明治以来のすべては無用の歴史だった。
たしかに、世間一般でさえ第二次大戦は、特に日中戦争は不要だったと認めている。 だが、ヨーロッパ流の近代国家となった事や、物質的繁栄を謳歌するようになった事について、否定するものは少ない。いや、いるのだろうか。 ヨーロッパ諸国と物質的繁栄を競うようになった事、彼らから同じような社会集団と認知されるようになった事、これは今でも「誇らしい」ことであろうか。 明治維新がなければ、西洋列強に飲み込まれてしまった、というような話がよく出てくるが、そんな事があっただろうか。 そもそも日本は当時最大の都市文化を持った、政治、経済、社会制度、文化、産業、教育、社会資本、すべてにおいて整備された、しかも、精神文化・伝統に優れ国だったのである。 文化破壊と愚民政策によって植民地を維持してきた西洋諸国が、同じような形で支配する事などで来たのか。 いや、物理的に支配する事が仮にできたとしても、それがいったいなんだと言うのであろうか。 人間社会、国家、そこで最も大きな財産は人間である。 すばらしい人間が生きているだけで、その国に生きる価値がある。 明治維新によって命を奪われた者、生きる場所を奪われた者、彼らが日本という国の意義だったのではないだろうか。 日本文化として靖国神社が数え入れられたりする事がある。 これは全くの倒錯である。 なぜこのような似非神道が通用しているのか。 中国も左翼も全く関係ない。 明治以来、それ以前の文化や歴史が書き換えられてきた。 それは別に最近の教科書の話でもなければ、昭和に入ってからの軍国主義の話でもない。 天皇を担いだだけの、西洋にまねた殺戮集団を組織していた特殊な集団の行状を正当化するために、すべて書き換えられ、ねつ造され、生み出されてきたのである。 文化にとって生のあり方とは、本質でありすべてである。 その条件としてのみ、形而下の様々な事柄が考慮されるべきなのである。 明治以来の軍隊に武士などいない。武士気取りはいたかもしれないが。 自決は切腹ではない。切腹は死を軽んじる行為ではない。死を重くとらえるからこそ、選ばれる生き方なのである。 今日の我々のこの国は、全く生きるに値しない国であり、かつて偉大であったものがすべてこの百五十年間に朽ちてしまった、カスだけの国である。 明治以来の西洋コンプレックスと倒錯の思想、もう不要だろう。 この腐臭漂う国を何とかしようと思うならば、すべて投げ打つ必要がある。 与えられた状況の中で生きる事ではなく、自らが歴史を作り出す事が必要である。 明治維新以来の歴史に対する日本人の態度は、ただ、状況の中で生きていることと同じである。作られた歴史を、歴史として生きている。しかし、生の価値を最も高めるには、生きる事の意味を自ら切り開き、その観点からこれまでの「歴史」を批判する事が重要である。 我々に生きる価値があらんがためには、今日の状況を生み出したすべてを徹底的に批判的に考えなければならない。 では、明治以来の歴史を本質から否定するという事により、何が得られるのか。 作為的に作り出されてきた、幕末以来の様々な偶像と、それに伴われている価値、これの否定は、人間の生きるべき生、あるべきあり方、これを考える上での重苦しい足枷を取り除いてくれる。 偶像たちが「国家のため」「日本のため」などと「高い志」を持っていたということ、そして、それが今日においてもあるべきあり方の一つの指標になっているという事、これは否定されるだろう。 ヨーロッパ文明の本質を理解せずに、国を際限なき物質争奪のための殺し合いに導いていった、そのことに弁解の余地はない。それは国のあるべきあり方などではない。最低のあり方である。その争いに勝利したとしても。 そのようなさもしい、幼稚な国家や社会のあり方に理想を見いだすというようなこと自体、人間が生きるべき条件を倒錯していたとしか言いようがない。 しかし、自己を国家に投影し、その国家が物質争奪戦の勝者となることを夢想し、悦に入る、このような人間が、志のある人間などとされてきた事は、情けない限りの事だろう。未だに、このような幼稚な「こころざし」を理想と考えるような者もある。 さらには、口先だけの言い争いに勝ち、優越感に浸るという「こころざし」もある。何でもいいから、「国」に関して優越感を得たい、そんなつまらない了見で「天下国家」が語られている。そのような妄想の世界に行ったきりの己の姿は哀れではないのか。小さい子供ではない、一人前であるはずの大人たちである。 本当であるならば、はかなく終わる人間の一生の、その価値、意味を最も高める社会のあり方を考えるべきである。これまで我が国の心ある人間が残してきた言葉は、結局、人の一生の儚さであり、それを深く理解した上で生きなければならない、ということであった。 他国に物質的な力が勝ればそれは至福、などという倒錯はなぜ正当化されてきたのだろうか。このように腹の底から疑問がわかなければならない。 そのとき逆に、我々が、あっという間に過ぎ去っていく人生の中で、何をなすべきか、そして、その一瞬のときをともに過ごす人々に対して何をなすべきか、ともに何をなすべきか、それが見えてくるだろう。 無限の時間の中に一瞬の私の存在。もちろん、「国」であろうが「社会」であろうが、それらも一瞬。そこから始めなければならない。
by lebendig
| 2005-07-13 00:19
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