教育制度崩壊へ

とはいっても、明日とか来年とかではない。
そのうちに、である。
が、確実に、でもある。
そして、いつの間にか、そうなるだろう。
それは人間が変質したからである。

質が下がったとか、変わったとか、そういう単純な話ではない。
本質が変質したのである。
哲学的に言うと、本質なるものがあって、それが変質するなんて事はありえない。
もちろん、ここで言う本質とは、人間を成立させるもっと野根本的な性質のことで、プラトニズムとは関わりはない。

戦時中、国を守るために死んだ若者がいた。
国というと、廃仏毀釈で純粋化された「国家神道」という明治以来の「神話」と近代国家理念のまさに混淆物であり、そんなものを信じていたのはほとんどいなかっただろう。
そうではなく、そこでの国は、人と人がつながり作り出された社会のことで、一人一人がそれが確かに存在することを信じていた、目には見えないが確かな人間の人生のよりどころのことである。
そういう若者だけでなく、古い時代には信じられてきたそのよりどころを守るため、人々はその目に見えないものの実在を前提し、確認しながら己のあり方を定めてきた。
そういう人間が集って初めて高度に組織化された現代社会も営まれてきたのである。
しかし、団塊の世代はそうではなかった。
個人の自由の価値の対局に社会がすえられた。
そして社会は今無くなった。
あるのは「同好会」のような人の集まりだけである。

教育は人間の人生のよりどころを確信させ、心に深く刻みつけることを中心にしなければならない。
そうでなければ、社会が無くなるからである。
しかるに、学校では自由を教えるのみである。
このバラバラの、膠質を欠いた人間集団がいくらあつまったところで、バラバラの細胞が物理的に集まっているだけである。
社会にはなれない。
どんなに寂しくても、なれないのである。

昭和一桁がほぼ引退しつつある現在、社会は至る所で自壊を始めている。
つなぎがなくなったのである。
つなぎを入れないハンバーグはぽろぽろしている。
挽肉炒めの固まりである。
今後の社会も挽肉炒めになり、ハンバーグにはなることはないだろう。
そういう社会は、次世代を組織的に教育できるのか?
もちろん出来ない。そして教育なるものが何かさえわからない。

学問って、就職に役立つアレのことだよね。
そういうことにもはや半分なっている。
教育・学問はすでに死んでいるのである。

文科省にはこの傾向、つまり、自由を植え付け、社会を解体し、組織化する、という明治以来の恐るべき社会は改教育を変えなければならない時期にあることを自覚してもらわなければならない。

その前に、学者ががんばらなければならない。
巨大なサイエンスシステムの中でひたすら業績を積み上げるルーチンワークを行うのは学者ではないし、人間ではない。
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by lebendig | 2011-02-19 02:02
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