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哲学の最期

ブログのタイトルだが、それを考えてみる。
哲学は中世をのぞいて、理性の運動などと定義できるかもしれない。
理性の内在的な必然性の運動。
もちろん、我こそは、とそれを標榜した無数の主張と、それに対する批判の歴史でもある。
要するに、理屈だけで勝負の世界である。
主張も批判も理屈。
理屈のうちに、それを成し遂げるだけのものがあると考えられてきた。

ちょっとまて、それは大陸だけじゃない?
いや、広い意味での理性、理屈である。
誤解を避けるために言い直すと、人間は理屈によって物事の本質を引き出し、理解できる、と考え、求めてきた。

哲学の歴史の中での大事件とは、哲学の始まりと、哲学の終わりである。
それは、「理性」っていけるぞ、とはじまり、「理性」なんてだめさ、で終わる歴史である。いわゆる哲学は広い意味での人間の理性、なにがしか本質的な者を理解する能力を前提しており、この前提の成立と共に始まり、その否定と共に終焉することとなる。

ちょっとまて、終焉は確定したのか?
ニーチェは理性を根本から否定した。
だが、否定は同じく理屈によってなされた。
じゃあ、理屈の土俵に上がってしまっているではないか。
もちろん彼はそれを意識していた。
しかし、他の手段で証明したりすることが出来るか。
出来ないのである。
証明し、納得させる。これは理性の仕事である。

ハイデッガーも結局は同じだろう。
彼は巧みに言ってのけてはいるが、そこには存在の歴史という考え方が入ってきている。
歴史、それは事実である。
理屈云々ではない。
しかし、一方で、そんな歴史認めない、と言われてしまうと説得できない。
もちろん、理屈は用意されているが、ニーチェと等しく、矛盾をはらんでいる。

そんなこんなで、百年前に終焉の事実が認識されていたにもかかわらず、未だに終わってないとか、可能性はどこにある、という議論が繰り返されている。
端で見ている人は、もうおもしろくはない。
どこかで聞いた話がグダグダ続いているだけである。

しかし、今は違う。
哲学の、理性の終焉が向こうの方から歩いてきた。
事実が歩いてきたのである。
こちらから求めずとも、否応なく認めざるを得ない仕方で。

人類文明は滅ぶ。
人間の理性にもかかわらず。
このことが環境問題で明らかになったのである。

哲学はその内在的な理屈で己の歴史に幕を引いたのではなく、無理矢理幕を下ろされたのである。
哲学、理性、知、これは人類文明の存立という大前提を守ることが出来なかった。
道具としては失格である。
ニーチェはニヒリズムを宣告したが、それは生の意味が失われているという指摘。
しかし、今日、向こうから自分で歩いてやってきた事実というのは、意味もくそもなく、人類、すべての生(いやほとんどの生か。全部かもしれないが)の剥奪である。
意味の大前提の生そのもの。これがなくなる。

ちょっとまて、と。
哲学は人間を越えた、普遍の真理に関わる者で、偶然的な人間存在の存在とは必然的関係にない。
こうおっしゃる立場の方もおられるかもしれない。
理性は人間「何々の為」にあるのではなく、それそのものが意味であり根拠であると。
ではそうしよう。
しかし、それは人間無くして何の意味があるのか。
意味を理解する人間がいなくとも、それは意味を持つのか。
というか、理解する者なくして真理なし、人間無くして真理なし、ではないか。

かみさまが…!
それをいちゃあおしまいよ。
神様がいれば何でも証明できます。
いやむしろ、神様ってそれ自体に意味があったのではなく、哲学とか宗教とかそういう理屈の根拠として生み出されたのではあるまいか。。
それはおいておこう。

理性に意味があるとするならば、意味を理解する人間存在の存在を前提する。
理性には人間存在の刻印が押されているのである。
人間の人間による人間のための理性。
人間無ければ何もなし。

