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公開?(再考)

このブログである。

公開は公開であるが、読む事を望む人がいて、初めて「公開」という言葉を使う事ができるのではないか?
だいぶ前に書いたように、このブログは2つの面から「公開」の要件を満たしていない。
第一に、存在をほとんど知る人がいない。
第二に、読む事が望まれていない。(第一を満たしてなければ当然だが。)

もちろん、満たしている条件もある。
第一に、誰でもアクセス可能である。
第二に、、、、は無い。


我々が「公開」ということで思いつくのは、例えば「公開処刑」。
北朝鮮、中国ではいまだなされていると聞く。
以前は、アフガニスタンにおけるタリバンによるその映像が「公開」されて、物議をかもした。(物議というか、反感か。)
この「公開」は、見たいものに見せる、という意味と、見せつける、という意味がある。
もちろん、見たくない者は目をつむれば見ないですむ。
しかし、「公開」という形で処刑がなされる、ということは、目をつむって関わらずにすますことを許さない。
その場に近づかず、耳を塞げばなかったことになるものではない。
私が見なくとも、様々な人が見ているのである。

処刑と処刑される人が見られる。
その場に居合わせる人々は、処刑する側に加担している事になる。
好奇の目で見たり、あるいは辱めるために見る、処刑に溜飲を下げるものがいる事を見せつける。見るという行為は、視覚情報を得るというだけではなく、社会的、文化的な様々な意味を持っている。
また、処刑される側に回る場合もある。
処刑される者に同情、共感があるならば、見る事によって精神的にはダメージを負うであろう。

これは極端なケースであるが、しかし、あらゆる「公開」にも同じ側面がある。

インターネットのメジャーな掲示板で名前や住所などの情報が「晒され」たりする。
それは、その情報を悪用する誰かに対する情報提供であり、晒された者はそのリスクを負う。
このことが通常問題視される。

しかし、それは実は重要ではない。
今日、個人情報など垂れ流し状態であり、本当の悪用は別の情報源からなされるだろう。
晒す目的は、晒すこと自体である。
先ほどの公開処刑と同じである。
見られる事、見られ得る事、それは精神的にダメージだと言ってよいだろう。

社会的な意味を持つ犯罪に対して、我が国においても「さらす」ことがなされた。
「市中引き回し」の上「獄門」である。
それは「死」ではなく、「死」をさらされる事が「刑」になっている。
社会的犯罪に対しては社会的な刑でもって処するのである。
逆に切腹は刑でありながらも社会的には名誉である。
しかし、その社会的制裁の側面が「官軍」によって悪用されたりした。
楢山佐渡は斬首刑ではなく切腹を求めた。
会津藩士の躯はなぜさらされたのか。
このような仕打ちは文化的・社会的に許されるものではなく、百年以上の社会的な恨みを残す事になった。

本題にかえる。
このブログが公開であるか否か、ということについて、一つの疑問が生ずる。
そもそも「誰」が、という事を明らかにしていないこのブログは、たとえ一万人が見たとしても、「公開」ではない。
「私」は晒されていない。
まぁ、それを逃げている、と言ってもいいかもしれないが、私と言う人間が負っている社会的・文化的な制約から自由になることが必要なのだ。
言っている事それ自体を問題にしてもらいたい、というのもあるし、それ以外のところから批判反論されても意味が無い、だから、それ以外の情報を出さない、というのもある。


しかし、公開ではない仕方で、しかし、多くの人の目にさらされたい、という希望もある。
試されたいのである。
もちろん好悪ではなく、真剣に、シリアスに。

まぁ、その方法もあることはあるだろう。
一つは、検索に引っかかりやすいキーワードをたくさん入れるという事だ。
今、どのようなキーワードによる検索が最も多いか、なんてのはすぐ調べられる。
もちろん、関係ないキーワードをたくさん埋め込んでおいても、興味の無い人がカウンターをまわすだけ。
そこを考えて何か入れておく必要があるだろう。

たとえば、韓流、地球温暖化、レクサス、亀井静香、マジレンジャー、iPod、リタリン、ピアノマン、立川談志、釣りバカ、愛知万博、TX、スターウォーズ、ブルーレイ、ほりえもん、ジーコ、阪神、テポドン、ジンギスカン、スープカレー、ブログ、CSR、東海地震、ハイアール、ガザ、曙、マツケン、ワールドカップ、石綿、ゴミ屋敷、ムシキング、、、こういうのはだめである。(これでヒットしてきた人、申し訳ない。)

