災難を待望する現代人

災害や疫病というものは、あたりまえだが、恐ろしい。
巻き込まれてしまったら、自分自身の生命がかなりの高率で危うくなるのである。
もちろん、家族や友人も。

だが、国とか地球レベルでの災害にはあまりリアルな危険性を感じない。
理屈では自分も巻き込まれる可能性が高いことは知っていても、
人ごとのように報道メディアの情報を求め、興奮している。
現代人は災害が大好きなのである。
昔から野次馬はいたし、公開される処刑に人は集まったものでもある。
そのいやらしいスケベ根性が、今日の災害待望の心理になっているのだろうか。

これは実は、単なるスケベ根性ではない。
現代人は、精神的に相当参っていて、災害を必要としているのである。
我々は、生きる意味を知らず、だが死はおそろしい。
そのニヒリズムの中で、不安を忘れることのできるものに、無意識に飛びつくのである。
ショッピングや趣味など。

そのなかでも、もっとも不安を忘れるのに好都合なのは?
災害である。
特に、自分自身も巻き込まれる可能性のある災害だ。
なぜなら、災害はとてつもなくおそろしい。
我々のぼんやりした不安は消し飛び、明確な恐怖となる。
よって、不安からは解放されるわけである。

しかし、本当に解放されたのではない。
とりあえず、忘れているだけである。
目の前のこの困難を克服することが、当面の目的となる。
究極の目的ではない。
だが、そんなことはどうでもいい。
いまは、それだけが目的だ。

究極の不安は、自分自身の死だ。
無になり虚しくなり、何もない。
私も何もかもが、とぎれて戻らないのだ。
それは無という、底なしの暗黒である。
そんな救いのないものが人生の目的地であるのだろうか?

だから、我々は災害が好きなのだ。
災害の死の危険性によって、自分自身の死への不安が消し飛ぶのである、が、
本当は、全く消し飛んでいない。
災害であろうが、病死であろうが、
人生が短かろうが、長かろうが、
いずれにしても、死は、圧倒的なのだ。
そして、現代人は、全くこの不安に対する処方箋を有していない。
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by lebendig | 2009-05-01 00:41
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