もし、理性がそれ自身で意味あるものであるならば、その条件となっている人間存在、人類文化の存在を、それ自身が確実に支えると言うことが条件となる。
でなければ、理性は自身に完結しない。
人類社会の存在を確保する他のもの(歴史であろうか)をその前提とするということになるのである。それは、伝統的な意味での哲学ではない。
(ハイデッガーであろうか。)

哲学を規定する決定的な事実がやってきている。
今日、哲学はその内在的な批判ではなく、外部から、理屈もくそもなく最期を確定されているのである。
そてみれば、内在的な議論はもはやナンセンスである。
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by lebendig | 2005-03-25 02:55

決定的な文明の転換

1999年に何かあると騒いでいたのも今は昔。
世界の終わりはおとずれなかった。
2000年も何か起こるのではないかという雰囲気があった。
しかし、コンピュータの2000年問題も空騒ぎで、ソフト会社に一儲けされてしまっただけだった。

20世紀の下四半期は、2000年に向けて何か起こるのではないかという気分が底流にあった。
それは宗教的、オカルト的な終末の意識だけではなく、近代的合理主義がとどまるべき限度を越えて進み始めたという、漠然とした意識だったと考えられる。

人間は数と語呂合わせには弱い。
ちょうど2000。これは何かある、と思う。
しかし、よく考えれば、起点の紀元はキリストの誕生。
実在したとは言われているが、誕生年はずれているらしい。

いや、そんな問題ではない。
2進法、10進法、12進法、16進法。
他にもいろいろ考えられるが、2000年とか言うのは10進法。
いや、そんな問題ではない。
数がぴったりとか、語呂合わせがぴったりとか、それは数とか音の問題に過ぎない。
当たり前といえば当たり前。
では、人類が堕落し、世界が終わる、という終末の意識が根拠がなかったかというとそうではないだろう。

オカルト、数の偶然、語呂合わせとは無関係に、
もちろん、宗教とも無関係に、
世界がどうもおかしな方向へと進んでいるという認識はそれ自身正しかった。
しかし、どうおかしいのか、何が正しいのか、これがわかっていなかった。
一方で、我々が何か重要な者を失ってしまったのではないか、という意識は明確になりつつある。
何がおかしいのか、何が正しいのか、こういう問題意識が2000という数字で自覚されたのではなかったか。

ところが、2000年になっても何もなかった。
たいしたこと無いじゃないか、そんなたいそうなことなどないんだな。
そういう感想を誰もが持った。
よく考えれば、当たり前ではないか、と。
しかし、実は2000年あたりを境に、実は大変なことが確定した。

なにか?
それは、今日の人類文明が滅び行くということ。
もちろん、万とか億とかいう単位の年月の中では、絶対に滅ぶ。
そうではなく、我々の日常的な知の予想の範囲の将来に滅ぶということである。

なぜわかったのか。
地球の自然環境が大変な危機にあることは我々は知っている。
地球規模の環境問題の解決のために様々な努力がなされている。
何とか人類文明を存続させようと。

しかし、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第3次報告にも明らかなように、どんなに努力しても、地球温暖化は止められないのである。
もちろん気候変動も。
さらに、他の問題と複合してさらに大きな変化が予想されている。

しかし、近頃の我々はそれを織り込み済みと、のんきに構えるようになってきている。
もちろん、20世紀に妄想されたびっくりするような急激な変動は無い。
だが確実にそれは訪れるのである。
さらに、緯度の高い国でもクーラーが必要になるとかそういう問題ではない。
動植物は急激な気候の変動に耐えられない。
ではどうなるのか。

そのようなことが確定してしまっているのである。
われわれはなぜのんきなのだろうか。
人間の知恵の限界が明らかになったのである。
蛙は水に入れられて、その温度が少しずつ高くなっていっても逃げない。
最終的にどうなるか予想できないからである。
その都度、まだ大丈夫、まだ大丈夫と。
そして大丈夫ではなくなったときはもう逃げられないのである。