そうでなくて、哲学、思想、倫理、近代、学問、大学、、、、いや、こんな単語はいくらでもヒットする。これに組み合わされる特殊な単語が必要なのだ。
しかし、ない。
なぜなら、新しい思想の模索はもはや哲学ではないし、同じく求める人もほとんどなし。
しからば、やはり、多少は偽って、無理矢理読んでもらうしか「公開」の手は無い。

もうしわけないが、やはり、無料、激安、即Get、儲かる、匿名、裏、マル秘、お宝、治った、ご利益、効く、萌え、通販、バーゲン、最新、確実、、、、こんな事も必要かもしれない。

もうすこし類縁性のあるところで、ムー大陸、UFO、オーパーツ、幽体離脱、前世、生まれ変わり、予知、予言、終末、最後の審判、黙示録、預言、地球外、宇宙人、地球人、宇宙船、異次元、四次元、怨霊、予知夢、心霊、、、、やれやれ。

まぁ、否定さるべきものばかりが、ヒットしやすいキーワードなのだった。

(ブログのタイトルの頭に「萌える」とかつけるのが一番いいのか。。。。。)
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by lebendig | 2005-08-30 00:52

金のひしゃく

ライフログに入れておいた。
内容は前出の「満州の星くずと散った子供たちの遺書—新京敷島地区難民収容所の孤児たち 」におさめられている話を絵本にしたもの。実話。
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2004/08/post_142.html
参照。
櫻井氏の結論に異論あり。
すでに書いているからことさらここで言う必要はない。

在庫がないというので、推薦者の厚生労働省に注文を付けておいた。
貴重なご意見ありがとうございます、とメールが来た。

厚労省は年度末の余った予算は、この本の購入にまわしてほしい。
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by lebendig | 2005-08-28 03:23

哲学/テツガク/てつがく

哲学には三つある。
哲学といっても、自称「哲学」であるが。

一つは、自分がもう既に信じている「世界観」の正しさを訴えるもの。
まぁ、実際にはこればっかりが多い。
どこかの哲学者の説を自分なりのイメージでとらえて、これを一所懸命アピールします。
最近、若者が駅前でへたなギターをがしゃがしゃかき鳴らし、ただでかいだけの声でがなり立てていますが、それと同じ。
俺ってすごい、と、言われたいのか。

一つは、自分の信じる「方法」の正しさを一所懸命訴えるもの。
これは前者に近い。きわめて近い。
たとえば現象学とか分析哲学とか、まぁほかにもあると思います。
これは、一瞬、学問としてOKではないか、と思ってしまう。
しかし、絶対に違う。
虚心坦懐に正しい方法を探求する、というのであるならば、少しはまし。
しかし、そんな事ない。
彼らはその方法が正しい事を前提しています。
その上でそれが正しい事を主張する。
こういうのは論点先取と言ってもいいのかもしれない。
詳しく検討して、正しくない、という論文が出てきたためしはない。

この「方法」を論ずる哲学の決定的な欠陥がある。
それは、その「方法」で「真理」に到達できる(あるいは、してしまった)、と考えているところ。
なにがしか、とにかくすばらしい知が得られる(あるいは得てしまった)。
そんな事あるわけないって。
でも、信じているのである。
厳密だとか合理的だとか、まぁ、いろんな形容詞が出てきますが、とにかく、すばらしい、ほかの知とはレベルの違うものが得られるというのです。

しかし、おさるさんに数本毛が生えた、不遜でみにくい獣が、そんなたいそうな「能力」を持っているわけないでしょうが。よく考えたら。
神の似姿、万物の霊長、これ人間中心主義って言うのでしょうか。
中心というか、まぁ、幼稚な勘違い。
「ぼくのパパは世界一」、というのと同じ。
小さい子供なら、無邪気で愛おしい。
しかし、これが大人なら、最悪。
自分の大好きな結論を証明したい、では学問ではない。
逆に、自己否定こそが本当の道ではないか。

まぁ、方法というものは目的あっての事。
その目的自体が見当はずれであれば、方法も手段もへったくれも無い。
ということで、目的自体を見当していないこの哲学は、テツガクである。

