人格の陶冶

今時、学者で人格をどうこうしようとする人間は皆無になった。
そもそも、人格という語の意味自体が軽薄なものとなっている。
それでまた、何の努力もせずに、業績を積むと人格が「偉く」なる、と考えるアホ学者まで出るに至っている。
そもそも、今日のような科学やらの学問は人格の陶冶と全く全然関係なし。
人当たりの良さとか都合の良さでしか人格をうんぬんできていない。

しかし、人格は重要だ。
その人間がいかに生きるのか、その生き方を自らの努力によって形成していくのである。
これよりも人間の可能性を実現する道はない。
初期条件ですべて決定されているのが今日のアホな人間たちであるとするならば、逆に、人格を陶冶しようと目指す人間には本当の意味での自由がある。
人格の陶冶こそが人間の最高の可能性だ。

まじめにそれがなされていた時代には、すばらしい人間がいたし、人生の意味、意義を最高足らしめ得たのである。
それに比較し現代にすばらしい人格など存在しない。
だからこそ、目指すべき人格もみつけられない。
さればこそ、目指さない。

一般には、人格の陶冶というと、社交的な面から見て角をとっていくということや、共感する能力を磨く事、さらにくだけて言うなら、情にもろいほどいいとか、お人好し、そんな人間になる事を言っているようである。
または、逆に、困難に耐える資質、誘惑に負けない資質、欲望を許さない資質、感情に溺れない資質、それらを磨く事、簡単に言えば「頑固」になること、これを言ったりする。
しかし、それはある面で必要なものかもしれないが、一面にすぎないし、また、人格の陶冶の目的とはなり得ない。

では人格の陶冶の目的とは何か。
もちろんそれはあるべき人格を形成し、生の可能性を最高足らしめることだ。
それは単に社会生活を順調なものにする為ではないし、迷いが無い楽な状態を目指すものでもない。

今日の学者は知識が得られればそれで「サイコー」と思っているらしい。
対象しか見えていないのである。自分自身は知識によって勝手にどうにかなるとでも思っているのだろうか。
知識の意味なんてものは、自己のあり方でどのようにでも変化する。
そんなことは古代からの常識。
現代においては非常識か?

儒教は形而上学を消極的に否定し、社会生活上の倫理を重んじた。
そこに言われる徳は、当然、我々の存在の意味という究極的な、存在論的な答えではない。
仁すなわち忠恕とは、「私」だけに完結するものではない。
それは「社会」を前提としている。

しかし、人格の陶冶は社会との関わりが大きいが、しかしまた、我々の理性はそもそも社会的なものである。おさるさんが群を作る中で発達してきたものである。
「テツガク」するためにできたものではない。
形而上学、存在論のためにはできてない。それは特殊な使用法だ。
その特殊な使用の為には、我々は考えなければならない。
これまで屑の山を作ってきたテツガクの轍を繰り返してはいけない。

そのためにも、人格の陶冶は必要だ。
ただ何をすればどう、というのではない。
我々の生の意味を求めるにあたっても、人格の陶冶は必要なのだ。


ところで、どうすればいいのか。どういう人格が必要なのか。
簡単である。
最も重要な事を成し遂げられるように、その為に必要な資質を身につければよい。
もちろん、最も重要な事が何か、これは議論の余地がある。
生の意味か、存在の意味か。
しかし、都合良い人間になる事ではないし、感情欲望に流される人間でもない。
感情欲望を否定するだけの人間でもないし、知に傾いた人間でもない。


いや、長くなった。
知、人格、感情、、、、、また別の機会に深く論じていきたい。
[PR]
by lebendig | 2005-10-25 12:02
<< 人格とは? へこんだときこそ粘る >>