人類のちえもそうだった。
しかし、そのことに気付くべき状況である。
まもなく、このことが自覚され始めるだろう。
そのとき大きな文化的な転換が起こる
おこらなければ、それまでである。

いずれにしても、今、決定的な時期なのである。
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by lebendig | 2005-03-23 20:49 | 日記

明治維新は「維新」か

これまで「新しい」ということは良いことだった。
百年以上、日本人はそう考えてきた。
しかし、最近全く違うものが見えてきているのではないか。

明治維新は日本の歴史にとって決定的な転換であると考えられている。
これを機に、日本は西洋文明を受け入れ、西欧の諸国と同じ舞台に立ったと。
確かに、同じ舞台に立ったのは事実。
同じものを欲しがり、争った。

第二次世界大戦の敗北があったものの、今日の日本の物質的繁栄は欲しがってきたものを実現した。西欧諸国と競り合い、勝利を手にした。
物質を得るのが目的だったのか、あるいは、他国に勝つことが目的だったのだろうか。
あるいは、物質を得ることによって他国に勝つことができたのか。

物質的繁栄が純粋に目的であるならば、それは他国は一切関係のない絶対的条件。
しかし、物質的繁栄を他国と争っているのが実情。
それが明治維新以来日本が求めてきたものであり、そのことに価値があると信ずればこそ明治以来の歴史に積極的な意味を見いだせるのだ。
そして、明治維新を「成功」させた「志士」がすばらしい人々として見えてくる。

しかし、明治以来の日本の歴史は、実際にはどのようなものであったのか。
これを考えるためには、確かな価値の観点を持たなければならない。
少なくとも、今日の我々にとって今日の我が国の現状は到底理想とは考えられない。
こんなものを求めてきたのであれば、それだけで明治維新は大失敗である。
我々は、我々の生の価値を最も高める文化・社会を必要としている。
実際の日本では、生の価値、生きる価値など趣味の問題と処理されてしまっている。

戊辰戦争、そこで「武士」という生き方が死んだ。
その生き方とは死によって生を反照するものだった。
つまり、生の価値を求める真剣な生き方が殺されたのである。
何が殺したのかというと、殺戮を目的とする合理的な思考である。
その思考においてはいかなる者であろうとも、戦士になり得る。武士に資格は必要であるが、兵隊に資格は必要ない。人を殺すに役立てばよいのである。
人を殺すのは物質的繁栄を競う争いに勝利するため、少なくとも負けないため。
このような思考が武士を殺した。

日露戦争の勝利は、この維新以来の思考を強力に推進するものとなったのだろう。
「西欧」の「大国」に対する勝利がなにかすばらしいものをもたらしたと錯覚させたのではないか。
実際に得られたのは、他国に対し我が国が優れているという優越感、自尊心。
人をたくさん殺し、物質をたくさん確保する。そのことで鼻高々に我らは世界の一等国、とうぬぼれたのである。西欧を優れた、進んだ国であると考えればこそ、そのような意識が出てくる。彼らがやっていることが出来たのだから、すばらしいと。
しかし、すばらしかったのであろうか。

幼稚で未熟な西欧文明の物質争奪戦に参入し、長い長い歴史の中でようやく残されてきた文化の本質、生き方を失ってしまった。
合理的な人殺し集団をつくり殺戮する。
それが人間の生の価値を高めることにつながるわけはない。

人を殺すことのみを合理的に考える西欧の発想と、それを実現する為の道具。
これを手にした者と、勝ち馬に乗ろうとする人々、それに長く培われてきた我が国の文化の本質が飲み込まれていったのである。
あまりにあっけない。

しかし、滅んだものが意義を回復しようとしている。
一方、今日優勢である考え方が、初めて批判されようとしている。
正しく評価できるようになったとき、我々はこう考えることが出来るだろう。
武士という生き方を殺すのであれば、むしろ、西欧に物質的な支配を許した方がよかっただろう、と。
しかし実際は、、支配されるという妄想がふくらみ、人間にとって最も重要なものを手放してしまった。