最後に、これ以外で、かつ、そもそも何が重要であるのかを探求する哲学、これがあるべき学問の姿であろう。
いかなる結論であろうとも、自分の嫌いな、信じたくない、己の列島を明らかにする、何の利益ももたらさない、コンプレックスを刺激する、そんな結論であっても、受け入れる、そういう覚悟の上で初めて本来の探求はなされ得る。
自分大好きの幼稚な人格には耐えられないだろう。
自己を捨てる、そこからはじめて何かが始まる。

人格の陶冶をせず、へりくつに磨きをかける今日の哲学はごみためみたいなものだ。
哲学やってる人間に、すばらしい人はいるか?(まぁ、そんな人今時どこにもいなくなったが。)
もちろん、自分に都合の良い人のことではなく。

本当の知を得るには、本当の知を求めるところから始めなければならない。
求めてもいないものが手に入るはずが無いのだ。
いまテツガク者たちが手に入れている知は、そのテツガク者たちにふさわしいものである。
本当の何かを得るには、己が本当にならねばならない。
そこから始まる。
そしてそれは自己否定から始まらなければならない。
自己肯定のために延々とへりくつを繰り出す今日のテツガクは、、、
まぁ、言わなくても明らかだ。
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by lebendig | 2005-08-27 21:33

自然が先か哲学が先か

何の順か?
滅びる順である。
いや、もちろん哲学は既に死んでいる。
しかし、テツガクは死んでいない。

このままであると、自然の方が先に滅びるだろう。
あわれなテツガク者を残して地球は死ぬ。
よく考えれば、テツガク者が殺したも同然だが。


万が一、テツガクが先に滅びるならば、
つまり、哲学の死が自覚されれば、
すなわち、人間が自らの妄想に気づくならば、
自然は死なないかもしれない。

しかし、やはり、自然はもう既に死の運命にあると認めねばならない。
大規模な気候変動は確実に予想されている。
ただ、我々はその影響に対してあまりに楽観的なだけである。


人間があまりにも情けない存在であったと気づくということ。
できれば見たくないものをみるということ。
運命と自然をなめきった猿、いやそれ以下の獣が、己の姿におののくということ。
悲劇であろうか、喜劇であろうか。

運命に対して力なく滅びる我々。
このような壮大な、決定的な、絶対的な瞬間に我々は臨もうとしている。
これまで、地球上のいかなる生物もみた事のない瞬間である。
たいした見物だろう。

自分だけ、関係がなければ。
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by lebendig | 2005-08-26 00:21

古の人々の魂が再び…

半世紀前の戦争からも明らかなように、死んだ者はその歴史から消去される。
儚く、無惨に露と消えた無名の人々の、彼ら自身の死、それは消去された。
残された者の悲しみ、恨み、それだけが残っている。
だが、あまりに無惨に命を落とした人々の、その無念な最期の生の瞬間、これは真実であり、事実であった。
いや、永遠に真実である。
誰も記憶しなくなったとしても、いや、していないとしても、確かにあったこと、その事に変わりはない。

これまでの歴史の中で、無惨に命を失った人々は数限りない。
彼らは、しかし、消えるべき人々であったのか。
生き残った者は善で、消えた者は悪であったのか。
そのような事は当然あり得ない。
いや、むしろ滅ぼしたものには義がない。
だが、その後ろめたさは滅ぼされた人々の不在、無力によって、念入りに隠蔽されていくのである。

勝ち残り、あるいは生き残り、後ろめたさに偽りの正義の物語でフタをしてきた人々、それは、実は我々自身でもある。
我々を育んできたものは、勝ち残り、生き残ったものであり、それが作り出してきた作り話である。
我々自身が倒錯した偽善なのである。


だが、今、このように勝ち残ってきたもの、生き残ってきたもの、これらがその限界に来ている。
すべても物事には限界がある。
偽りも極限までくれば、その偽り自身、己を偽りとして示す時が来る。
それが今である。
百五十年間偽り続けた「新政府」とその文化が破綻しつつある。
あるいは、二千年以上偽り続けた文明が、その限界で、自らの偽りを示しつつある。

だが、「正義」が馬脚を現すとき、逆に、滅ぼされたものたちの正義がよみがえる。
滅んだものの正義が、滅ぼしたものの不正義の暴露によって生き返る。
正しくも義ある彼らの魂がよみがえるのである。
不当にも生きながらえたものが、ようやく、しかるべくして滅びるのが、現代なのである。

