近代の否定の行き先

近代の行き着く先が、今日の人類社会の現実である。
人間がむなしく生き、むなしく死ぬ。
それだけでなく、子孫の未来を奪いつつ、である。
偉大な人間は消え、まさに最後の人間、末人ばかりである。

いや、そんなにくだらない人間ばかりではない。
しかし、偉大な人間なんてものは、本当に一人もいなくなった。
それが深刻な問題なのだ。

どのような人間でも、最終的には本当にくだらない個人的な利益を重視する。
もちろん、哲学者なんてものもその代表である。
昔は違った。
功利主義なんて義理も人情もない、公共事業の屁理屈的根拠になっている。
しかし、ベンサムは貧しい人々、苦しむ人々の悲惨を救わんと構想したのである。
彼に限らず、マルクスであろうとだれであろうと、偉大な思想家は偉大であった。

ただし、その結果は逆になってしまったが、、、、

それでもいいのである。
それだけ自分のことでなく、他人のことを考えていたのだから。
そういう偉大な人間がいること、それをしることがどれだけ重要であったか。

エートスである。
人間を根本で支えるのは、義理人情心意気なのだ、実は。
哲学倫理の屁理屈がどんどん「進歩」して、人間、そして中でも哲学者は最低になった。
キモイ偏執的重箱角的哲学や、自分探してつがく、団塊世代的退職後も生き生き哲学とか、もう小市民的喜び哲学で書店が埋め尽くされている。
まぁ、はっきり言ってさだまさしとかかぐや姫とかのフォークの世界ってキモイとつねづね思ってきたが、そういう哲学が日本ではドロドロ出てきてもうだめである。
日本だけではないが。

そんなことでなく、もっと遠く、高く、深く、ひろく、考えるのが偉大な人間だ。
遠い未来の子孫、遠い国の人々を救うために思索すればいいではないか。
自分の核家族と、ルサンチマン共有友人の閉鎖サークルのなれ合い、傷のなめ合い的幸せのこtばかり考えてキモキモである。

当然全ての人間が偉大になれる訳はない。
しかし、なろうとしないのはどういうことか。
なれないとき傷つくから、小市民的キモ幸福で妥協しておいたというのだろうか。

グローバリズムではなくて、グローバルなキモ世界化である。
放っておけば人間社会はドロドログズグズになる。
だからこそ、遠く、高く目指していかなければならない。
そのことで人間は偉大になるのである。
[PR]
by lebendig | 2006-09-03 10:02
<< 食道楽 剽窃学生 >>