この歴史の中で、社会の倫理的な意識も衰微しいていった。
戦前の教育は成功していたのではなく、長い長い歴史のなかで少しずつ蓄えられてきた文化的・倫理的な財産を食いつぶしていたのである。
我々はそれがすっかり底をついたときに、ようやく気が付いた。
失われたものは大きく、回復は難しい。
生も死も頭にない幼稚な人間の国。
世界のどこかにはそうでない国が残っているかもしれない。
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by lebendig | 2005-03-23 02:14 | 日記

歴史・時間・無常

 あー、もうこんなに時間が過ぎ去ってしまった。
 私はいつもそう思います。
 実家のお墓に、本家から分家したときの先祖の一番古い墓が残してありますが、それは文化年間。本家の先祖は江戸時代の前までたどれて、さらにその前の先祖の話も伝わっております。
 某県庁所在地にあるお城が出来るよりも前から庄屋をしていたそうな。そのころも庄屋といったのかどうかしりませんが。
 そんな先祖が飢饉のとき蔵を開いて百姓を救った、などという話も聞きます。
 おそらく私から数えて十数代前でしょうか。私の曾曾曾…祖父ということか。
 たくさんの先祖が「家」を巡って様々に考え悩み生き死んでいった。その同じ家に私が存在している。そこにはその時代時代には無限とさえ感じられたであろう長い長い時間が、既に経過してしまったものとして沈殿しています。
 もうすでに。そして今私が感じる永遠の長さも「もうすでに」になってしまう。
 これはかならず、確実に、そしてあっという間に。
 家という変わらないものを見ることによってかえって時間の無常が見えてくる。
 
 しかし、家なんてものははかない。
 自然はより永遠に近い。
 おそらく海、そしてその寄せては返す波はこの地球が始まって、ほとんど変わらない。
自分が今見ている波と全く同じものを何千年前に誰かがどこかで必ず見ていた。
今あるこの自分と全く同じく、古代の人に思いをはせながら見ていた。
しかし、それはとうの昔に過ぎ去った。
それは今も同じこと。今のこの瞬間、確かに存在するこの瞬間。これもはかない。
今目の前にあるたしかな存在者達。手を伸ばせばそれらは私の手に確かに存在することを確かめられる。
自然を貫く法則はより堅固で、普遍的であり、永遠を我々に示している。
しかし、そんな世界もみなはかなく過ぎ去り、消えてしまう。
わたしと共に。

時間、歴史として私は存在している。
一方、私は存在を歴史、時間から切り離し、変わらぬものとして捉え、それゆえに、過ぎ去る時に驚愕する。
驚くべきは過ぎ去る時のはかなさではなく、変わらぬ世界を妄想する人間ではないのか。
すべては自然に、必然として、当たり前に、粛々と流れているだけだろう。

当たり前のことに驚く。
それは哲学の始まりともされているが、当たり前を発見したのではなく、人間の理性の限界、いや、粗末さを発見しているのではないか。
したがって、その驚きは、ついには理性の否定に至るだろう。
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by lebendig | 2005-03-20 10:24

タイトル変更

おもいなし
これではわからないでしょう。
ということで、哲学の最期というタイトルに変更。
私のライフワークと言ってもいいかもしれない。
詳細は過去ログ参照。

しかし、哲学以後、「学問」以後、現代以後が問題。
水に落ちた犬は杖でたたけ、とかいいますが、そんなことに関わっていたら時間の無駄。

次、行ってみよう!