我々はまだ、これからよみがえるべき、あるべき思想、生を知らない。
だが、偽りの生き方が滅びるとき、ともに自らを滅ぼすことはない。
よみがえるものを先んじてとらえ直し、そこに依拠しなければならない。

これから我々は、消去されたものがよみがえるのを目の当たりにするはずである。
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by lebendig | 2005-08-20 15:54

ライフログの本

残念ながらアマゾンでは注文できない。
ヤフーのアイワイのサービスなら購入できます。
アマゾンしっかりしろ。
この本はもっと読まれるべき。

まったく。

がーん、と来て、ポロポロ、となります。
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by lebendig | 2005-08-16 00:24

「テツガク」からの脱出

哲学自体、ヨーロッパ思想によって制約されている。
「哲学」それはヨーロッパにしかない。
いや哲学はヨーロッパであり、ヨーロッパは哲学だ。
哲学は内容はもちろん、その本質的な形式からして制約されているのである。

テツガク者はその制約の中にありながら、真理を獲得するぞ!なんて息巻いていた。
しかし無理である。そもそも。
その真理は、ただヨーロッパ文化が形になって現れたものにすぎない。

このテツガクから脱出するのは大変である。
この重力から逃れるには、相当の脱出速度が必要だ。
とにかく、否定、批判、これを徹底し、否定自身にならなければならない。
「否定」、とりあえず否定、徹底的に否定だ。

その行為を通じて、もしかしたら本当に脱する事ができるかもしれない。
我々は何を否定すべきか、その確定があまりに難しい以上、方法的否定だ。
否定できるものは否定する。
その中に、本質的な事柄が含まれるに違いない。
こう信じて否定である。
(未)
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by lebendig | 2005-08-13 21:02

総選挙?!

たまには時事問題。

小泉首相が郵政解散と勝手に名付けた、トンチキな選挙がひと月後に行われる。
もっぱらの話題は、民主党の影が薄いという話。
いや、そういう形で話題になっている。

これから終戦記念日などあり、特定の立候補予定者である首相が、公然と露出する機会が増える。
北朝鮮が八月最終週から交渉再開に応ずるらしいから、選挙戦まっただ中に何かある。
いや、そこで日本が蚊帳の外の印象の合意が出てきたら、自民危うしである(反対派、非公認候補はうれしいかもしれない。)
となれば、また小泉首相は芝居がかった直接交渉やるかもしれない。
もちろん、手みやげは秘密交渉で選挙戦中は内緒。
これはみんな考えている。
しかし、実際、平壌で交渉する絵がテレビに映ると、インパクトがあるだろう。

だが、終戦記念日で思い出すのは、靖国公式参拝。

近隣諸国が何を言おうと、日本式の追悼であるべき。
しかし、靖国は戦前の特殊国家施設。
いや、国家ではなく、長州。
靖国を肯定する論理は、通常、日本古来の神道を否定するのは文化に対する無理解からくる、しかるに、靖国参拝すべし、というもの。
だが、それは論理の飛躍。

靖国は伝統的な神道ではないし、死んだものは誰彼無く祀る、も嘘。
靖国の裏に小さな神社を建てて、彰義隊とか会津藩士とかも最近祀ったんだと。
それ靖国じゃないだろうが。
彼らは、何のために死んだのか。
まぁ、何十年もかけてそこら辺ごまかす話を作ってきた。

靖国神社の「神道」を信じて死んだ戦士は気の毒。
本当にみんな靖国に集っているのか?
そんなことはありえない。
当時はそれは軍隊あげてそういってきたから、信じても仕方ない。
しかし、そこにあるのは、ご都合主義で古来の神道の本質を奪い、でっち上げられた倒錯施設。
亡くなった兵士には、だましてごめんなさい、と謝り、きちんとした伝統的な神道の形で、その魂を鎮めるのが本筋。
みんな信じて死んでいった、ということを盾に、靖国を正当化するのはおかしい。

麻原を信じて死んでいった信者のために、オウム真理教を肯定するようなもの。
江戸時代、仏教寺院が民衆の戸籍管理していたくらいだから、仏教もなんとかいえばいい。
ルーズベルトの死を祈祷したり、いろいろ協力してやったはず。

