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哲学と靖国

西田幾多郎は鎌倉で近衛文麿の訪問を受けていたという。
当時は「哲学者」が買いかぶられていたのだろう。
しかし、妄想や幻想が取り除かれた今の感覚で考えると、信じがたいことである。
西田幾多郎と言えば、歴史の教科書に必ず登場する評価の定まった哲学者という感じだが、しかし、じゃあ今、西田をアクチュアルな哲学者として研究している者があるかというと、そんなやつはいない、ということになる。
もちろん、アナクロな連中というのは学問の世界にはかならず端っこのほうに群れて、自分たちワールドを作っているもので、これもいます。
しかし、そういう人たちだけのためのヒーローでしかない。

アナクロニズムな骨董趣味の哲学研究者というのが何の役にも立たず、現実との乖離を前提として生きる寄生虫みたいなもので、ひどいものである。そりゃあ哲学のポストも全国的にどんどん減っている現実もうなずけるというものだ。
哲学の学会の内部では、ヨーロッパの哲学史のあらゆる時代の代表的な哲学者の全てにそれぞれ専門家が十分いることが望ましいと考えられている。
そして、日本哲学界などでも例えば、古代、中世、近世(英/独仏)、現代(英/仏独)みたいな、大きなくくりを作って、それぞれに発表者のわくみたいなのをこしらえて発表させている。
しかし、ちょっと待て、といいたい。当然。
なんでそんな者が必要なのか、と。
確かに哲学は歴史を学ばずには議論の文脈さえわからない学問である。
しかし、これまで相当に研究がなされていて、もうほじくってもしょうがない。
また、日本の中に全部そろえておく必要も無い。
日本の中に西洋哲学史の小宇宙でも作る気なのかといいたい。
しかし、実際には、もう研究者が減ってきてしまって、発表のレベルも最近ではドクター、オーバードクターの発表がマスターレベルに落ち込んでいる。
まぁ、おそらくこの調子で行くと、十年後には代表的な大きな学会も無くなってしまうかもしれない。
実際、学会で若手をみることが少なくなった。
哲学自体が西洋哲学を必然的に要求しなくなったこと、団塊の世代の辛気くさい研究が全く魅力なく、若者にウザがられているということ、これが大きな要因だろう。

いずれにしても、今日の「問い」がなければならない。
そしてそれは、西洋哲学の歴史、これが根本から否定されねばならないのではないのか?というものなのだ。
東洋の思考を無理からに西洋哲学的思弁、偏った「論理」的思考に接いで書かれた西田の著作なんてのは、今日では本質からひっくり返されなければならない。
非西洋の思考の立場から、哲学的思考を批判し相対化する、これならばGJである。
その逆は、おはなしにならない。
もっともいらない哲学である。
学問がヨーロッパ的な作法で表現されねばならない、という強迫観念は、しかし、いまだ強固なものである。

ところで、靖国神社も同じようなものである。
神仏混淆であった江戸の宗教は、神道も仏教も無い。ごちゃ混ぜである。
神道と仏教、その他諸々の神々、霊魂、これらが同じ世界に住んでいた。
この混沌の世界が現実と観念的世界をグニャグニャグニャッと接続していた。
もちろん、胡散臭い宗教である。
しかし、だからこそ、彼らは現実的であったのだろう。
純粋な原理的宗教が荒唐無稽なあの世を大まじめに信じるのとは違っていた。
だからこそ、この世に生きることを彼らは慈しみ、生きて出会いがあることをかけがえの無いこととして大切にしていた。
オカルト的妄想の世界の人々がいとも簡単に大量虐殺をしてしまうのとは対照的である。
イスラエルが無差別に小学校に爆弾を落としてこどもを殺害したり、水道、電力などのライフラインを破壊するのは、そんなところから理解できる。
これに抵抗する人々が彼らと同じ純粋な原理的宗教へと向かっていくのは、しかし、由々しいことである。
どんな宗教を信じている人間でも、小さいこどもが無惨に殺されていくことに、意義を与えることなどできない。
それを悲しまない人間がいるだろうか。
ユダヤ人はパレスチナ人のこどもが無惨に死ぬ姿を見て、どう思うのだろうか。
もしかしたら、おぞましいことを考えているかもしれない。

明治に入って行われた廃仏毀釈に寄って、神仏混淆の歴史が無理矢理に終焉させられた。
そして神道をキリスト教のような者に改造しようとしたらしい。
しかし、神道なんてものは西洋における宗教の概念とは別のところにあるだ。
というか、ヨーロッパの宗教はきわめて特殊な、オカルト宗教であり、洗脳、信者拡大のための宗教である。だから、広がったのだ。こんな恐ろしい者のようにするためになにがおこなわれたのか?

