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偉そうな物言い=腐れ

個別科学の実験人足による「業績」の山とちがい、非実験系文系の論文というものは、そもそも「正しい」事など無い。
特に哲学なんてのは、十中八九嘘、ではなく、万に一つも真実無し。
同じく、宗教も、万に一つも真実無し。
なぜか。
どれか一つ「正しい」説があるならば、他の全部は嘘だからである。
つまり、ほとんど嘘になる運命にある。

よく考えればそうなる。
しかし、自分が見えていない「哲学」においては、そんな奇特な事考えているものはほとんどいない。
なぜか、自分だけが運がいいのか必然なのか、いずれにしても、なぜか真理を把握していると思いこんでいる。
それゆえに、非常に傲慢になる。
以前の日本哲学会の会長やっていた某なんてのはその典型。
大時代の哲学なんぞ信奉し、法を犯すことなどもしたらしい。
最近、へりくつまみれの、人身攻撃による「研究書」を著されたりしています。
年をとって制御がきかなくなり、本質があらわになってきたのではないか。
それにしても、確信犯。
自分のへりくつ能力ゆえに、何か真理でも把握しているとでも……

まぁ、我が国独自の哲学をつくった昔の哲学者達、たとえば西田とか田辺とか、文体がひどい。
えらそーに語っています。
たしかに、当時としては大変お勉強したのでしょう。

しかし、その説は嘘か本当か、と問うなら、嘘である。
嘘をあんな偉そうに語るとは情けない。
実際読んでみてもらいたい。

日本人が古来、不遜な文体を好んでいた、と言うことはない。
不遜さは明治以来ヨーロッパから輸入したもの。
そこに既に事の本質があきらかだ。

自分だけ何か特別で、なぜか真理を知ってしまう。
こういう幼稚な思いこみがヨーロッパを貫いている。
幼稚な文化。
主体とか、主観とか、そんなものが好きなのは、「大人」になれなかった子供です。
まぁ、かの主観が神や世界、歴史にまで拡大して訳のわからなくなった哲学はその極限でしょう。

当然、自分が特別だという意識があるわけで、不遜になるのは必定。
幼稚な不遜さ。
戦前なら、ありがたい西洋の学問の先生と言うことで、それもゆえあってのことと黙認されていたのでしょう。

しかし、我々自身、人間自身、それを謙虚に考えて初めて何かしら正しい事への道が見えてくるのではないか。
謙虚な姿勢、高をくくらない、自分を買い被らない、それが必要ではないか。
文体だけではない。

文体内容、えらそーなのは読む価値無し。
文体がすでに内容を制約している。
知を「誇る」のは、腐敗した文化である。
そもそも、「死んだ」はずの学問が、なんでえらそうなのか。
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by lebendig | 2005-07-26 22:57

おまえら哲学やめ!

と思いました。
何を読んでいたか、まぁそれが問題ではない。
いや、問題なんだが、一般化できる問題です。哲学全般に。
今世紀、いや、前世紀でした。前世紀最大の哲学者といえばハイデッガー。
この人以後に、まぁ、「有名」な哲学者はいるものの、それ以上の哲学者はいなくなった。
だーれも以内。
本質的な問題なんて、誰も問題にしていない。
コマコマちまちま。
おまえら、哲学やめ!

つまらぬ、木っ端学者のしょぼくれ論文を祭り上げ、それについて研究論文を出して、最前線を騙る。
これが最近の哲学のトレンド。
もちろん、しょぼくれ論文はアルファベットで書かれていて、なるべく、人があんまり読んでいない、評価しにくいものです。

哲学の世界では、細かい細かい情報に通じていることが尊敬の対象になるので、つまらない、どうでもいい哲学者についてよく知っていると、それだけで評価があがるわけです。
もちろん、本当の議論が過去になかったわけでもないのだが、最近はない。
これ本当。

なにしろ、今生きてる著名哲学者なんてのは一人もいない。
最近までH.G.ガダマーていうのがいたが、業界外には無名。
結局「ハイデッガーの弟子」で売っていた。

なんかイギリスとかアメリカとかにはいるとか言う人もいるが、、はっきり言って、、そこら辺には哲学者自体がいない。
思想はあるが、文化・歴史の必然として。
誰かいる?

