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哲学の最新動向

学問の流儀は、その学問に応じて様々ある。
しかし、基本的に最新の動向に通じておく事が必要である。
なぜなら、ほとんどの場合、「新しい」ということが業績の唯一の基準だからである。
新しい、珍しい、これは現代を特徴づける形容詞である。
これが学問の価値である。
もちろん、必要も無く必然性も無く、そんなものでも、この形容詞により学問的な価値が創造されてしまう。

ところで、我々はそんなに「あたらしい」ものを必要としているのか。
たしかにそうかもしれない。
「あたらしい」ものがなければ、我々は退屈で死んでしまうかもしれない。
死んだ方がいいかもしれない。
様々な学問がひねり出す最新の学問的業績は、ほとんど不必要である。
何の為に?人が生きる為にである。
その最新の業績がぜひとも人類社会に必要であるというのであるなら、それが無かった昨日までの人類社会は否定されてしまう。
江戸時代、古代、全部否定。
そこに生きる人々否定。
彼らは価値のない文化社会のうちに生きていた。
価値ある為には、現代まで待たなければならなかった、ということになろう。

結局、今ある学問は全部不要という事だ。


しかし、これとは違う流儀の学問がある。
哲学である。
何しろ、二千年以上前の人間の言行録を未だに読んでいる人がいる学問である。
最新の、といっても、最新なんてもの自体あり得ない。

所がである。最新の哲学が最前の哲学、と倒錯した信条を以て議論を始める輩があるのである。
2千年以上進歩していないものが、ひと月、半年、一年でかわるはずが無いのである。
しかし、哲学の世界にも最新流行が好きな御仁が多数いる。
横に書いてあるあたらしいい論文を読む事を、イコール哲学と考える人が多いのである。
そんなアホな事は無い。

我々は、自分たちの時代が特別だと考えてしまう。
今議論されているその哲学説が、これまでの二千年以上の歴史の究極的な到達点だと勘違いしてしまうのである。
しかし、二三十年すればそれが二千年以上の歴史の中で掃いて捨てるほどあった雑魚論文の一つにしかすぎなかった事がわかってくる。
しかし、わかったときには既に遅し。
人生の数十年、青春のすべてを費やした日々、それらが虚しくなってしまうのである。
あとは、自分をごまかしながら、まぁよかったのではないか、とかいいながら一生を終える。
ほとんどの哲学者の一生はそんなもんだ。
もちろん、死ぬまで気づかぬ者いる。

哲学の最新動向。
言ってしまえば、二千年以上、変わりなし、ということになる。
表面的にはいくらでもかわる。
かえればいいと思っているからかわる。

だがしかし、我々が欲しいのは、本当の、真実の「こたえ」だ。
それが何か、全くわからない。
偽りの自己満足、マスターベーション、欺瞞、倒錯ではない。
「哲学」とか「思想」を鑑賞の対象にして味わったりする事を目的としている人もいる。
そういう勘違いが腐らせていく。
あたらし物好きも同じ。

人類文明開闢以来、実際には何にもかわっていない。
何もかわらず、我々は生きている。
死んでいく。
それは趣味の「哲学」の鑑賞対象ではない。
我々自身である。
我々自身の無。
そこへとすべてが向かっている。
手段が目的と化したのか、そもそも無目的なのか、腐れ哲学の最新動向など、全く無意味。
ワイドショーで芸能界の最新動向でも見ていた方がまともである。
なぜなら、それを見ている人は自分が何を見ているか自覚があるからだ。
「テツガク」は自覚さえ無い。

洞窟にでも籠って、思索の必然に従っていた方がましである。
30年くらい。
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by lebendig | 2005-09-08 22:36

その後

グーグルはあんまりブログの中身までは読み込んでいないようである。
検索しても引っかからない。
やはり、タイトルが問題だろう。

タイトルに副題をつけよう。

「哲学の最期」ということでは表現できていないニュアンスを、副題において「適切」なことばにする。
これで、二つの目的を達成する。

という訳で、タイトルを「哲学の最期 <新しい知を求め、旧い知を往生させる。>」としました。
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by lebendig | 2005-09-02 07:47