天皇が神である、としていたが、しかし、「神」とはなにか?
これが重要だ。
しかし、これは西洋的解釈により、オカルト的な神と解釈された。
人間宣言しなければならなかったのはそのせいである。

明治に入って作られていったオカルト国家神道は、死んだ者を全部神として祀るという、瞠目すべき長州の土着宗教を取り入れ、靖国神社とした。
もちろん、そんな神道、明治になるまであった試しは無い。
怨念を沈める、あるいは、大きな徳をなした者を顕彰するための神社はある。
天神様や天草の鈴木神社とかだ。

家康が祀られている東照宮、これ信仰する人いるんでしょうか?
江戸時代はいたと思いますが。
まさに靖国神社は現代の東照宮。
政治的な都合で作られた、訳の分からない宗教。
信じて死んだ人はあまりにもかわいそうである。
だから、靖国はきちんと国家の意思でつぶして、インチキ宗教信じさせて死んだ人たちに詫びなければならない。
東照宮は、そんな罪はおかしてない。
オウム真理教は犠牲者がずいぶんいるが、靖国神社の数百万人と言うのとは5〜6桁違う。
信じて死んだ人のため参拝しなければ、って、信じさせたんだから信じていたのは当たり前。
彼らの自由意志で選択した宗教ではないのである。
しかも、不誠実なインチキ宗教だ。
これを、「日本人の宗教観はぁっ、」と口角泡飛ばし、口をとんがらせて主張している輩は全然わかっていないのだろうか。
オウムを信じて死んだ信者を弔うのに、オウム式で上九一色で行うのと同じ意味を持っている。

無理からに国家の宗教をつくれば、西洋の列強みたいな国になってかっこいいとかおもったのだろう。
明治政府の馬鹿どもは田舎から出てきて、何にもわからなかったのかもしれないが、ほんとにひどい。
わかっていたのは、大量殺戮した者が勝つ、ということ。
人間性を売り渡して手にした勝利だ。

良くこんなことを言う馬鹿がいる。
やり方とか、思想はともかく、明治維新がなければ日本が滅びていた、と。
第二次大戦と全く同じ理屈。
そりゃそうである、だいたい同じ連中が、同じ理屈を後から付けて自己正当化したのだから。
しかし、だまされてはいけない。
どうやって日本が滅んだのか。具体的になんかあるのか?
妄想である。いや、作り話である。
しかし、何十年も政府がごり押ししてきたこのレジティマシーは、糞であるが、長過ぎた。
あんまり、長く言い続けていると、本当に信じるやつばかりになる。
私は嫌いだがすきな者の多い司馬遼太郎とか、その辺の連中も信じきっている。

しかし、だ。
日本は滅んだ。
敗戦によってではない。
明治維新のとき、本当に日本の尊い歴史と文化が破壊され、残すべきものが死んだのである。
明治からこのかた日本人が本当の最低民族になったのはなぜか?あんなに尊敬すべき人間が社会の上からしたまで、犯罪者でさえ人格者であった国であったのに。
今では、警官、学者、教師、さらには僧侶、神官までも、そして政治家に関してはもはや当然、犯罪者であり、尊敬とは最も遠い民族と化したのである。
こどもたち、子孫に残すべきであったのは何か?
馬鹿が天皇担いでやりたい放題なことやって、(仕舞には天皇を暗殺)、この下品な情けない国となった。
最近靖国とか担いでいる連中、昭和天皇の本音が暴露されると、こう言った。
人格としての天皇とかは問題じゃない、と。
これは、明治新政府の連中とおんなじ考えである。
天皇なんざぁどうでもよい。しかし、これを握っていると何でも許されるのだから、担ぐのだ、と。
ひどいやつらだ。
そして天皇に洋服を着せたのである。

これは明治以来の哲学者たちも同じである。
同罪である。
もちろん、いまだに西洋文明が滅びかけているのを認識しない哲学者は、横のものを縦にして得意げで、目も当てられない状態のままで、靖国神社のことなんざぁ、チンプンカンプンだろう。
ばかが。

馬鹿だねー。
もう日本も地球もおわりだね。
物が分かっている人間、いや、人間がいないのだ。もう。
by lebendig | 2006-08-24 00:01
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