就職難時代に顕著になった世代間差別

環境問題においてよく「世代間倫理」の必要性が指摘される。
今の世代は次の世代に対し責任ある行動をしなければならない、ということである。
現在、我々はそうしていないからこそ、指摘されているのである。
ただし、環境問題という茫洋としてつかみ所がない問題だけに、その欠落は明確に意識されてこなかった。
だが、バブル崩壊、リーマンショック、ギリシア危機と経済の世界的な危機状態に際して、極めて明確に世代間倫理の欠如が認識され始めている。

10年前の就職氷河期から多少の回復はあったが、ここへ来て昨年の就職難、そして、今年は更に悪い状況が予想されている。
ここ10年、あるいは20年、大学卒業のタイミングに就職の機会を逃しただけの若者が、未来のない人生を送ることを強制されている。
もしかして、どこかの会社に就職したりしていれば、彼らはまじめに働き、今頃は結婚し、家庭を作って子どもを育てていたに違いない。
卒業後3年は新卒扱いをするよう求める法律など検討されているようであるが、非本質的である。
なぜなら、問題はそこにはないからである。
社会が若者に仕事を与えることを真剣に考えていないことが問題なのである。

現在50代後半から60代の団塊の世代とその前後の世代の人生を振り返ってみればよい。
彼らは大学を出ていれば文句なく、高校卒業なら当たり前のように、そして中学卒業でも金の卵として就職し、みんな毎年給料が上がっていった。
一方で、彼らは自由を謳歌し、社会的な義務や責任を逃げていった。
そして今だに彼らはそんな調子である。
子どもの世代が就職できずに、時間雇いのアルバイトで食いつなぎ続けているのを無視している。
自分の老後の悠々自適の生活だけが彼らの関心である。

もはや回復できないほど彼らの人生の可能性は傷ついてしまっている。
それは老人達の老後の犠牲になったのだ。
本来なら若者にいかにして一生続けられる職を与えてやるのかに年配者の関心がなければ行けないはずである。


機械化以前の農業では、働き手は大変重要であった。
農業が機械化され、人間が必要なくなる過程で、第2次産業が余剰の人間を吸収していった。
都市に人口が集まり、そこで子ども達は生まれ育った。
大手の企業から徐々に機械化、ロボット化していった製造業は、バブル崩壊後、合理化、リストラという言葉を錦の御旗に、従業員を削減していった。
特に新規採用を減らし続けた。
人間の代わりに機械が働いてもうけさせてくれるからである。
その利益を享受するのは団塊の世代以上だけであった。

第2次産業から多くの人間が第3次産業へ移動した。
人間がまだ必要なのは第3次産業だったからである。
工場へ就職すすはずだった人間は、今はスーパーなどの流通産業に就職した。
しかし、最終的に流通産業も極端に合理化し生き残った大手以外は消え去ったのである。
つまり、最終的に、人間が必要なくなったのだ。
ただし、接客だけはまだ人間が必要である。
だからそこはマニュアルによってアルバイトが担当するのである。
このようにして、若者は仕事を奪われ、老人がその利益に預かっている。

その老人が職のない子どもを養っている。
あと10年、あるいは20年で社会は崩壊する。
このように世代間の格差の問題として考えると、就職難は極めて絶望的な社会のゆがみの問題であり、老人が若者の未来を奪い奴隷化するという、これまで人類史上見たことのない状況であることがわかってくる。
世代間をつないでいく倫理を拒絶した団塊の世代が最終的に残したのは、こんなに無惨な状況だったのである。
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by lebendig | 2010-05-31 08:55
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