者を祭神とする神社でもたてれば良かったのだ。
なぜ怨念が残るのか。
東条の怨念なんてのは聞いたことがない。

論理も不完全で、神道の知識も中途半端。
馬鹿がとびつく論理だ。
しかし、大挙してとびつくとは日本人も情けない。

日本を守ると言って、彼らは何を守ったのか。
国民の命と人生だろうか?
彼らは日本国が、それとは別のところにあると考えていた。
彼らの妄想的野心こそが「日本国」だったのだろう。

幼いこどもの命を守り、助け合い、かけがえのない瞬間を共有していく。
それ以上に大切なことはあるのか?
皆死に、無になる命である。
油が多少足りなくたって、人間は幸福に生きることができる。
原始人であろうと、古代人であろうと、小さいこどもの世話をして、その成長を見守ることができれば、幸せである。
人間が生きるところ、全てに、その幸せがある。
貧しくとも、暑くとも、凍えてもだ。

この唯一のものと、勝手な妄想を引き換えにした馬鹿がいたのである。
言ってしまえば帝国陸軍である。
彼らの思考は、常にある程度死んでもかまわない、という前提のもとで動いていた。
いや、全部死んでもいいと。
靖国にきて魂のランクアップがあるから大丈夫、だと。

本当にそんなこと信じていたら、秋田の殺人犯と同じである。
自分がついた嘘(宗教)を自分で信じてしまっていたのだ。
いや、もしかしたら、うそっぱちとわかっていたなら、最低だろう。
その歴史や文化を尊重もしていない天皇を担いで、やりたい放題やってきた長州軍の最後がかれらだ.

東条英機そっくりのおばあさんがでてきて、言いたい放題言っている。
だがやはり東条は南部の面汚しである。(靖国の宮司になった南部の殿様もだが。)
捕虜になれば全うできた命を、東条のせいでむなしく投げ出した若者が何万人いたのか。
孫は自分たちの苦労話ばっかりやっているが、両親の死んだこどもが孤児としてどんな人生送ってきたのか知っているのだろうか。
恥知らずである。

いまだ妄想の宗教と国家を信じ、人間の生の儚さを知らないバカが多すぎだ。
明治維新以来、日本は最低国家になって、人間が何かも忘れたのだ。

それにしても、東条の切腹失敗は噴飯ものだ。
頸動脈きるか、介錯させれば確実である。
人は軽く殺しても、自分の命は惜しいのだろう。
しかし、そんな器量の人間でなければ、あんな馬鹿は続けられなかっただろう。


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by lebendig | 2006-08-15 01:05