って、あしたはどっちだ。
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by lebendig | 2005-03-19 02:06

だれかよむのだろうか

って、ここのことです。
何せ、見つからないでしょ。
内容も重いし。
しかし、見てもらいたいのか?
ウェブログでいいのではないか。
ログ。
昔はハム用語。趣味の王様。アイデアの王様。

最近、哲学いや思想の大きな転換、節目を自覚。
次回、投稿予定。
読んでね。

pingっての送信してみます。
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by lebendig | 2005-03-19 01:57

本のこと

最近気付きましたが、私の書いた本とはどんな本か、との質問をいただいていたようでした。
ただし、半年以上前に。
長らく中断しておりましたので気が付きませんでした。

言いたいことを書いているこのような場ですので、書名ははばかられます。
内容について説明したいところですが、ある程度以上説明すると、特定しやすくなってしまいますので、限度内で(ある程度絞ることが出来ても、特定できない程度で)紹介させて頂きます。

見た目からいいますと、ハードカバーで案外厚めの本です。
背表紙は白い本です。
内容は、とある有名な現代の哲学者の思想の解釈を軸に、哲学の本質的な問題を論じたものです。
それ、誰?ということですが、それを言ったら特定されやすくなります。
この哲学者自身が本質的であると言っている存在論的な主張を、理論的に考察したのですが、様々な制約のためこの作業をした人は極めて少ないのでばれるのです。
日本だと、近年某旧帝大を退官した方がずいぶん昔にある程度論じたことがあるくらいで、他には聞いたことはありません。
本国では、前世紀の偉大な哲学者が論じたことは有名ですが、戦後は正面からまともに研究したものは極めて少ない。
まあ、はっきり言って非常に解釈が難しく、内容とは別のところでその思想は批判されて議論を回避されることが多かったのです。
しかし、これは文化文明の根幹に関わる決定的な思想であったといえるでしょう。
って、同業者でしたら、ある程度わかるかもしれません。

自分自身でこの本は学問的な謙虚さからは遠く、正面からものを言ってしまっていて、無防備だと思いますが、間違いなら間違いと指摘して頂きたい。

哲学の学会というのは気持ち悪い。
正面からの議論を回避する。そしてそのために、正面から哲学的な問題を論じたり、取り上げたりしない。
さらに、卑怯なことに、あたかも正面から本質的問題を議論する!!ってな文体で書きつづる。
その実、幾重にも逃げ道を用意して。
よくあるのは、本人以外調べる気もしないようなトリビアルな文献の問題を根拠として、言いたいことを言うもの。簡単に言えば、根拠の検証を不可能にして、言いたいこと(詰まらぬ政治的妄想とか多いですが)を言うというもの。
はっきり言って、自分の思いこみを他者に押しつけるのが目的で、批判はノーサンキュー。

まあ、結構ですが、批判を受け、議論していく中で初めて前進がある。
もちろん、前に進むのが目的ではない、自己表現の方がたいへんおおいのです。
しかし、私はちがう。
なんでそんなに言い切れるかというと、明確な目的が他にあるからです。
最近、アンパンマンの主題歌の中にそれが歌われていることに気付きました。

 わからないまま終わる そんなのはいやだ

アンパンマン関連の歌すべてを作詞している、アンパンマン作者のやなせたかしは、手のひらを太陽に、の作詞でも知られ、生や死に絡む言葉がよく出てきます。彼の表現の動機にそれがあるのでしょう。
嘘でもいいから夢を見させて、という人が多いようですが(そのうち夢を本当だと信じてしまう)、私は疑い深いのか、それは絶対いやなのです。
いやな真実でもいいから、真実の方がいい。
なぜなら、偽りを信じていたとしても、真実は確かに一つ。
そして人生は一度。
真実の認識から初めて、一ミリでも確実な前進をしたい。
だったら、自分の詰まらぬ主張なんかどうでもいい。
おかしいところを指摘してくれないとかえって困る。

やたら長くなりました。
私にはまだまだわからないことが多い。
いや、一番大事なことのほとんどがわからない。
わからないと言うことはわかっているが、わかるとどうなるのかもわからない。
どうわからないのかもわからない。
徹底的に何もわからない。

