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「存在」しない人間がソンザイする?

ブログなのに、ずいぶんあけました。。。。

私たちの思考の働き、脳の働き、これを再現する機械の研究が進められている。
人工知能である。
その研究者には2種類ある。
一つには、人間と同じことを機械にやらせることを目的とするひと。
つまり、ロボットやエキスパートシステムを開発し、人間の利便のためにこれを用いることを目指しているひと。
もう一つには、人間と同じように、「人格」を存在させようとしているもの。

テレビや映画、漫画を見れば、人間の心を持つ機械(ロボット)が当たり前のように登場する。
もちろんA.I.はそのままの内容。ターミネーターなど近未来を想定して描かれる映画には、リアリティーについて検証していながらも、ロボットの心は当たり前のように前提される。

そんな「本気」な映画だけではなく、藤子不二雄の漫画(有名な猫型ロボット、からくりの「ロボット」)も、当然、その一種である。
手塚治虫の原子力のロボットも然り。火の鳥に出てくるロビタについては、人間の記憶の移植という手続きを経ている。
石ノ森章太郎のいつも零点をもらう真っ赤なお手伝いロボットもそうだ。
まぁ、いずれにしても、簡単に人間と同じく人格があることが前提されている。

しかし、本当に人間の脳の機能を再現をすると「魂」が宿るのだろうか?
我々の、自分自身のこの存在は、脳の機能の形式上の制約によって、容易に存在できるようなものなのか。つまり、思考、脳のシステム、あるいはアルゴリズムの再現がすなわち人格の誕生であろうか。
あるいは、身体と感情、欲望そして理性を以て生きることにより、初めて獲得されるものであるかもしれない。つまり、人間として生きる中で獲得される「存在」であるかもしれない。
形式か内容、いずれにしても、これは再現可能である。

しかし、もっとも重要であるのは、単に人間をシミュレートする機械を作り出すことではない。そして、内容形式ともに「人格」の用件を満たすことが重要なのではない。
重要なのは、ほかの人間にかえがたいこの私であり、世界にこの私が意識によって気づいている、ということである。

物心つくまでの人間は、確かに存在し経験し、そして理性的にも行動してはいるものの、自らに気づいてはいない。そのまま一生を送ったならば、その人間は形としては存在していたということができるかもしれないが、「本当」の意味で存在していたということができるだろうか。世界、社会、歴史、自然の中に自らを見いだす。このことの意味はあまりにも大きい。

たとえば、あなたの命は奪わないが、物心つかない状態に戻って一生送ってもらう、脅されて、命があるし、外から見て全然かわらないからいいや、と、いい得るだろうか。自己意識なしに存在しているといい得るだろうか。この自己意識、あるいは「存在」は曖昧であるが、あまりにも重要な要素ではないだろうか。これは自己をモニタリングする機能ではない。実際に「気づいてある」ことなのである。

人間存在にとって自己に気づいてあることはあまりに重要なのであるが、この「存在」がかけた人間が存在することがわかってきた。
物心がつくのは人によって様々であるが、どうも機能的には大人になっているが、すなわち形式として人間であるが、本質として人間存在ではないものがあるのである。
このような人間は全く同じように一生を送るので外からはわからない。

たとえば「サイコパス」精神病質者と呼ばれていたような人々は、全く社会、他者というものを倫理的な目的の存在として認識できないようである。それは社会のうちに自らを見いだすことができないということを意味する。すなわち、自己に気づいていないのである。

自己に気づいている事が存在の条件であるならば、気づいているのは誰なのであろうか。しかし、このような思考が誤った実体化の原因である。存在するのはただ単に、気づいてある意識の過程である。しかし、それこそ存在などという語に値しない、曖昧なものではないか。

たしかに。だからこそこれまで人間は存在の本質をとらえ損なってきた。
一方、存在しない人間にも自己意識はある。見当識もある。だが、形式としての自己意識ではない。それは、コンピュータで再現可能なものである。これで存在が生じるなら、アニメや人間と同じ事になろう。

死を問題とし、この死を恐れること、それはこの存在に由来する。単なる生物学的な過程にしかすぎない存在に、本質的な意味における「死」、すなわち無は恐怖ではない。最初から存在していないものが無にはならない。死は存在しない。したがって死の恐怖もない。死に際しての痛みは恐れの対象になるかもしれないが。

あまりの恐怖に、自己防衛のために宗教的な死後生の確信に生きる人もある。その弱さは、しかし、人間としての「存在」あってのことであり、逆に、「人間存在」であるがゆえのことだろう。だが、また、本当の意味で自己の存在に自覚するものは、その死を正面からとらえ、無へと進まなければならない。もちろん、単なる無ではない。その無の向こう側へと突き抜けて、積極的な意味を獲得するのである。

死を問題とし得ない、もとより存在していない人間がある。それは死に恐怖を見いださない。それは死の恐怖、不安に苛まれる人間からは、その一点のみを持ってみればうらやましい事である。しかし、無が恐怖であり不安であるのは、自己が存在している事によるのであり、存在していない事はまた別種の不安、恐怖である。

哲学者の中にもこの存在を持たぬものがあると考えられる。この存在に哲学の動機を持たないもの、そして、長い思索の末にも存在の意味に気がつかぬもの、これが本質的な意味での哲学の発展を妨げているのではないか。決して形式的な論理的思考の積み重ねでは到達し得ないものが存在である。もし存在していないソンザイ者があるとしたならば、これまでの哲学史に容易に説明が付けられる。しかし、それは一面においては恐ろしい事実でもある。我々と全く違う人間が人間の中にいるのである。機械が紛れ込んでいるのと同じである。どこかのマンガに出てきそうな設定である。

しかし、それは生まれつきではないかもしれない。ある日突然自己が、存在に、そしてその無の不安に襲われる。このような体験をする人は多い。それが存在の誕生する瞬間である。やはり、存在は生まれるもの消え去るものであり、われわれは生成の世界に生成消滅するものにすぎないのではないか。
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by lebendig | 2005-06-28 09:59