まずいものを食いたい、体に悪く、不愉快になる食べ物を食べたい、と思う人はいない。
ゲテモノ食いと呼ばれる人もいるが、好奇心から食べているのであって、まずいものが食べたい訳ではない。 何のヘンテツもないみそ汁。 しかし、塩加減が微妙に濃かったり、うすかったり、それだけでまずいものは出来上がる。 塩梅と言う通り、塩加減と酸味は美味い/まずいを決定する。 ちょっとだけ塩加減が微妙に薄いくらいがベストだと思っている。 塩加減ベストだと、食べている途中で嫌になってくるのである。 腕のすごくいい料理人とは、塩加減の料理人なのである。 本当に、ちょっとですばらしくなったり、下品になったりする。 人間の下とは不思議なもんだ。 まぁ、それはそうと、料理人とは幸せな職業だ。 美味いものを作れば、自分はうれしいし、もちろん食べた人はうれしい。 それも、理屈とかそんなもの抜きにして、敵であろうと味方であろうと、うまいと評価する。 絶対的な基準がある。 いや、個人個人の自分だけの味覚の体験が事実としてあるだけで、解釈やらでその事実が消えたりすることはない。 美味い、まずいの否応ない事実が成立する。 屁理屈垂れる暇はないのである。 ほかの職業ではこうはいかない。 特に哲学。 本当にまずそうなものを垂れ流している馬鹿もいるが、これに延々と気持ちの悪い能書きを垂れるのである。 いや、論文や著作のほとんどが能書きである場合も多い。 そしてまた、この根拠なき自画自賛の能書きにだまされたり、ありがたがったりする馬鹿な読者がいて、この両者によって「哲学書」が支えられているのだ。 そんな本、この世に存在しなくとも全く人間社会に影響ないよ、というような紙の無駄が書籍の哲学書コーナーを成立させるのである。 中身で勝負と行きたいが、その実中身を吟味してほしくない人間が多い。 たまに無防備に本音を書いたりすると、それがもうくだらなーい所感であったりする。 そりゃ誰でも評価されるのは怖い。 しかし、正直にしておかないと、いつまでも誤りは訂正されない。 いや、もしかすると彼らは自分たちの出すメシがまずいことを十分承知しているかもしれない。 しかし、まずいのは作った飯ではなく作る人間自身なのだ。 だから、もうこれは能書き足れたりくどくどいってどうにかなるならそうしたいのだ。 本当に自覚し意識しているかどうかは知らない。 意識の下に隠しているのだろうか。 その不誠実さはみにくい。 哲学の世界では、うまい飯を食うことは難しい。 まずい飯が当たり前になっている。 飯とはまずいものだ、こう言う風に誰でも考えるようになっている。 昔、ラーメンはそういうものだった。 いまは、うまいラーメン、まずいラーメンがあり、みなうまいラーメンを求め、その観点から評価している。 しかし、昔は、こんなもんだろう、醤油ラーメンは、みたいな感じだった。 むしろ、ラーメンはこういうもので、うまいラーメン、まずいラーメンと言うラーメン内での格差はないと思っていた。 だから、まずいラーメンを食べてもまずいと思わなかった。 哲学を吟味する舌が必要なのだろう。
by lebendig
| 2006-09-04 16:39
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