しかし最近は「わかる」ということなどない、ということが得心されてきました。
本当に本当にわからないと納得する。
これもまた前進かと。
真実の認識、しかし、そこからどこへ進むのかこれもわからない。
すすまないかもしれない。
所詮人間は猿。
アミノ酸の固まりが、偶然作り上げただけの「存在者」。
そんなものがこの世界の本質的なことについて「わかる」なんてことがありましょうか?
人間は神の似姿、という宗教的妄想がなければ、ですが。

わからぬをわかる。いや、わかってはいけない。わからぬをわからない。わからないもわからない。
ようするにそんなことですが、字面を負っても意味不明。
仏教みたいなもんです。
しかし、仏教は最後のところでやっぱりわかってしまう。
わかったらだめ。
しかし、答えがなけりゃ宗教にならない。しょうがない。

仏教はいいや。
なんか話が遠く遠くへ来ました。
このように私は考えたりしますが、さらに、そんなことをふまえた上で、それを乗り越える知が自覚的に築けるのではないか、ともおもいます。
人間は馬鹿だが(人間以外もすべて馬鹿だが)、それを自覚すれば、馬鹿以上にはなれる。
その可能性はある。すこしでも。

しかし、私の本当の関心は知ではない。
死が一番重要。その反対の生、これがいとおしいから。
意識を持ち、自らの存在に気づいている人間存在にとって、これ以上の関心事はないはず。
これに興味なければ、それは逃避か、頭がアホになっているか、いずれかでしょう。

これを知るためには、人生は短い。
まだだれも確実な応えに到達していない。
自己満足はたくさんたくさんおりますが。
一秒でもはやく、そして確実に、少しでも前にすすみたい。
これが私の哲学の動機であり、姿勢です、
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by lebendig | 2005-03-13 01:37

戦前から腐っていた!

なにが?
日本人の精神です。
いや、ほんとにひどいものだ。
よく日本人は精神的にすばらしく、近年はぼろぼろだと言われます。
しかし、これは嘘。ひどい嘘。
べつに私、軍国主義ハンターイ、資本主義ハンターイ、社会主義マンセー、ではない。
というか、逆の人間。
文化的伝統において人間の本質があると考えておりますから、保守的かもしれない。
ハーバーマス、ハンターイ、です。
しかし、最近、戦争孤児の人が書いた、戦争孤児の戦後についての本を読みました。
前から戦争孤児の本を探していたのですが、なかった。
なぜ無いかというと、あんまりひどい体験をしてきたので、そしてあんまり悲しくて悔しいので、とても書けない、というのが実情らしい。
十万からの戦争孤児が60年前いたのに、そんな話聞く機会が少なかった。
話を戻して、何がひどいって、米軍の一般市民無差別殺戮数十万、これは言語道断。しかし、アメリカ人がそんなことするのは、彼らの文化の本質。ひどい人間だからではなく、ひどい文化だからです。必然で当たり前。
それはおいておいて、ひどいのは日本人。
本当に、この時代の日本人は最低。
親が目の前で死んでしまった六、七歳の子どもが、1年2年と誰も保護することなく乞食をして暮らしていたんだから。
それも、ごくまれに、ではなく、極めて多くの子どもが、です。
自分が六、七歳で、親も何もかも死んで、誰も助けてくれずに、むしろ疎まれたらどう思うか?
こんなこというと、その時代はみんな自分のことで精一杯だった、などと言い訳する奴らがいますが、まったく理由にならない。
そういうときこそ人間の本質があらわになる。
そういうときこそ助けなければいけない。
戦後の日本の繁栄は俺たちのおかげとか思っている連中は、彼らのこと忘れているのか。
幼い子どもを残して死んだ母親は、国や政府、日本人が子どもの面倒見てくれると少なくとも考えていたと思います。
馬鹿な都庁の役人とかは、孤児を檻に入れて、素っ裸にして、食事も満足に与えずに、餓死させたりしていたようだ。連中最低以下。というか人間以下。
行政だけでなく、親戚とか、誰も彼もが親がいないということを蔑んだり、いじめたり、貶めたり。
それでは当然、孤児は何も言わなくなります。
本の中には、「子どもは親に死なれたら完敗」と書かれていた。
小学校にもいけず、彼らは社会の隅っこに、今でも悲しく暮らしているらしい。
自分が孤児だとばれたら、又ひどい目に遭わされると思って、みんな隠しているということでした。
孤児だと明かしているのは、その後の人生が本当に偶然幸せだった人たちだけ。