自分が研究対象に選んだ哲学者を買い被って買い被って、買い被りまくり、買いかぶり尽くす。
それがテツガクシャですから、なんかぞっとしないマイナーなテツガクシャの名前を出して、口をとがらせて際限なく語るはずだ。
逆に、そんな詰まらぬ論文を読まされる側では、
「このよく知らない思想家、正直知らね」なんて言ったら軽蔑されるかなー、と。
知らなくていいテツガクシャなんて掃いて捨てるほどいるんだから、知らなくていい。
知るべき哲学者はすでに知っているはずだし。

どこにも書いていない。
だから批判される可能性が少ない。
つまらなそうだからだれも研究せず、それ故に、批判もされにくい。
おそらく、こんな了見の狭さでやっているんでしょう。
だって、そんな木っ端論文、意味ありませんから。

誰も知らない横文字の名前を挙げる。
これが、欠の穴の小さい、哲学ふぇちの手ぐち。
彼らはアキバと等しく、傷つけあうことは大嫌い。
だったら、最初から門前払いをしておかなければ。
卑怯者の学問、それは哲学なのか?
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by lebendig | 2005-07-25 23:49

「学問」で自己嫌悪

別に自分の論文に自己嫌悪しているわけではない。
誰かの論文を目にして、「アカデミック」だなぁなどと思ったりしたところで自己嫌悪なのだ。
なぜか。
まぁ、このブログを少しでもさかのぼればわかるように、「学問」自体が本質からおかしい。
さらに、そんな世界で「認められたい」なんて了見が狭すぎる。
と、自分もそれしてみようかな、と思ってしまうところが情けないのである。
この業界に長くいると、やっぱり毒されてくる。
職業病である。

本来の目的を見失い、手段であるはずの学問が目的になる。
もちろんそんな「学問」が意味あるものであるはずなどない。
しかも、ヘンチクリンな人間が作る学会のなかで「認められ」たい、などと……
「だれ」に評価してもらいたいのか、この俺よ。
バカバカばかばか、おれ。

と、自己嫌悪するわけである。
誰が認めずとも、この自分が認めればよい。
自分が基準となれるまでに、徹底的に考え抜いていればよい。
いや、考え抜かなければならない。
本当は誰か先に考えてくれていればいいのだが。

変な人間でフェティシズム集会をして、内輪で評価しあう。
あーやだやだ。自分がそれに少しでも近づいたところがなさけない。
学問なんぞ無くったって、何にも困らない。ちょっと不便なだけ。
不便で死ぬことはあまり無い。
なにしろ人間は、生まれたときから今日までほとんど「学問」なしで生きてきた。

それより大事なものは。
自分が今、生きてあること。
そしてそれが充実するなら尚よし。
それが一番大事。
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by lebendig | 2005-07-25 02:10

デザイン変更

少し変えてみました。
写真はワモンアザラシの子供です。
殺伐とした雰囲気を和らげます。a0020760_1424968.jpg
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by lebendig | 2005-07-23 14:01

メランコリー

メランコリーは哲学の感情である。
燃えるような焦燥感。いや、焦燥感、メランコリーいずれの言葉にも「燃える」が入っている。
調子のいいときには気にもかけないことが気になる。
なにかやり残しているのではないか、自分は取り残されていくのではないか、と、焦るのである。
しかし、ただ浮き足立って、ウンウンうなっていてもしようがない。
確かに我々は何かとんでもなく重要なことを未決のまま忘れているのだから、それに正面から取り組めばよい。

