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「意味」?

意味という言葉がわからない。
どうやって定義しようとも、トートロジーになってしまったり、恣意的であったり、あるいは、勝手な議論の文脈の中で定義されたりする。
しかし、これは人間存在にとって根本的なものだろう。
副次的に定義されるようなものではあり得ない。
恣意的に定義される「意味」は意味ではない。

ドイツ語のSinn(意味)は、語源的には道みたいなものに辿り着くという。
わからん。これはこの語の根元的なものを示唆はしていないだろう。
では漢語である、意・味はどうか。
意はやはり意識、意図の意であり、意思、意志を意味している。
大和言葉では「こころ」と読む。
この内容(味)が意味である。

この意から見えるのは、人間の存在であり、その主体的な意志だろう。
意味を問うというのは、意味を認める人間を問うことであり、結局はその意味を意図し意志する人間を問うということだ。
人間から離れても意味が成立するというのは、ある意味アニミズムである。

目的論的、あるいは神学的な「意味」を持った「知」の解釈から離れ、客観的な知という発想が、今日につながる近代思想を形成している。
しかし、今日では、「客観的」を標榜していた「知」が、非常に特殊な「意図」を含んでいたことは様々な形で明らかになっている。
現代社会を形成した「客観的」な学問は、しかし、「生産力の増大」という「目的」に関する「合理的」な「知」であって、その合理性はこの目的から離れて「客観的」であることはできない。
客観的などという知はなかったし、知は常に目的、意味、意図から離れて成立したことはなかったのである。

であるなら、我々の知の探究は目的、意味を明確に自覚するところから出発しなければならない。
「客観的」を標榜する詐欺的な学問に右往左往させられている時間は残されているのか。
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by lebendig | 2006-01-03 00:00