とにかく、親が死んだ子どもに乞食をさせておいて平気だったり、さらに足蹴にし、踏みつけていた当時の日本人というのは、まれに見る最低な奴らです。
もちろん、ごくまれに私財をなげうって彼らを救おうと奔走する人々もいた。
しかし、ほんとうにまれ。
みんなそういう気持ちがあれば、彼らは救われたはず。
相当数餓死したらしい。その後、ひどい目にあって自殺したもの数知れず。

次の作文は、八歳の子どもが書いたそうです。

ぼくが二年生までいたお母さまは、三月の戦災で死んでしまいました。それからというものはルンペンをしていてもお母さまを思いました。
 それからアメリカ人にひろわれ、半月ほどお世話になっていましたが、そのアメリカ人がかえっていったので、またルンペンをしなければなりませんでした。ルンペンをすればやっぱりお母さまを思うのでした。それから東京へ来ました。そしてある人にひろわれてそこで半月ほどいましたが、それから麹町一時保護所へいって二、三日いましたが、萩山学園にきました。ここへきて校長先生からいろいろなことをきかれたとき、ぼくはすこしなみだがこぼれました。ああお母さま、と口にでそうになりましたがこらえていました。


六、七歳の子どもが死んだお母さんを恋しく想いながら、乞食をしていた。
ほんとに昔の日本人というのはひどいものだ。
精神が腐っていた。
いつから腐っていたのか。
これはおそらく明治維新以来でしょう。
詳しくは又次の機会に。
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by lebendig | 2005-03-08 01:47

猿の「学問」

気が付きました。
哲学だ学問だ、と、何かたいそうなことやっていると思っておりましたが、違いました。
学問に人類の可能性を託そうとしたりするのはやめましょう。
なぜって、もう結果が出ているからです。
環境問題は解決できませんでした。
問題はどんどん悪化するままです。
エコロジーとかいって、本質的問題の解決には目を向けてません。
どうすれば元の地球に戻るのか誰も知りません。
悪化のスピードを緩めるさえ出来ません。
これが人類の「ちえ」でございました。
自分たちが死にかかっていてもどうも出来ないんですから、「ちえ」なんてたいしたことなかったわけです。
この状況で、「人類の未来は学問の取り組みにかかっているのです」とかいってまとめようとしても、それはオカルトですね。根拠無いから。
私は、学問自身の中にかすかでもその可能性があったならば、そこにかけるべきではないか、と考えておりました。
でも、地球規模で気候変動、生態系の破壊が現実のものとなった。
そのとき、これはほんっとうにヤバイ、と努力始めればよかったのですが。。
何も始めず、希望もなく、、、でも人間って生きていけるもんですね、ワールドカップとか、他にいろいろどうでもいいことに熱中してすごしていく。
適応していると言えばそうですが、状況に身をゆだねることしかできない。
「ちえ」というのは、そういうものを乗り越えるためにあるものだったはず。
でも無かったのです。
猿知恵とか言いますが、人間知恵です。人間もまた猿。。。

しかし、そうとわかれば、「人間」以上になればよい。
「人間」よさらば。人間的な人間よ。
と、くれば、もう、人間を超えてゆかねばなりませんね。
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by lebendig | 2005-03-07 17:23