ここでこの焦燥感自体にこだわると、問題は一気に鬱陶しいだけの、「悩み」あるいは心の病になってしまう。
しかし、その焦りに方向付けをすればよい。
人間存在はこの世に放り出されて、しかも死がその先に待ちかまえている状況で、不安の内に生きているのだから、その焦りは人間存在にあるべき感情なのだ。
いや、メランコリーなくして人間無し。そこまで言っていい。
人間として生きる、そのこと自体悩ましいのだから、まっとうな人間はメランコリーになる。なってどこがいけないのか。

この感情だけを消去しようとする心理学やら精神医学の様々な手段は、人間を知らないのである。
悩みなく生きていればいいのか。
もちろん、あんまりひどくて身体にまで症状が出るときには治療を少しだけうければいいだろう。
しかし、その感情を消去してはいけない。
その感情故に人間はシリアスに人間の生のことを考えられるのである。

別に、メランコリーをエネルギーにしてポジティヴになれ、といっているわけではない。ただ、その感情は人間の本質的な感情だから、肯定しろ、といっているのだ。

奴隷として所有され、非人間的な生活と労働の毎日を送る黒人がブルースを生み出した。
もし自分が奴隷だったら、どんな人間でもへこむだろう。
へこみまくりである。
自分に全く非がないにもかかわらず、夢も希望もない生活。
アフリカ大陸にいたのなら、偉大な祖先、英雄の記憶の中で、尊厳ある生き方を出来たはずである。

当然彼らの根本的な感情はネガティヴになるだろう。
だが、それは人生に対する否定の感情にならなかった。
惨めな我が境遇を嘆きながらも、その音には肯定のニュアンスが含まれているのである。

クォーターチョーキング、つまり、半音の半分のチョーキング。
これがブルースギターにはある。
ギターの弦を持ち上げて、半音の一歩手前まで音をあげるのである。
そのことでコードがマイナーとメジャーの間をさまよう。
つまり、短調と長調の間である。
短調は悲しみ、長調は喜び、乱暴に言えばそういう響きだ。
つまり、ブルースは悲しみと喜びの間にある。

もちろん、基本は嘆き、悲しみ。
しかし、それだけではない。
その嘆き悲しみが、肯定のニュアンスを持って表現されるのだ。
「俺はなんて不幸なんだ」と、どこかそれがうれしそうに、しかし悲しく歌う。
それがブルース。

もちろん、最近のはほとんど笑っているようなものもあり、単なる鬱陶しいナルシズムもある。あるいは、本当に浅薄な「ブルース」もある。
当然だ、本当の嘆き悲しみがなくなったからだ。
それはブルースの抜け殻である。
不幸の底の底で肯定に転ずるとき、本当の意味で人間の生の重さにふれる。
そこで生まれるのが、人間存在の根本的な感情だ。
だから、ブルースは人間の音楽だ。
おもしろおかしく、気取っていて、楽しくて、なんてのは一時の心の慰めのための音楽。
本当のものじゃない。

自分のネガティヴな感情にどう向き合うか、それは昔から様々な文化の中で試みられてきた。日本のもののあはれもそうだ。
世は無常、だから死のう。こんなのは明治以来の西洋かぶれにしかあり得ない、非文化的な感情の論理なのだ。

程度は問題だが、少しもネガティヴな感情のない人間は、むしろそのことを心配した方がいい。
それは、人間存在の根本感情を欠いているという、「病」なのだ。
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by lebendig | 2005-07-21 13:40

反復と永遠

記事連発である。

ビートはリズムと違う。
ひたすら繰り返される音。
それは時間の前後の感覚を曖昧にする。
さっきと今と次の瞬間が全く同じもののように繰り返される。
様々な文化にそのような音が存在している。

生物はそのビートによって存在している。
心臓の鼓動。
呼吸。
瞬き。

我々の身体も反復である。
歩くこと、咀嚼すること、燕下すること、貧乏揺すり。

我々は毎朝起き、食事をし、眠る。
一週間の中で、働き、休む。
月の中で給料をもらい、財布が寂しくなり、しのぐ。
一年を単位として、年間の行事を様々にこなし、毎年年賀状を書く。