神道に文句はないが、似非神道には文句ある。
百何年の歴史、とかいわれると伝統的な感じもするが、しかし、「2000年」の我が国の歴史、神道の歴史からすると、全く「伝統」的ではない。
年寄りは靖国に感慨があるだろうが、しかし、本気であの似非神道を信じるのか。

きちんと千鳥ヶ淵には墓苑がある。
天皇陛下下賜の骨壺にお骨が納めてある。
引き取り手のあったものは入っていない。
それは弔う人があったのだから、よし。
その墓苑に参るのでよかろう。

さらには、東京大空襲の追悼施設は無いらしい。
東京都が関東大震災と一緒くたにして適当になんか作ったので、遺族は怒っていると聞く。
戦争で死んだひと全部追悼し泣けりゃいけないはず。
軍人より、赤ん坊とか小さい子供とか、優先すべき人間があるでしょうに。


戦前の人間が、死んだ人間にあまりシンパシーを持たなかったのには理由がある。
人間の存在を尊重する思想のない、ヨーロッパの近代思想を移入したからだ。
自分の身内なら深く悼むのに、子供が死ぬことについてはあっけらかん。
たしかに、戦前子供の死亡率は高かった。
だが、それだけが理由ではない。

小さい子供であろうと、そこには「魂」がある。
つまり、それは既に一人の人間だ、と考えられてきた。
いや、人間であろうと無かろうと、尊重すべきと捉えられてきた。
しかし、命を奪うとき、その命との不幸な巡り会いに、深く思いをいたすのが礼儀だったのである。

それが、子供無視である。
ひどい死に方をした子供がたくさんいたことは既に書いた。
その一人一人が、「私」だった。
「私」が、親を失い、不安と悲しみ、おびえの中で、飢え、病、火、水のなかで苦しんで死んだ。
その想像力が無いのか。
いや、無いのがヨーロッパ近代思想。
死ぬのは、かならず「私」である。「誰か」ではない。

靖国マンセーのアホ「正論」が国を覆っているが、少し考えたらどうかと思う。
よその国になんぞ言われたくないのはわかるが、靖国を旗印にしないで欲しい。

信じた人間がいてもいなくても、正しいものは正しい、嘘は嘘。
当然である。
我が国の祖先が持っていた世界観は、非常に謙虚で、それ故に確かなものであった。
それを無視するのはいかがか。
いや、「本気」で神道のひとなら、靖国はスルーではないか?

官軍賊軍とかA級とかなにやら、そんなことは問題じゃない。

まぁ、東条がアホなせいで小さい子供とか赤ん坊とか恐ろしい数死んだのだから、祀ってはならんだろう。
首相なんてのは結果に責任がある。
東京裁判なんてものが話をややこしくする。
勝ったら官軍、負けた奴らをののしり倒し、つるし上げて殺したりする。
そんなことに正義はない。
って、それその何十年か前に誰かやってなかったかな?

骸を埋葬することも禁じてさらしたりしたそうな。

あと、その後、自分たちを正当化するため話作ったり、あげく、神社まで建てたんだと。

まぁ、本当に歴史は繰り返す。
虐殺された民族が虐殺したり、人間は愚かだ。
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by lebendig | 2005-08-12 01:49

森繁久弥もいいとこある。

雑誌を読むと、こんな事が書いてあった。
森繁久弥の自伝の一節だと言うことだ。

彼は終戦時、満州の新京にいたらしい。
新京は、ひと月書けて国境付近から逃げてきた開拓民達が、たくさん死んでいったところだ。
森繁は偶然その人々の遺体置き場へやってきた。
そこで彼は多くの幼い子供達の遺体を見つけたらしい。

森繁はその「骨と皮ばかり」になった子供の遺体の、「垢だらけの頭」をなでてやりながら、涙が止まらなかった。
そして、空に向かって石を投げた、と。

その子供達というのは、親が弟妹を殺すのを(泣いてソ連軍に見つかるのを避けるため)、そしてソ連軍や中国人、匪賊などに惨殺されるのを見てきた。
そして飢えの中でようやくたどり着いた町で、飢えと寒さ、伝染病に苦しんで一人で死んでいったのである。

森繁はその子供達の頭をなでてあげたのだから、いいところがある。
彼は子供達にしてやれることをしたのだから。
伝染病の可能性もある。
あまりに不憫な姿だったのだろう。

