人類滅亡の哲学、その最期

哲学が内部でグダグダ議論を続けていることは、「事実」の前にはむなしい。
しかし、哲学は自らが論ずることを長く現実に影響を受けることのない、抽象的な本質の世界の事と考えていた。
したがって、哲学もまた事実の前にひれ伏すこともない、と考えられてきた。
もちろん、哲学をする肉体、現実の個人は事実にひれ伏さなければならない。
すなわち、死の前には無力であり、もちろん失恋に絶望し、コンプレックスにより、偏屈者になったりする。
いや、そのコンプレックスにより偏屈な哲学者になった者も多い。
さらにいえば、偏屈ぶりが強い者ほど、後に名を残す哲学者になったりする。

ここで言う「哲学者」は全く褒め言葉ではない。
それは、コンプレックスを「忌むべき事実の世界」からかけ離れた抽象的な本質の世界に逃れることで忘れようとした、情けない者のことであり、嘘話を自分で信じて酔っている世捨て人の事なのである。

自らについての「事実」(死、挫折、コンプレックス等)については、現実存在、すなわち「実存」(現「実存」在)という概念で、抽象的な思索に取り込み、事実を抽象の世界に回収しようと試みられた。あるいは、抽象的な事実から乖離した思索を現実に根をはる、真に力あるものとしようと試みられた。しかし、それはまだ「哲学」の可能性を前提してのこころみであった。

もちろん、事実、現実の意味を理解するとき、伝統的な哲学が終焉せねばならないということを、その哲学自身の言葉で証明しようと試みた哲学者達があった。ニーチェである。

ニーチェは一方で抽象的な概念によりそれを試みた。
これは「権力への意志」概念であり、それは失敗した。当然である。
なぜなら、そのような概念が力を失うことを証明したのであるから、矛盾である。
一方、彼は哲学以前からの思想の歴史を本質から理解することによって、哲学を相対化し、それ故に否定した。これは成功したかに見えるが、しかし、哲学内部ではなく外部から、すなわち歴史の事実から証明したのであるから、これは哲学内部においては納得させられないものであったのである。

哲学が、従って理性が、ヨーロッパにおいては何らかの重大な事柄に関する最も重要な決定の場であった。それは、ニーチェにおいてもまたそうだったのである。
たとえ哲学自身の終焉を認識していたとしても、なにがそれを認定する場であったか。
それは、哲学だったのである。
ニーチェは、自身、語るべきではなく踊るべきであった、と語っている。

しかし、今日、我々は哲学に最高機関の地位を与えているのだろうか。
だが、哲学以外にも与えていない。
歴史的状況が変わっているのである。
この状況で、人類の知性、最低の知性の可能性が否定された。
人類生存の可能性について、知性がそれを果たすことが出来ないと判明したのである。

これは既に書いたことである。
このことの意味について、更に深く考察してみたい。

理性。
ヨーロッパ文化においては、それが重視され、すばらしい能力と捉えられてきた。
これは一面においては宗教的であり、一面では機能においてである。
これは後者、実用における機能はすぐに測定されるのであるが、しかし、前者は、あるいはそれ以上の意味においては、不可能である。
これは何らかの目的から切り離され、それ自身において完結する意味、意義を認められていた。

それ自身において完結していること。
これは目的から離れ、意味、意義を持ち得るためには必要なことである。
しかし、絶対に切り離し得ないものがある。
それは人間の存在である。

もちろん、神の似姿と考えれば、本質的な意味で理性と切り離し得ないのは神の存在である。
そのとき、神の存在を否定すれば、理性は否定される。
だが、人間の存在は前提されなくとも良いのである。

神が存在する。
このことを信ずる人は多い。
しかし、もはや哲学の議論において、いやあらゆる学問の議論において、神の存在を臆面無く前提するのは神学のみであろう。
神は無い。もちろん、あって欲しいのはやまやまであるが。
願望を事実と思いこむ。これは先ほど言った「哲学者」である。

神がない。これを前提とするならば、理性は人間存在、人類を前提する、ということになる。そして、その理性が自己完結し、それ自身が意味を持つということが言い得るためには、それが、自らの根拠であり、他のものに依存していないことを証明しなければならない。

その最も根本的な条件は人間の存在である。
これを理性自身が支えるということは、簡単に言うならばこうである。
すなわち、理性は人類の存在を確保しなければならない。つまり、人類はその知恵、理性によって、決して滅びることのない存在でなければならないのである。


これが事実によって否定された。
もちろん、いかなる天変地異が起ころうとも、何らかの偶然によって少数の人類が生き残ることはあり得る。しかし、生物学的な種の問題ではない。
理性によって他の動物とは本質的に異なるものとなった人間であり、しかもこの能力は最高の可能性を持つ、他の条件に依存しないものであり、それが自らの価値を計り、その優秀性を証明し得るほど優れたものでなければならない。この前提が崩れたのである。

これは、理性の外部から理性の否定が確定されたことを意味する。
このことが喜ばしいことかと言えば、そうではない。もちろん。
なにしろ、人類が滅ぶこと、そして、人間なんて滅ぶに値する存在であるということ、すなわち、理性は目先の利益のためにしか結局役に立たなかったと言うことが証明されたのであるから。
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by lebendig | 2005-04-25 01:24 | 日記
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