すべて繰り返しである。
同じような一日の繰り返し。
同じような週の繰り返し。
同じような月の繰り返し。
同じような都市の繰り返し。

その中で、時の経過に鈍感になる。
いつの間にか時間が流れる。流れ去っていく。
繰り返しの中では、それは限りなく続く。
繰り返しからふとはずれるとき、時の経過に驚かされる。

反復が我々を時の経過に伴う悲しみ、驚きから守ってくれているのか。
あるいは、我々を鈍磨させているのか。
(未)
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by lebendig | 2005-07-20 20:16

確かなものが儚い

我々の目の前にある世界は確実である。
いつでも裏切ることはない。
1+1=2
三平方の定理
数学は裏切らない。
あるいは、自然法則。
自然が裏切らないことも確実だ。

私の目の前にある机。
これにふれるならば、確かにそこにあることが確かめられる。
目を離したすきに消えてしまうことなどない。
ふと気づかぬ内に私が別人になっていることもない。

お金を使うとなくなる。
酒を飲み過ぎると酔っぱらう。
夜更かしすると朝がつらい。
全部正しい。

他人につらく当たれば恨まれる。
歯を磨かなければ虫歯になる。
人に尽くせば慕われる。
いくらでもある。

もちろん、予想外のことだってある。
しかし、それは初期条件をきちんと把握していなかっただけだ。
すべてのことを正しく把握すれば、唯一の答えが導き出される。

我々が日々確かめつつ生きていることの世界は確実な世界だ。
目をつむっている隙に消え去ることは決してない。
だが、もっと確実なことがある。
それは私が死ぬ、ということである。

死なない人間はない。
しかるに、私は死ぬ。
世界の確実さを信ずればこそ、この命題は真である。
この確実な世界も私と共に消え去る。

これだけ確実なものが、あっという間に儚くなる。
この矛盾に昔から人間はとまどってきたのである。
今私が存在することは、事実である。
もちろん確実な事実。
デカルトのあの命題に似ているが、ちがう。
彼はそこから永遠の魂を導き出した。
だが、よく考えれば、今の私は過ぎ去ったあの「私」ではない。

遠い記憶の中の私。
それは「今」ある私と同じではあり得ない。
私も過ぎ去っていく。
変わらないものをかき集め、変わらぬ私を妄想してみても、むなしい。
ヒュームは何を信じたのだろう。

儚くむなしいものを否定し、確実な永遠の世界を夢想したところで、私自身が儚いのである。
古来、人びとは人生の最後に及んで、この儚さを常に慨嘆していた。
それは、未だ生あるものへの伝言である。
その心を慮る人には、真実がかすかに見えていただろう。

肉親が、兄弟が、恋人が、親友が、妻子が、そしてすべての人びとが、跡形もなくこの世界から確実に去っていく。
そしてこの私もである。
全く信じがたいが、しかし確実なこの事実は、この世界の真実の姿でなくして何であろうか。
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by lebendig | 2005-07-20 18:58

最期は始まりか?

徹底した否定のうちに、新しいものがうまれる。
だとしたならば、哲学が終焉するとき、そこに何かが生まれる。

しかし、終焉する「哲学」とはなにか?
何を指して「哲学」というのか。
おそらくそれは最も広い意味における「哲学」。

様々な時代、文化に多様な「学問」が存在した。
今日においてそれはほぼ一つの「学問」を指すに至っている。
もちろんそれは古代ギリシアの自然哲学、いや「哲学」に発する一つの伝統。
この「哲学」こそが多様な学問から今日の学問との間に、決定的な一線を画している。

「学問」は、言い換えれば「知」だ。
知のあり方、今日においては唯一のあり方になり、そこからすべてが理解されるにいたっている。
この、文明文化、あらゆる生がそこに基づいて意味を持ってくる、その最も根元的なものが、「哲学」によって制約されている。
その制約の終焉である。

