偉そうな物言い=腐れ

個別科学の実験人足による「業績」の山とちがい、非実験系文系の論文というものは、そもそも「正しい」事など無い。
特に哲学なんてのは、十中八九嘘、ではなく、万に一つも真実無し。
同じく、宗教も、万に一つも真実無し。
なぜか。
どれか一つ「正しい」説があるならば、他の全部は嘘だからである。
つまり、ほとんど嘘になる運命にある。

よく考えればそうなる。
しかし、自分が見えていない「哲学」においては、そんな奇特な事考えているものはほとんどいない。
なぜか、自分だけが運がいいのか必然なのか、いずれにしても、なぜか真理を把握していると思いこんでいる。
それゆえに、非常に傲慢になる。
以前の日本哲学会の会長やっていた某なんてのはその典型。
大時代の哲学なんぞ信奉し、法を犯すことなどもしたらしい。
最近、へりくつまみれの、人身攻撃による「研究書」を著されたりしています。
年をとって制御がきかなくなり、本質があらわになってきたのではないか。
それにしても、確信犯。
自分のへりくつ能力ゆえに、何か真理でも把握しているとでも……

まぁ、我が国独自の哲学をつくった昔の哲学者達、たとえば西田とか田辺とか、文体がひどい。
えらそーに語っています。
たしかに、当時としては大変お勉強したのでしょう。

しかし、その説は嘘か本当か、と問うなら、嘘である。
嘘をあんな偉そうに語るとは情けない。
実際読んでみてもらいたい。

日本人が古来、不遜な文体を好んでいた、と言うことはない。
不遜さは明治以来ヨーロッパから輸入したもの。
そこに既に事の本質があきらかだ。

自分だけ何か特別で、なぜか真理を知ってしまう。
こういう幼稚な思いこみがヨーロッパを貫いている。
幼稚な文化。
主体とか、主観とか、そんなものが好きなのは、「大人」になれなかった子供です。
まぁ、かの主観が神や世界、歴史にまで拡大して訳のわからなくなった哲学はその極限でしょう。

当然、自分が特別だという意識があるわけで、不遜になるのは必定。
幼稚な不遜さ。
戦前なら、ありがたい西洋の学問の先生と言うことで、それもゆえあってのことと黙認されていたのでしょう。

しかし、我々自身、人間自身、それを謙虚に考えて初めて何かしら正しい事への道が見えてくるのではないか。
謙虚な姿勢、高をくくらない、自分を買い被らない、それが必要ではないか。
文体だけではない。

文体内容、えらそーなのは読む価値無し。
文体がすでに内容を制約している。
知を「誇る」のは、腐敗した文化である。
そもそも、「死んだ」はずの学問が、なんでえらそうなのか。
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by lebendig | 2005-07-26 22:57
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