このような無惨なことが起こったことの、責任はどこにあるのか。
ソ連軍が悪い?いや、そんなことをする連中だと言うことは誰でも知っている。
それを知って、子供達をそんな状況においたものには、未必の故意がある。
子供が何人悲惨な死に方をしても仕方がない、と。

戦前の軍隊は勝ち目がない戦いを無理に続けたのがいけない、と批判する人がいるが、そんなところはポイントではない。
買ったとしても、守るべきものを失っていたら、それは敗北よりも悪い。
子供がこんな死に方をするのでは、勝っていたとしても負けである。
いや、最悪である。
戦略の中に、最初から開拓民を盾にすることが前提にされていた。
満州の経営そのものが、最初から最悪だったのである。
多少想像力を働かせれば、どうなるかわかっていたはずである。
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by lebendig | 2005-08-09 05:59

長州軍は死ね

いい加減死んでもらいたい。

いまだに長州軍の末裔が陸上自衛隊だと勘違いしているバカがいるらしい。
拉致被害者にかこつけて名を売っている「アベ」もそうだろうが、どうせ。

今日の陸上自衛隊でもっとも嫌悪すべきは旧軍。(もちろん陸軍)
なんで未曾有の基地外軍団になったかというと、これが長州軍だったから。
天皇かついでギャッと叫べばなんとかなる、ということだけが彼らの信条。
負けるに決まってる。

それだけでもわが国開闢以来のくそ集団であるが、最悪なのは別のところにある。


彼らは、幼い、小さい小さいこどもが死んでいくのを是とした。
小さい子供、赤ん坊、その母親と老人。
こんな人間だけにしておいて、どうしろというのか。
それでも、「予の予想ははずれたり」だと。
これは旧軍の陸軍参謀の「お言葉」。
お前が持ってた情報、誰に判断させても即時停戦だって言うの。

まぁ、キチガイでなければ、下せない判断がどろどろ垂れ流されていたのが長州軍。
旧賊軍出身者にその片棒を担いでいたのがいたのは、情けない限り。
おまえだ、東条。
この馬鹿孫が腐れ爺さんをいまだ弁護なんてしている。
当事者能力ないくせに首相なんてやるな。死ね。
くず鉄と油がないから戦争したんだと。
そんなものと赤ん坊と子供の命を引き換えにしたのか。
自分たちだけで殺し合いしておけばよかったのに。

なんにも罪無く、無邪気に、いや、身近な人間の幸福を望んでいただけの子供がずいぶん死んだ。
彼らはくず鉄とか油とか、富とか繁栄とか、一等国と欲しかったのか?

えらそうに腐れ哲学垂れていた西田とか、お前にも責任はある。
衣鉢継いだやつも、知ってるのか。

幼い幼い子供があまりに無残な死に方をする。
これを戦後、馬鹿が「当時は仕方なかった」とか。
こういうやつはもう二度とこの世に現れるな。
幼い子供が死ぬようなことがあったら、なんと言おうと、それは失敗だ。

幼い子供が、貧しくとも、志を持って生きていけたら、その国は幸せだ。
それがみんなが望んでいたことではなかったか。
赤ん坊が、幼い子供が多少死んだとしても、成し遂げるべきこと、そんなものはこの世にない。

しかし、いまだに馬鹿が腐れ頭でいろいろ言って回っている。
特攻隊とか学徒出陣とか、美化するのはもうやめれ。
やつらは成人、あるいは一人前。
本当に物を考える頭あったなら、もっとまともな現在があったろう
友達とか、知り合いとか、恋人とか、肉親とか、そんな人間の死を後から悔やむだけ。

本当に無残に人知れず死んでいった子供がたくさん。
爆撃とかではなく、餓死、病死。
子供だけで、死んでいった。
少し調べればわかるだろ。
二十歳過ぎた大人なんて、死んでも自己責任だ。ばか。

自分の親が、弟妹を殺して死んでいった。
その親が地獄に落ちたらかわいそうだと、泣いていた子供が餓死していった。
特殊な話ではない。
戦争から帰ってきたやつは、自分の苦労話しかしないから、誰も知らない。

だれも言わない。

死人に口なしか?

少し調べてから物を言え、馬鹿が!
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by lebendig | 2005-08-06 00:19