あらゆる事柄、そして哲学自身についての理解も、議論も、すべてそれに基づいている根本的なもの、これが「哲学」と言われるべきである。
まぁ、二百年から昔の「哲学者」と問題を共有しようとがんばってらっしゃる先生方は、このこと自体が気にくわないだろう。
なぜなら、理性の相対性等というものは、宗教的な理由からほとんど考えられたことがないからだ。(多少例外もあるかもしれないが)

そんなアナクロテツガクはかまっている暇はないので黙殺。(ハイデッガーのようにかまい過ぎると、何を言いたいのかわからなくなる。)
ところで、この「哲学」による制約は、「存在論的前提」、いや存在論、形而上学のことなのか。しかし、そのように考えても、事の本質には辿り着かない。
逆に、「哲学」の中へ回収されてしまう。
これまで哲学の内部でなされてきたような、そのような議論は、その外部への可能性を全く持ってはいない。
なぜなら、その想定する理性の思考、論理、ロゴスがそれ自身において完結するものとして措定されているからである。

もちろん、ゲーデルが論理の不完全性の証明において、すでに内部における完結性は否定している。
その証明も、ゲーデル数も、よくもまぁ考えたものだというものであるが、その曲芸ではなくその意義に遥かに重大な意味がある。

それはさておき、テツガクシャの思考においては、いまだそれはそれ自身において意味を持つ、完結したものらしい。
なにしろその限界を認めたならば、とたんに何も出来なくなるような、大工にとってはトンカチかかんなのようなものである。みとめないだろう。

限界を認めるなら、その論理の網の裂け目が外部への脱出口になる。
内部にとどまりたいものには、無限の暗闇の入り口に見えるかもしれない。
そう、内側から外部は決して見えない。
見るためには暗闇の中へ身を躍らせなければならない。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

哲学はすでに死にたいであるが、どうせなら積極的に学問を道連れにしなければならない。
製造者の責任である。多少なりとも問題意識を以て哲学をするものがあったならば。


ところで、最期と共に何が生まれるか。
生まれたときに初めてわかる。
これが大前提であるが、しかし、わずかながら予想できることがある。
それは、我々自身が存在しているということに気付いてあること、それがいっそう明瞭な形で我々に把握されるだろう。いや、それは存在自身が存在をより明確な形で己を示すと言うことか?
まぁ、はやりの言葉でいうならば「リアリティー」である。

今はやりの「リアリティー」は、感覚ぐらいの非常に希薄なものを指しているが、昨今の人々にはそれが最もびりびり来る感覚らしい。
最期と共にやってくるのは、そんなものとは比較にならないくらい、ものすごくびりびり来るものだろう。
このしびれる「リアリティー」とは何か。
自己がどこにいるのか、それをよりいっそう明瞭に自覚すると言うことだ。

自然の中、社会の中、世界の中、宇宙の中、文化の中などなど、様々な全体性のなかでの自己の位置を見いだすときに、己というものが存している。
凡我一如、彼我のない境地、そこに死を問題としないですむ理想があるとするならば、びりびり来る己のリアリティーはありがた迷惑であるかもしれない。しかし、自覚されたとき、いままではものがわかっていなかった、と得心されるはずである。
もちろん、それは終局ではないだろうが。

もしかすると、人間存在についての、本当の意味における絶望的な自覚がそこにあるかもしれない。
われわれが決して認めたくないものがそこに待っているかもしれない。
しかし、それが真実ならば喜んで飛び込むべきだ。
なぜなら、真実は一つしかなく、そのほかはすべて偽りだからである。
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by lebendig | 2005-07-19 22:46

明日はどっちだ

今日の切迫した状況を乗り越え、新たなものを打ち立てる。
これが、本ブログの目的でした。
前にも、ちらりと書いております。
しかし、どうしても過去に対する批判、悪口になってしまう。
もちろん、徹底的な、本質からの自己否定によって、初めて創造の可能性が生じる。
仕方がない側面もある。いや、否定こそが創造の顔ではないか。

だが、少しでも早く前進し、全く新しいものの可能性を検証しなければならない。
そのためには、積極的に創造の可能性を確認しなければならない。
なんだかんだいって、なんにもあたらしいものがなければ妄想と思われても仕方ない。

もちろん、新奇な、目新しさがあればいいわけではない。
いやむしろ、そのような目新しさだけを追ってきたのが今日に至る学問ではなかったか。
常に新たな論文が書かれ、毎日新しい学説のニュースが飛び交っている。
しかし、いってみれば二千年以上、哲学には本質的に新しい論文などほとんど書かれたことはなかったのである。
したがって、「新しさ」は「創造」の何らの指標にもならない。
いやむしろ、従来の新しさの指標は、何も新しいものなどないことを示している。

では何が本質的に新しいものを特徴づけるのか。
何が創造を示すのか。

単純に従来のものと比較して、これまでになかったものを持っている、ということによっては特徴づけられないのである。
そもそも、本質的に新しいもの、それは根本からの思考が異なる何かであり、全く異なる目的を持ち、全く異なった基準にある。
それは容易に理解し得ないものであり、理解できたならば、新しくはないのである。

それは、理解し得ないものであり、それ故に容易に見落とされてしまう。
そこに何かがあるということ自体の認識が困難ななにかである。
しかし、何らかの違和感があって、繊細さを以てそれを見いだそうとするときだけ存在する。
繊細さとは、自己にないものを求める、謙虚さのことである。
今日に至るまで、本質的に新しいものが見いだされてこなかったのは、自己を否定する謙虚さが無かったからであり、結局は己と同じものを求めていたのである。

つまり、徹底的な自己否定、それがやはり創造の本質的な特徴なのである。
そのためには「自己」が発見されなければならない。
否定されるべきものは何か、それが発見されるとき初めて新しいものが何であったかものが発見される。

己が見いだされるとき初めて己ならざる何かが見いだされ、そこに創造が生じる。
とにかく新しい視点をとる事で、「新しい」世界をの見え方を獲得しようとしても、それは目新しいだけで、実際には「古い」のである。

己はつねにここにある。
しかし、それを見いだすことは難しい。
表面的な自己否定はいくらでも出来る。
しかし、否定されるべき何かは常に注意深く隠されている。
我々自身にとって最も大事であって、否定されたくないものなのである。
だが、それはおそらく「つまらない」ものだろう。
いや、「つまらない」ものとしてそれが発見されたとき、自己発見と自己否定が同時になされたと言い得るかもしれない。

これまでなされたことのない否定を、徹底的にすすめていく。
そのことのなかで、「つまらない」ものが否定される。
あらゆるものの否定を通じて創造が「偶然」なされる可能性があるのである。
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by lebendig | 2005-07-17 23:08

すべて投げうてるか?

明治以来のすべては無用の歴史だった。

たしかに、世間一般でさえ第二次大戦は、特に日中戦争は不要だったと認めている。

だが、ヨーロッパ流の近代国家となった事や、物質的繁栄を謳歌するようになった事について、否定するものは少ない。いや、いるのだろうか。
ヨーロッパ諸国と物質的繁栄を競うようになった事、彼らから同じような社会集団と認知されるようになった事、これは今でも「誇らしい」ことであろうか。

明治維新がなければ、西洋列強に飲み込まれてしまった、というような話がよく出てくるが、そんな事があっただろうか。
そもそも日本は当時最大の都市文化を持った、政治、経済、社会制度、文化、産業、教育、社会資本、すべてにおいて整備された、しかも、精神文化・伝統に優れ国だったのである。

文化破壊と愚民政策によって植民地を維持してきた西洋諸国が、同じような形で支配する事などで来たのか。
いや、物理的に支配する事が仮にできたとしても、それがいったいなんだと言うのであろうか。
人間社会、国家、そこで最も大きな財産は人間である。
すばらしい人間が生きているだけで、その国に生きる価値がある。
明治維新によって命を奪われた者、生きる場所を奪われた者、彼らが日本という国の意義だったのではないだろうか。

日本文化として靖国神社が数え入れられたりする事がある。
これは全くの倒錯である。
なぜこのような似非神道が通用しているのか。
中国も左翼も全く関係ない。
明治以来、それ以前の文化や歴史が書き換えられてきた。
それは別に最近の教科書の話でもなければ、昭和に入ってからの軍国主義の話でもない。
天皇を担いだだけの、西洋にまねた殺戮集団を組織していた特殊な集団の行状を正当化するために、すべて書き換えられ、ねつ造され、生み出されてきたのである。

文化にとって生のあり方とは、本質でありすべてである。
その条件としてのみ、形而下の様々な事柄が考慮されるべきなのである。

明治以来の軍隊に武士などいない。武士気取りはいたかもしれないが。
自決は切腹ではない。切腹は死を軽んじる行為ではない。死を重くとらえるからこそ、選ばれる生き方なのである。


今日の我々のこの国は、全く生きるに値しない国であり、かつて偉大であったものがすべてこの百五十年間に朽ちてしまった、カスだけの国である。
明治以来の西洋コンプレックスと倒錯の思想、もう不要だろう。

この腐臭漂う国を何とかしようと思うならば、すべて投げ打つ必要がある。
与えられた状況の中で生きる事ではなく、自らが歴史を作り出す事が必要である。
明治維新以来の歴史に対する日本人の態度は、ただ、状況の中で生きていることと同じである。作られた歴史を、歴史として生きている。しかし、生の価値を最も高めるには、生きる事の意味を自ら切り開き、その観点からこれまでの「歴史」を批判する事が重要である。
我々に生きる価値があらんがためには、今日の状況を生み出したすべてを徹底的に批判的に考えなければならない。

では、明治以来の歴史を本質から否定するという事により、何が得られるのか。
作為的に作り出されてきた、幕末以来の様々な偶像と、それに伴われている価値、これの否定は、人間の生きるべき生、あるべきあり方、これを考える上での重苦しい足枷を取り除いてくれる。
偶像たちが「国家のため」「日本のため」などと「高い志」を持っていたということ、そして、それが今日においてもあるべきあり方の一つの指標になっているという事、これは否定されるだろう。

ヨーロッパ文明の本質を理解せずに、国を際限なき物質争奪のための殺し合いに導いていった、そのことに弁解の余地はない。それは国のあるべきあり方などではない。最低のあり方である。その争いに勝利したとしても。
そのようなさもしい、幼稚な国家や社会のあり方に理想を見いだすというようなこと自体、人間が生きるべき条件を倒錯していたとしか言いようがない。
しかし、自己を国家に投影し、その国家が物質争奪戦の勝者となることを夢想し、悦に入る、このような人間が、志のある人間などとされてきた事は、情けない限りの事だろう。未だに、このような幼稚な「こころざし」を理想と考えるような者もある。
さらには、口先だけの言い争いに勝ち、優越感に浸るという「こころざし」もある。何でもいいから、「国」に関して優越感を得たい、そんなつまらない了見で「天下国家」が語られている。そのような妄想の世界に行ったきりの己の姿は哀れではないのか。小さい子供ではない、一人前であるはずの大人たちである。

本当であるならば、はかなく終わる人間の一生の、その価値、意味を最も高める社会のあり方を考えるべきである。これまで我が国の心ある人間が残してきた言葉は、結局、人の一生の儚さであり、それを深く理解した上で生きなければならない、ということであった。
他国に物質的な力が勝ればそれは至福、などという倒錯はなぜ正当化されてきたのだろうか。このように腹の底から疑問がわかなければならない。
そのとき逆に、我々が、あっという間に過ぎ去っていく人生の中で、何をなすべきか、そして、その一瞬のときをともに過ごす人々に対して何をなすべきか、ともに何をなすべきか、それが見えてくるだろう。

無限の時間の中に一瞬の私の存在。もちろん、「国」であろうが「社会」であろうが、それらも一瞬。そこから始めなければならない。
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by lebendig | 2005-07-13 00:19